「新川」。旧江戸川との接点で大規模な水門の工事中。
松戸・江戸川河岸で船に積まれた魚や野菜などは「江戸川」を下り、「新川」を経て、「小名木川」、「日本橋川」と運搬され、日本橋の市場に到着しました。また、行徳の塩や近郊野菜なども運ばれ、江戸市中の台所を賄いました。
そこで、「新川」、「小名木川」と探索してみます。船旅という企画・コースもあるようですが、今回は自転車編。
まず、「新川」編。都営新宿線「一之江」駅から南下します。「新中川」沿いに進み、「旧江戸川」に。その先で「新川」へ。
新川の歴史
江戸時代──「塩の道」新川
新川は、天正18年(1590年)、江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されるとともに、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。現在では、鉄道や車などの移動手段が変化したことや、水門で区切られたことで船の就航はなくなりましたが、都市空間の中の貴重な水辺としてとして活用されています。 天正18年(1590)行徳の塩を江戸へ廻送するため舟運が始まる 寛永6年(1629)三角渡し(現在の三角橋)以東が開削され新川と呼ばれるようになる 寛永9年(1632)幕府特許の客船「長渡船」就航 明治・大正時代──蒸気船運航
明治時代になると利根運河が完成し、蒸気船が運航を開始。最初に登場したのは長距離路線で、東京 - 銚子間を結び、成田参詣の客に人気となりました。総武鉄道の運行と共に短距離路線へと移り変わり、「通船」と呼ばれる小型の乗合蒸気船が運航を始め、浦安と江東区の高橋の間を往復していました。
昭和時代──運河から憩いの水辺へ
昭和に入ると荒川放水路が完成。1928年(昭和3年)に葛西橋、1940年(昭和15年)に浦安橋が完成。時代は徐々に陸上交通に移って行き、東に大きく流れを変えた中川と荒川の合流部には船堀閘門が設けられました。
新川は東西の両端を水門で閉鎖し、東水門から導水して西水門から排水することで水位を低下させ一定に保つようになりました。新川は船の就航は行われなくなり、1979年(昭和54年)に船堀閘門も閉鎖されましたが、都市空間の中の貴重な水辺として親しまれてきました。
平成時代──新しい集いと憩いの川辺づくり「新川千本桜計画」
1992年(平成4年)からは、東京都による護岸工事・耐震工事が行われ、新川の地下には日本初の河川地下駐車場である新川地下駐車場が作られました。
江戸川区では歴史あふれる新川を地域の人々の心の故郷・誇りとしていつまでも慈しんでいただけるよう『新川千本桜計画』を開始しました。新川の全長約3キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間の創出を図っています。 「江戸川区 新川さくら館」はその中心部に位置し、新川の歴史を伝えるとともに、訪れる人びとの交流の拠点づくりを目指して運営を行っております。
(この項、「」HPより)
1880年代のようす。
2010年代のようす。
※「旧江戸川」にある島は、「妙見島」。
工事の概要。「新川東水門」工事。
「新川口橋」から東を望む。「新川東水門」。
橋のたもとの公園から西を望む。
解説・案内図。「新川千本桜」。
かつて、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ至る流路がありました。天正18年(1590年)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め、行徳まで、道三堀・小名木川と共に開が計画され、実行されました。
寛永6年(1629)には、現在の新川橋辺りから東側が新たに開削され、今では全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
新川は江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本から様々な物資を運び、客船が行き交う重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わってきました。
しかし、昭和に入り、荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われなくなりました。さらに、高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され、人々の生活から遠い存在となってしまいました。
その後、平成5年より耐震護岸整備・親水河川化や新川千本桜整備が進められ、都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。
新川千本桜
平成19年4月から、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を始めました。新川の全長約3キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創設のために江戸情緒あふれる川辺づくりや南北地域の和がいっそう広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間を創出しました。
春には20種、718本の桜が遊歩道を行き交う人々の目を楽しませているそうです。
左の浮世絵は「名所江戸百景 利根川ばらばら松」歌川広重
この利根川は現在の江戸川(旧江戸川)です。場所は新川東水門付近か妙見島あたりといわれています。帆船や筏が通航し、松が風趣を添えていました。大きく投網が描かれています。
公園の傍らに「新川梨」について。
享和(1800年頃)のとき、大塚宗蔵は新川の南で梨の栽培を始めた。改良を重ね文政4年(1821年)の秋収穫した梨を幕府に献上し好評を得、その後も毎秋幕府に納めた。
この梨は、甘く柔らかく歯切れがよく天下にない味覚で「新川梨」と呼ばれ江戸の町でも売られ、新川周辺で栽培も広まったが大正6年(1917年)の大水害で被害を受け、その後梨栽培は衰退した。
文政8年(1825年)宗蔵の子吉豊は父の一周忌にあたり業績を刻んだ石碑「楽誉君梨種梨樹碑」を梨園に建てた。
この碑は、現在大塚家の菩提寺今井の浄興寺に移されている。
平成27年3月 江戸川区
さて、西に向かって出発です。