6月6日(日)午後。
4年ぶりの訪問。去年は「緊急事態宣言」があったりで足が遠のいたことも。久々にやってきました。「水元公園」もたくさんの人出でしたが、花菖蒲田圃が広く点在しているため、あまり人が気になりませんでしたが、ここはもうたくさんの人たち。三々五々、株ごとにすてきな名称が付けられた花菖蒲を楽しんでいます。
「堀切菖蒲園」。
江戸花菖蒲などの品種を伝統保存し、世話する職人の方々の熱意・心意気を強く感じます。これだけ多くの種類の花菖蒲を育てているところはここだけではないでしょうか?
下の画は、「美人堀切の遊覧」。
数多くの江戸菖蒲(200種6000株)を鑑賞できます。
(以下、「Wikipedia」参照)
江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信・歌川広重の浮世絵に登場する。歌川広重 名所江戸百景「堀切の花菖蒲」
戦前まで、この近辺には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。
昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。
明治後期のようす(「今昔マップ」より)。
○が菖蒲園のあったところ。上にある園名が記されている。ただし、「戦前まで」とあるが、「今昔マップ」ではすでに昭和初期には上記の園名は見当たらない。
まだ「荒川放水路(現荒川)」が開削される前で、→に注目!東武線が荒川放水路によって西側に大きく線路変更される前の線路になっている(まだ上野に向かう京成線はできていない)。
北西から南東、斜めに流れる水路は「旧綾瀬川」(後に、「荒川放水路」に組み込まれ、さらに「荒川放水路」に沿った流れになる)。東側に流れる用水路は葛西用水・曳舟川。
現在のようす。中央に「堀切菖蒲園」。左が「綾瀬川」と「荒川」。首都高の橋脚。かつての「堀切園」の位置とほぼ同じ。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
「堀切菖蒲園の歴史」。
長いですが。
東京の東部低地に位置する葛飾区一帯は、江戸試合に葛西三万石ともいわれる水田地帯で、稲作のほかに野菜類や花卉(草花)の栽培が盛んな地域でした。寛政6年(1794)の地誌『四神地名録』に「いろいろの草花かぎりもなき事」という記載がみられます。
堀切の花菖蒲伝来については、室町時代の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から持ち込んだのが起源という伝承があります。16世紀後半の『小田原衆所領役帳』に「窪寺」という名は見られますが、詳細は不明です。
記録に残る花菖蒲栽培の始まりは小高園の祖となる伊左衛門です。伊左衛門は父子二代にわたり、享和・文化年間(1801~1818)頃から各地の花菖蒲を収集したほか、花菖蒲愛好家で知られる旗本の松平左金吾定朝(菖翁)や、万年録三郎からも品種を入手し繁殖に努めました。
天保年間(1830~1844)になると、小高家の花菖蒲は諸大名や旗本の間え評判となります。嘉永元年(1848)には十二代将軍家慶と子の家定が鷹狩の際に立ち寄ったほか、尾張藩主徳川斉荘からは「日本一菖蒲」の画賛が贈られました。
また、初代広重などの絵師が堀切の花菖蒲を描いていることや、弘化3年(1846)に、「草花より穀物の栽培に専念すること、見物客に飲食物の提供をしない」という誓約書を代官所へ転出していることから、文人・墨客や江戸の庶民も堀切に押し寄せていたことがうかがえます。
明治維新を迎えると、幕末に日本で最初の観光花菖蒲園として開園した小高園・武蔵園に加えて、吉野園・堀切園・観花園が明治時代後期までに相次いで開園します。さらに昭和初期にかけて、四ツ木園・菖香園・(山岸)菖蒲園が開園、花菖蒲栽培農家も多数存在しました。昭和5年(1930)の日本花菖蒲協会設立時には、堀切の花菖蒲園関係者が会員の一割を占めていました。
しかし、都市化の進行に伴う水質汚染と第二次世界大戦下の影響が、花菖蒲園に及ぶようになります。昭和10年代にかけて武蔵園・吉野園などが閉園、戦争が激化すると、食糧難解消のために花菖蒲田は水田となっていきました。昭和17年(1942)の小高園の閉園により、堀切の花菖蒲栽培は一旦途絶えました。
終戦後、唯一復興した花菖蒲園が堀切園です。疎開させていた花菖蒲の株を植え戻し、昭和28年(1953)に有限会社堀切菖蒲園と名を改め営業を再開しました。その後、昭和34年(1959)に都が買収、翌年に都立堀切菖蒲園が誕生しました。当初は有料でしたが、昭和47年(1972)からは無料化されます。
そして昭和50年(1975)4月に葛飾区に移管、昭和52年(1977)には、葛飾区指定名勝に指定され、今日に至ります。現在、園内では役二百種六千株に及ぶ花菖蒲が栽培されており、その中には菖翁由来の菖翁花も含まれます。
園内図。