線路脇の緑道に入ります。亀の姿が。ここから東武熊谷線跡の遊歩道。
「百米塚」。終点まで続くのでしょうか?
まだ左手には旧線路が続いていますが、この先、秩父鉄道の構内へ?
枝垂れ桜が地面すれすれまでたくさん咲いています。
こちらにも八重桜。(撮影時:4月10日)
緑豊かな遊歩道。動物のモニュメント。
ポツンと一本、ポールが。かつては踏切の信号機だったようですが・・・。
広場風のところへ。
駅舎風の休憩所。ここに駅はありませんでした。
その先、機関車風のコンクリート製の建物。
「かめ号」、「熊谷 妻沼」。1989年に建てたもの。
そこから振り返る。
レールをかたどった柱に「かめのみち」。
ここまで「熊谷線」また「かめのみち」に関しての解説板がまったくありません(気がつかなかっただけかもしれませんが)。できたら、かつての様子も含め、解説がほしいところです。
石碑。「紫・・」。どういういわれがあるのでしょうか?
通りを渡って、広いところへ。
正面に小高い丘、その向こうに「JR線」。
線路の向こうに「クマガヤ」という植栽。
熊谷線はJRを跨線橋で越えていました。線路は向こう側に延びていきます。
線路の向こうへ行くのには、ぐるっと回らなければなりません。今回はここまで。機会があったら、終点の妻沼まで行ってみます。
2010年代のようす。遊歩道は、手前から始まる。
帰りは、秩父鉄道「石原駅」から。待っていると、SLが通過していきました。
C58363(シゴハチ サンロクサン)は、かつて東北地方などの旧国鉄(現在のJR)で活躍したSLです。
1972年に現役引退後は、吹上町立吹上小学校の校庭で小学生と一緒にのんびりと余生を送っていましたが、さいたま博覧会(1988年3月19日から5月29日まで熊谷市で開催)にあわせて「SL運行を!」の声があがり、その大役にC58363が抜擢されたのです。
1987年に車籍を復活。1988年に秩父路のSLパレオエクスプレスとして誕生しました。

「パレオ」は秩父地方におよそ2000万年前に生息していた海獣パレオパラドキシアにちなんだ名前です。
パレオパラドキシアとはラテン語で「昔の不思議な動物」という意味があるそうです。大昔、秩父地域は海の底にあったことが数々の化石により証明されていますが、その中でもパレオパラドキシアの化石は珍しく、世界でも数体しかありません。
その貴重な文化遺産から「パレオ」を、急行を意味する「エクスプレス」とあわせて、「パレオエクスプレス」という愛称が生まれました。
※パレオパラドキシアの骨格復元像が「埼玉県立自然の博物館」(上長瀞駅下車徒歩5分)に展示されています。
(以上、「秩父鉄道」HPより)
孫を誘って乗ってみようかな、と。
補足:旧中山道歩きのとき、「国道17号線」で交差した「かめの道」。
「日産サティオ」裏手の公園にあります。「かめのみち」。機関車も描かれています。
「国道17号線」を越えて続く「熊谷線跡」。
さて、今日は、「立夏」。立夏は春分と夏至のちょうど中間にあたる。この頃には、以下のように時期の移り変わりの三段階で、
「蛙始鳴」。(かわずはじめてなく)水田で初めて蛙が鳴くのを聞く時期。オスが求愛のために鳴いているとも。
「蚯蚓出」。(みみずいづる)土から蚯蚓が出てくる時期。冬眠していた蚯蚓が活動を始める。
「竹笋生」。(たけのこしょうず)たけのこが土から顔を出す時期。この場合のタケノコは、細目のマタケなどをさすようだ。
とされています。
また、「端午の節句」でもあります。
旧暦では午の月は5月にあたり、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった。
端午節に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは中国の南朝梁・隋朝の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある。
日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる。
鎌倉以降の時代になると、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また、菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされたと仮説されている。そして男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、現在に至る典型的な祝い方である(ただし「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。
江戸時代まで、端午の日に子供は河原などで石合戦をする「印地打ち」という風習があったが、負傷者や死亡者が相次いだために禁止となった。また、印地打ちが禁止になった後、菖蒲を刀の代わりにした「菖蒲切り」というチャンバラが流行した。
端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。
なお、男の赤ん坊をもつ家庭にとっては初節句となるため、親族総出で盛大に祝われることも多い。特に、家意識が強い地域ではその傾向が顕著である。・・・
(この項、「Wikipedia」より)
今年は(去年も)、新型コロナ感染症の蔓延のため、東京、大阪などでは「緊急事態宣言」が発出され、思うように行き来や会食などはできません。せめて、菖蒲湯とか柏餅くらいは、ささやかに。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」(山口素堂)のごとく、初鰹で一杯! てなわけには、なかなか、いかないご時世です。