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Channel: おやじのつぶやき
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JR「西浦和」駅~「指扇」駅。その4。「大宮けんぽグラウンド」。治水橋。びん沼・川。(「荒川」を遡る。第2日目。)

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広々とした河川敷。振り返る。

右手にラグビーグランド。奥の並木がすばらしい。野球場やテニスコートも何面も。「大宮けんぽグラウンド」。

広大な敷地にさまざまなグランドやテニスコート。

     

当運動場はさいたま市の北西部荒川治水橋下左岸河川敷に位置し、主に業種別健康保険組合、民間企業が共同で運営する総合運動場です。
広さ約23万坪を誇り、この広大な敷地に野球場52面、テニスコート106面その他サッカー・ラグビー場等様々な施設を有し、会員団体を始め、一般の方々にも広くご利用いただいております。

(この項、「大宮けんぽグラウンド」HPより)

遠くに「治水(じすい)橋」。

         

荒川が現在の位置を通るようになったのは1926年大正15年)5月17日のことである。明治時代から続いた河川改修の一環で、直線化で取り残された旧川の曲線部はびん沼(今のびん沼川)となり、新しい川には渡船場が置かれ有料の賃渡船が運行されたが1927年(昭和2年)に県営化された。渡船場は「馬宮の渡し」と呼ばれ、治水橋とほぼ同じ場所に位置していた。治水橋の開通により渡船場は1934年(昭和9年)に廃止された。(「Wikipedia」より)

                                                                          2010年代のようす。蛇行している川が元の荒川の流れ(「びん沼(川)」。左下の流れは、「新河岸川」。中央の橋が「治水橋」。(「歴史的農業環境システム」より)

「治水橋」に関わることを紹介。(以下、「荒川上流河川事務所」HPより)

びん沼は、荒川の河川改修で取り残された旧荒川の一部です。荒川の河川改修は大正期から1945(昭和20)年代にかけて、洪水対策として蛇行していた川筋を直線化する形で実施されました。そして、その河川改修、治水事業を推進したのは、旧荒川(びん沼)のほとりに実家のあった斎藤祐美です。

斎藤祐美(さいとうゆうび・1866(慶応2)~1943(昭和18)年)

現在さいたま市西区となっている北足立郡馬宮(まみや)村飯田新田で代々続く外科医の次男として生まれました。
家業を継ぐべく医学生として勉学に励んでいた1890(明治23)年、荒川の氾濫で自宅周辺が水没するのを目の当たりにし、病気や怪我以前に水害で命の危機に曝されている故郷を安全な地とすべく、新聞記者を経て政治家となりました。
明治の終わりから大正時代を経て昭和の始めまで、通算7期27年間埼玉県議会議員を務め、途中副議長を1期、議長を3期歴任しています。
利根川・荒川の両河川の洪水にしばしば見舞われていた埼玉県では、1910(明治43)年の大水害を期に埼玉治水会が結成されました。斎藤祐美は両河川の改修を県議会活動を通じて埼玉県だけでなく、帝都・東京府や国をも動かし、特に荒川の直線化・拡幅および放水路建設等の推進に中心となって尽力をつくしました。
斎藤祐美は「治水翁」呼ばれ、荒川に架かる治水橋(治水翁に因む)のたもとには功績をたたえる彰功碑が建っています。

「横堤」の一部が残っている。

サクラソウの自生地。

「治水橋」。荒川を越す橋脚はどこも見上げるほど高い。

サイクリングロード。

          振り返る。

 

「西遊馬公園」を過ぎ、右手の土手に上がる。

眼下に指扇の街並み。

この先を右に下って行くと、JR「指扇」駅に。

     「丸堀」。

「埼玉栄高校野球グラウンド」が広がる。

「埼玉栄高校」といえば、相撲部が有名。豪栄道・貴景勝・妙義龍・北勝富士などの出身校。

野球部も強豪チーム。

ここを下ってJR川越線「指扇」駅へ。

今回は、ここまで。結局、最後まで荒川の流れは見えませんでしたが、けっこう変化に富んだ歩きでした。「サクラソウの自生地」はもう一度訪問したいところです。


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