押切橋。
橋の全長は1,339.13メートルで、埼玉県においては上江橋、幸魂大橋に次いで長く、埼玉県管理の県道に架かる橋梁としては最長である。
押切橋は幾度となく架け直された過去がある。流失と架け替えが繰り返された理由として、押切の名が示す通りこの地域は大水(洪水)の常襲地帯で、堤を押し破ることからこの名がつけられ、このような立地から上流からの砂礫や流木等によって橋の傷みが激しかったことが挙げられる。また架橋技術などの問題から、3代目まで木橋が続いたことも要因のひとつと言える。「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも呼ばれる)の扇頂に近く、国土地理院の「治水地形分類図」を参照すると周辺に無数の旧流路が主に北東方向に乱流していたことが分かる。
冠水橋が架けられる以前は、押切の渡しと呼ばれる、大麻生村と押切村を結ぶ村道に属する私設の渡船であった。渡船がいつから存在したかは定かではないが、1876年(明治9年)頃までには存在したとされる。渡船は人用と馬用が1艘ずつの2隻を有し、管理運営は地元地域で行い、渡船賃(通行料)は徒歩は二厘、馬は五厘を徴収していた。また、大正時代は徒歩は大人一人二銭を徴収していた。冬場などで流量が減少し、渡河が困難な時期は仮橋を架設していた。また、渡し場を利用した荷馬車業者による物資の輸送も盛んであった。1919年(大正8年)、道幅の狭い木桁橋の冠水橋が架設された。
渡船は押切橋の完成とともに一応廃止されたが、大水の際に橋が流失するなどして通行不能となった場合は復旧までの間、臨時に渡船を運航していた。
1954年(昭和29年)に橋長231.4メートルの木桁橋の冠水橋が架設された。また、この橋の開通によって渡船は完全に廃止された。
1959年(昭和34年)8月、橋長231.8メートル、幅員3.6メートルのコンクリート製(桁部一部木製)の冠水橋に架け直された。普通自動車の幅しかなく橋上での行き違いが不可能なため、交互通行で両岸から互いの様子を見計らいながらゆずりあって渡ったことも久下橋と同様であった。この橋は1961年(昭和36年)頃の洪水による流失をはじめ、(たびたび)通行不能となった。 1991年の永久橋(現在の橋)の開通と共に、1919年以来より続いた冠水橋は通行止めになり惜しまれつつも撤去された。
(この項、「Wikipedia」参照)
1880年代のようす。橋はかなり南に。 2010年代のようす。長い橋。ゴルフ場内に旧道の一部が。
案内標。「←荒川(川原明戸河原)」「→大麻生駅」。
堤防の上を進みます。散歩する人、ジョギングする人、数人と行き違うのみ。
前方が開け、秩父の山々が。
右の方には遠く上州の山々が。
梅に紅白の花。
荒川の流れが見え始めます。