「永代橋」。
やっと「隅田川」と「日本橋川」の合流点に着いたわね。向こうに見えるのが、「永代橋」ね。昔は、この付近にあったのよね。
1880年代のようす。「永代橋」。 2010年代のようす。下方は佃島。
けっこう眺めはいいわね。川風もまた、よしか。
永代橋
元禄11年(1698)に架橋された木造の永代橋は、現在の「永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれていたことからと名づけられたようですが、一説には5代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名づけられたとも伝えられています。江戸時代には橋桁が高く取られたこともあり、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく眺望よし」などといわれるほど、の美しい景色が広がっていました。
歌川広重が江戸後期に描いた「東都名所永代橋全図」には、隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、高尾稲荷社へ参詣する人々の姿などももいられ、詩情豊かな情景が描かれています。
なお、永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897)のことで、道路橋としては初めてとなる鋼鉄橋に生まれ変わりました。その後、関東大震災で被災したため、大正15年(1897)に現在の橋へと架け替えられました。上流に架かる清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重厚感あふれる永代橋は、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。
歌川広重「東都名所永代橋全図」
「隅田川」と「日本橋川」付近の賑わい。
右奥が佃島、対岸には深川新地とあり、永代橋が深川八幡宮への道であると共に、深川の街並みが南にも広がっていったことがよくわかる。佃島沖には、帆を降ろした大型の弁財船が停泊し、荷を移した小舟が隅田川の上流へと帆を上げている。永代橋が太鼓橋になっていて、帆掛け船が通過できるようになっている。
栄泉「東都永代橋之景」。
でも、悲劇があったのよね、文化4(1807)年には深川八幡の祭礼に向かう混雑で橋桁が落下し、1,500人余りが溺死したって話し。詳しくは「Wikipedia」を参照してね。
文化4年8月19日、深川富岡八幡宮で12年ぶりの祭礼日(深川祭)が行われた。久しぶりの祭礼に江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せた。また、一橋家の船が永代橋を通過する間、橋を通行止めにしたのも混乱に拍車をかけたと伝わる。ところが、詰め掛けた群衆の重みに橋が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ちた。だが後ろからの群衆は崩落に気が付かず続々と押し寄せ、崩落部分から雪崩をうつように転落した。
御船手組や佃島の漁師までが救援に駆けつけて必死に救出作業を行ったが、数日前の雨の影響で水質が良くなかった事もあって救助は難航、溺れた者の中にはそのまま行方知れずになった者もいた。事故の翌日の記録として、救助された者780名でうち440名が亡くなっていたとされている。また、遺体の確認も混乱を極め、家族が誤った遺体を引き取ってしまう例も発生した。・・・
死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超える大惨事となった。これは史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が下記の狂歌や『夢の憂橋』を著している。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
また、町中に貼られた落書の中に以下の句が記されていたと伝えられている。
御祭へ 行のの道は 近けれど まだだしも見ず 橋の落たて
曲亭馬琴は『兎園小説余録』に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている。
また、当時の逸話として様々な話が伝えられているがその一つとして、本郷の麹屋の主人が祭礼を見ようと永代橋に向かう途中でスリに2両2分が入った袋を盗られたのに気づき、「金が無いのに祭りを見ても仕方がない」と思って帰宅したために事故に巻き込まれずに済んだ。ところが翌日に奉行所から主人の遺体が上ったので確認に来るように命令があり、主人が奉行所に自分は無事に帰宅した旨を申告すると役人は主人の名前が記された2両2朱が入った袋を証拠として見せた。主人からその袋を盗られて見物を諦めて帰宅したという話を聞いた役人は「恐らく、スリが盗みの後に見物に行こうとして永代橋から落ちて溺死したのだろう」と述べて、主人に袋を返すとそのまま帰宅させたという。
落橋事故後、交通の要衝としての橋の維持に幕府も理解を示し、再び架橋された。
また、深川木場の材木問屋が深川万年町(当時、現在の江東区深川)の海福寺に犠牲者の供養塔を建立した。その後、海福寺そのものが現在の目黒区に移転したため、供養塔も一緒に移転されている。
ということね。
そうそう、赤穂義士が本所の吉良邸から泉岳寺へ引き上げる時に渡った橋としても有名よね。
ちょっと待ってよ! この付近に「日本銀行創業の地」碑があったんじゃない。
奥に「日本IBM箱崎ビル」。
明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
創業百周年を記念してこの碑を建てる
昭和五十七年十月
日本銀行総裁 前川春雄
「アベノミクス」という、ジャブジャブ金融緩和の主役よね、日銀。景気回復・デフレ脱却を至上命令にして、ゼロ金利。結局金余りになって、株式市場に大がかりに投資。今や、一番の株主になっているみたいよ。
年金の資金なんかもどんどんつぎ込んでいるらしいし、株が暴落したらどう責任をとってくれるのかしらね。
「年金は減額します」、でも「自助」で乗り越えて下さい、ってことになるの。
国の借金は増えるばかりだし、「今さえよければ」「自分(たち)さえよければ」ってやり方、いつか破綻するわよね。
その責任、借金返済は、後世の人にすべてかぶせてしまうわけ。
今の株高だって、一般の生活感覚とはずいぶん離れている感じがするわよね、まるで実体経済と合ってないような気がするわ。
結局、金持ち優遇政策だったのよね。お金持ちには「共助」なんて考え、まるでないわよ。持たざる者、人にあらず、じゃね。
「隅田川」、「日本橋川」、「亀島川」に囲まれたところが、「霊岸島」ね。
ここは、「Wikipedia」をお借りするわね。
この地域は、もとは平川(元の神田川)の派川・八丁堀川の河口に面した隅田川の中洲で、江戸中島とよばれていた。徳川家康による江戸の普請によって中島を埋め立てた。霊岸橋の南側の亀島川側から永代橋の南側へかけて霊岸島を掘削し、これが後に「新川」の通称で呼ばれるようになった。新堀を隔てた北側を箱崎島(現・日本橋箱崎町)、南側を霊岸島といった。さらにさらにその南側にも小規模なコの字型の堀が福井藩邸を囲むようにあり、こちらは「越前堀」と呼ばれた。霊岸島の呼称は、かつて八丁堀北東の一州にあった霊巌寺に因むが、明暦の大火で寺は深川へ移り、跡地に町家が成ったとされる。
八丁堀へつながる新堀は、さらに西の道三堀、飯田堀へと続く日本の江戸時代における海運の要であり、越前堀には御船手組屋敷が並び、霊岸島の南端には船見番所が置かれていた。また木場につながるこの地には船大工が多く住み、河岸には酒問屋が多く集まったという。・・・
そこは、かつて歩いたことがあるわよね。
1880年代のようす。赤丸が「豊海橋」(当時は「木橋」か?)。すぐ東、隅田川に架かる橋は、「永代橋」。中央の○が「越前堀公園」「明正小」付近。下の○が「越前堀」下流。上流の部分はすでに埋め立てられている。中央の水路が「新川」。左端、霊岸島を取り囲むように流れている「亀島川」に合流する水路が「八丁堀(桜川)」。
2010年代のようす。島の縦横に幹線道路。