「親鼻橋」のたもとが、「長瀞ラインくだり・Aコース船乗場」になっています。
「親鼻橋」のたもとから荒川を離れて集落の道を進みます。


















1884年(明治17年)11月、悪徳金貸しや政府の悪政を批判し、貧民の救済を訴えておこした日本近代史上最大の農民蜂起。
「秩父困民党」軍は西南戦争で西郷軍が押したてた「新政厚徳」の旗をかかげて行進したという。
もともと秩父郡一帯は、養蚕製糸が盛んでゆたかな生活を楽しんでいたが、明治15年ごろから深刻な不況に直面し、多くの農家が高利の借金の返済不納におちいり、破産に瀕した。
17年2月、秩父に自由党が結成されると前年から運動していた上吉田村(当時)の高岸善吉・坂本宗作・落合寅市らがそれに加わって、解決の道をさぐった。
彼らは、貧民を救うために借金の10年据置き、40年々賦、学校の一時休校、諸税の減免を嘆願して農民らと運動をつづけた。
だが、官側はこれを受けつけず、金主らもこれらの要請を拒否して、いっそう苛酷な取立てを行った。
そのため、高岸はじめ井上伝蔵ら吉田の有志は17年8月、田代栄助を首領に仰いで盟約をかわし、ひそかに武装蜂起の準備をはじめた。
この事件の主力は、吉田である。
旧吉田町の加藤織平が副総理、井上伝蔵が会計長、飯塚森蔵が大隊長、以下高岸ら多くの幹部を輩出した。
組織は秩父の村々から上州にまで及んだ。
彼らは11月1日、椋神社で困民軍二大隊を編成、五ヵ条の軍律を定め、一般の住民に危害を加えることを厳しく戒めた。
11月2日、大宮郷に入って郡役所を占拠、3日荒川河畔で憲兵隊と交戦して撃退、4日・5日上州金屋と粥仁田峠で鎮台兵と交戦したが破れ、本隊は解散した。
だが、一隊は十石峠をこえて信州に転戦、9日の東馬流の戦闘を最後に潰走した。
蜂起参加者は最盛時8,000人とも10,000人ともいわれるが、有罪判決を受けた者3,390余人(最高幹部は死刑ないし無期懲役〉官憲の調書に名を残した者4,200余人、その内の約4分の1が旧吉田町の人間だった。
明治政府は、この戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられている。
この武装蜂起で発揮された秩父農民の楽天性や高揚したエネルギー、それと、より良い未来をめざした志は、今もなお多くの人びとに・感銘をあたえている。
1984年、昭和59年秩父事件百周年を迎えるや、全国でさかんな記念行事や顕彰運動が行われた。
(NHK大河ドラマ「獅子の時代」で秩父事件をとりあげている。)
(この項、「ぶらっとちちぶ―秩父観光協会―」HPより)