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Channel: おやじのつぶやき
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「日本橋川」その4。湊橋。茅場橋。鎧橋。または、「首都高」地下化計画。

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               「湊橋」。二番目の橋。

ここで、「日本橋川」「神田川」「外濠」の全容を。             (「」HPより)

 

  

この橋は、霊巌島(現在の新川地区で通称こんにゃく島と呼ばれていた。注:埋め立て地で地盤がゆるかったため、「こんりゃく」といわれた)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679年)に架けられました。

 この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋をはさんだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。

 橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。

 現在の橋は、関東大震災の復興期に再建されたもので、平成元年度の整備事業において、装いを新たにしました。

橋脚の真ん中には、帆かけ船をデザインした徽章。

「隅田川」方向を望む。「豊海橋」が見える。

「日本橋」方向。首都高の橋脚が林立。

この先、川を望むのか、首都高の橋脚を眺めるのかって感じになってしまうわね。

首都高の地下化計画が始まったようだけど。

・・・

日本橋川上空の首都高速は1964年の東京オリンピック前に建設され、半世紀以上が経過。1日約10万台の自動車が走行して損傷が激しいため、神田橋JCT(ジャンクション)付近(千代田区内神田2丁目)から、江戸橋JCT付近(中央区日本橋小網町)にかけての延長約1.8kmの構造物を更新、地下化する事業を進める。

 日本橋川周辺は国家戦略特区の都市再生プロジェクトとして多くの再開発計画が立ち上がっており、首都高速の日本橋区間地下化事業や、東京都の「補助第96号線整備」も、周辺の計画と連携しながら景観・環境改善に向けて推進しているところだ。

 日本橋区間地下化事業では、地下埋設物移設や常盤橋出入口・呉服橋出入口・江戸橋出入口撤去などを経て、地下化工事の準備が完了。日本橋川の水位を下げ、地上から地盤を掘削、支障となる橋脚の移設などを行ない、シールドマシンによるトンネルの掘削が終わるのが2035年ごろ。そして高架橋の撤去工事が2040年ごろに終わる予定だ。

(この項、「トラベルWatch」HPより)

(「首都高速道路日本橋区地下化事業」HPより)

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/bd/13f6cd19a0b4b65fb6109bcd406ec502.jpg">

20年先か、う~ん、まだまだ先なのね。

「箱崎料金所」。

「茅場橋」。

上流を望む。

「新大橋通り」にある橋。さりげないモニュメント。

                     1880年代のようす。「茅場橋」はない。

                     2010年代のようす。橋の頭上には「首都高」。

 

次が「鎧橋」。

鎧橋が最初に架かったのは明治5年(1872年)で、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。橋が架けられたのと前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。

 その後、明治21年(1888年)には鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。

 その頃の様子を文豪 谷崎潤一郎は「幼少時代」でこんな風に書いています。

 「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・

 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・

 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」

 現在の橋は昭和32年(1957年)7月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。

 橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。

橋の名前に由来するのは、「鎧の渡し」。「鎧」と「兜」で対になっているわけね。向かいの兜町側に由来の示す碑が建てられているみたい(未確認)。

「Wikipedia」で補足するわ。

この付近は、古くはの生い茂る沼地で、江戸時代徳川家康江戸城築城計画に合わせて埋め立てられた。橋が架かる以前は、渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいた。鎧の名の由来には2通りの言い伝えがある。一つは源頼義が奥州討伐の際にこの場所で暴風雨に遭い、自分のを海中へ投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ風がおさまったのが始まりとする説、もう一つは平将門と鎧を奉納したのが由来とする説である。

鎧の渡しは50 mほどの渡しで、賃料は1人1文、武士僧侶山伏医者は無料だった。『市中取締類集』に嘉永3年(1850年江戸町奉行へ賃料の値上げを訴えた記録があり、鎧の渡しの実態を知ることが出来る。これによると極印のある渡し船は2艘、水主(船頭)は4人(1人・日給150銭+飯料150銭)、運賃の受け取り役である渡銭は2人(1人・日給53銭+飯料150銭)。有料利用者数は1ヶ月3万7千人で、近くにある無料の江戸橋を利用する者も多かったことを考えると、1日1200人以上の有料利用者数はかなり多いといえよう。しかし、人件費だけで歳出の85%に達しており大幅な赤字だった。特に支出を圧迫している水主の給金を減らそうにも日本橋川筋は特に通船数が多く、人件費が嵩んでも腕の良い船頭を選ばざるを得ない事情があったようだ。

初代の橋が架けられたのは1872年明治5年)で、三井・小野・島田の3人の豪商が費用を出し合って建設された。周辺は江戸時代から米問屋や酒問屋が多く、1871年第一国立銀行本店、1878年には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が開設されるなど商業の町として発展した。1888年(明治21年)4月7日にトラス橋に架け替えられ、路面電車が走るようになった。1915年(大正4年)に拡幅工事が行われたが、1946年昭和21年)には老朽化により本橋の都電の通行を終了。1957年(昭和32年)7月には、現在のゲルバー桁橋に架け替えられた。

『名所江戸百景』「鎧の渡し小網町」。歌川広重画。谷崎が描いたように、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。

川向こうに「東京証券取引所」。頭上は、「首都高」で覆われている。

 

都電が通っていた頃の「鎧橋」と現在。

「ぺんてるビル」がこの奥に。クレヨン、サインペン、シャープペンシル・・・。けっこうお世話になっているわよね。

さて先に進みますか。次は「江戸橋」かな。その前にとっておきの建物を紹介するわね。


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