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Channel: おやじのつぶやき
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秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その4。彩甲斐街道。寄居橋。波久礼駅。(「荒川」を遡る。第7日目。)

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   「玉淀ダム」から住宅地や田畑の中を通って、再び「彩甲斐街道」へ。

          

右手は「秩父鉄道」、貨物列車が通過中。

  けっこう交通量多し。

彩甲斐街道(「国道140号線」)

埼玉県北部の熊谷市から同県秩父地方を経由して山梨県都甲府市に至り、1993年に編入された区間を経て同県富士川町の国道52号交点に達する。国道に指定されてから1998年までのおよそ半世紀にわたり、埼玉・山梨両県の間に不通区間を抱えていたが、雁坂トンネルの開通に伴って往来が可能となった。雁坂トンネルが開通するまで雁坂峠の前後区間で登山道が国道指定されており、「開かずの国道」と呼称されていた(点線国道)(「wikipedia」より)

遠くに「かんぽの宿」(↓)。

どこか懐かしく、自然あふれる秩父路でやすらぎを感じる

ゆるやかな時間が流れ、やすらぎを感じる秩父路は、高速道路を利用すれば都心からわずか90分。
寄居町は自然に囲まれた城下町で、地名は「人が寄る町」に由来しているといわれています。
温泉は1999年に開湯した寄居町唯一の天然温泉で、展望露天風呂からは秩父の山並みを遠望できます。

 

(この項、「」HPより)

「かんぽの宿」は、郵政民営化のときに全施設の売却か存続かで大もめにもめたことがありました。売却問題でさまざまな疑惑が生じたことも。すっかりなくなったものだと思い、世間でも話題にもならなくなりましたが、日本郵政によって今でも運営されている施設があるのを知りました。しかし、立地条件が悪かったり、利用客の減少や施設の老朽化など多くの問題を抱えているようです。

この先で「寄居」ともお別れ。

「寄居橋」。

寄居橋が開通する以前は「金尾の渡し」と呼ばれる私設の渡船場で対岸を結んでいた。 この渡船場は「殿倉の渡し」とも呼ばれ、いつから設立していたかは定かではないが、秩父往還が通っていた頃より存在した古くからある渡船場であった。冬から春にかけての船の運航が困難となる減水期は長さ20間(約36.36メートル)、幅4尺(約1.21メートル)の土橋による仮橋を架設していた。渡船賃は地元住民は「人手米」と称した、年払いで米麦などの農作物を一定量納めた事で無料で利用できた。 この渡船場は1947年(昭和22年)の寄居橋の完成により廃止され、1964年(昭和39年)の玉淀ダムの完成により渡船場跡は玉淀湖の底に水没している。

金尾の渡し。

 

旧寄居橋(吊り橋・1947年の橋)と玉淀ライン下り

市町村道の改修の一環として寄居橋が旧正喜橋に酷似した鋼製吊り橋として1946年(昭和21年)に竣工され、1947年(昭和22年)12月開通した。橋長89.9メートル、幅員3.9メートル、支間長89メートル。橋の両入口に進入制限用のポールがあり、高さ制限は3.0メートルで、重量制限は2トンである。主塔は段丘崖上の両岸に設けられた基礎の上に設けられ、鋭角な四角錐状の形状で鋼製のトラス構造を持ち、桁は鋼補剛トラス構造で床版は木製である。桁の両側には耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鋼ケーブルが設けられている。 下部工は直接基礎である。単径間の橋で側径間は有していない[20]自転車牛車の他、自動車の通行も可能であった。ただし、重量制限のため、橋には車は1台しか入れなかったこの橋は県管理の最後のつり橋で地元では撤去を惜しむ声あったが、1985年の橋が暫定開通した後に撤去された。

(この項、「Wikipedia」参照)

右手に「波久礼駅」。

 駅の前の荒川は、玉淀湖になっています。駅名は破崩・端崩(はぐれ)の地名から取り、波久礼駅と命名されました。「崩れやすい崖」が由来のようですが、諸説あるようです。映画のロケでも使われるローカルな趣の駅。

駅前の観光案内板。キジの絵(○)が。


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