「壽初春大歌舞伎」 松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎襲名披露(「高麗屋三代襲名披露公演」)。
平成30年1月2日開幕 歌舞伎座。
当時、親・子・孫と三代同時の襲名披露として大きな話題になりました。
松本幸四郎改め二代目松本白鸚、市川染五郎改め十代目松本幸四郎、松本金太郎改め八代目市川染五郎の襲名披露興行。
勧進帳
歌舞伎十八番の一つ。
兄源頼朝との仲が悪くなった源義経は、武蔵坊弁慶らわずかな家来とともに、京都から平泉(岩手県)の藤原氏のもとへと向かいます。頼朝は平泉までの道すじに多くの関所を作らせ、義経をとらえようとします。『勧進帳』は、義経たちが加賀国の安宅の関所(石川県)を通過する時の様子を歌舞伎にしたものです。義経一行は山伏に変装して関所を通過しようとします。ところが関所を守る富樫左衛門は、義経たちが山伏に変装しているという情報を知っていたので、一行を怪しんで通しません。そこで弁慶は、何も書いていない巻物を勧進帳と見せかけて読み上げます。
勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物です。いったんは本物の山伏一行だと信じて関を通した富樫ですが、中に義経に似た者がいる、と家来が訴えたため、呼び止めます。
変装がばれないようにするために、弁慶は持っていたつえで義経を激しく叩きます。
それを見た富樫は、その弁慶の痛切な思いに共感して関所を通すのでした。
初代市川團十郎が元禄時代にこの場面を演じました。しかしその時の台本が残っていなかったこともあり、7代目團十郎が新しく作り直しました。1840年(天保11年)のことです。7代目團十郎は、衣裳や舞台装置などを新しくするために能を参考にしました。背景は能の舞台をまねて松羽目にし、衣裳も能に近づけました。その後9代目團十郎が得意とし、現在に受け継がれています。
弁慶の演技には、最後の飛び六方に代表される荒事の豪快さだけでなく、はっきりしたセリフ回しや舞踊の技術が必要で、座頭の役として特に大事にされています。 また伴奏の長唄は、代表的な三味線音楽の一つとして知られています。
(あらすじ解説は、「」HPより)
華やかな舞台に感動。
「荒川を遡る」で玉淀にあった「雀宮公園」は、歌舞伎の名優・七代目松本幸四郎の別邸跡地。
雀亭をかたどった四阿。
解説板。
幸四郎は、恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格のある舞台で、時代物、荒事に本領を発揮しました。特に、九代目市川団十郎の直系の芸である「勧進帳(かんじんちょう)」で弁慶を演じては、彼の右で出る者はなく、生涯を通じて1600余回演じ、不朽の演技として後世に語り継がれることに。
幸四郎は、1949(明治24)年に80歳で亡くなり、子に十一代目市川団十郎、八代目松本幸四郎、二代目尾上松緑、孫に九代目松本幸四郎(現:二代目松本白鸚)、また、十代目松本幸四郎、松たか子は曾孫に当たる。