3月15日(日)。晴れ。木更津から「房総往還」歩き。
外出も控えめに。「房総往還」歩きの記録がしばらく途絶えていたので、掲載します。3週間前くらいの歩きなので、サクラなどちょっと景色が異なっていると思いますが。
「曲尺手」。右折し、すぐ左折します。
右手に蔵造りの建物が並んでいます。
旧家のよう。
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「矢那川」に架かる「証誠寺橋」の手前奥に「証誠寺」が。境内左手にには野口雨情作詞・中山晋平作曲の狸囃子「童謡碑」。
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詩人で童謡作詞家であった野口雨情が千葉県木更津市を訪れた際、童謡の題材にと木更津市内の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」を提供されたことを契機に作詞を行い児童雑誌「金の星」1924年(大正13年)12月号で発表。その後、中山晋平がその歌詞を元に改作し曲を付けて児童雑誌「金の星」1925年(大正14年)1月号で発表した。
證 證 證城寺
證城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ
皆(みんな)出て 來い來い來い
己等(おいら)の友達ァ
ぽんぽこ ぽんの ぽん
負けるな 負けるな
和尚さんに 負けるな
來い 來い 來い
來い 來い 來い
皆出て 來い來い來い
證 證 證城寺
證城寺の萩は
ツ ツ 月夜に 花盛り
己等は浮かれて
ぽんぽこ ぽんの ぽん
中山の詞は最初の出だし「しょ、しょ、しょうじょうじ〜♪」に見られるように、同じ音の繰り返しを多用する事でリズミカルで軽快な音楽になっている。野口の表記は漢字表記で「証城寺の狸囃子」としているが、児童向けの童謡であることから「しょうじょうじの狸ばやし」とひらがな表記にしている場合もある。
1929年(昭和4年)に平井英子が歌い、ヒットした(発売はビクターレコード)。戦後から1960年までにレコード売上は17万枚に達し、ロングヒットを続けている。
「証城寺」という表記について
本曲は木更津市富士見に実在する寺「證(証)誠寺」の狸囃子伝説を元としているが、じょうの表記に正規の誠ではなく城の字を用いているのには諸説ある。
①野口が作詞の際に参考にした文献『君不去』でしょうじょうじの表記が間違っており、それに気付かずそのまま紹介してしまったため。
②歌詞を読んだ寺の関係者から「住職がタヌキと一緒に踊るなんてことがあるはずがなく不敬である」という抗議があったため。
③最初から意図的に城の字を使ったことによる。証城寺と表記し歌に登場する寺を架空の場所であると位置づけることで、特定の地域の単なる民謡とするのではなく全国の子供たちに歌ってほしいという意図から。
カバー曲
1946年(昭和21年)から放送された東京中央放送局(のちのNHK)のラジオ番組「英語会話」(講師は平川唯一)では、テーマソングとして『証城寺の狸囃子』の替え歌『Come Come EveryBody』(カムカム エブリボディ)が使用された。このラジオ番組はその主題歌から「カムカム英語」とも呼ばれた。
・・・
1955年(昭和30年)、アメリカ人エンターテイナーのアーサー・キット(Eartha Kitt)が『証城寺の狸囃子』を『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)』という題名でカバー(英詞:Bill Walsh)。
当時日本で20万枚近くを売り上げ、文化放送『ユア・ヒット・パレード』でチャート1位を記録するなど、当時の日本における洋楽アーティストの楽曲としては大ヒットになった。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)
アーサー・キットの『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)』は、子供心に覚えています。独特の節回しで印象深い曲でした。
奥まったところに「狸塚」。![]()
境内の入口には、解説板。![]()
証誠寺の狸塚
この辺りが昼でも暗いほど茂っていた昔のこと、寺の和尚さんが夜中に目をさますと庭の方が大変賑やかです。そっと節穴からのぞいて見ますと、外は月夜で昼間のようです。
折から秋のこととて萩の花盛り、ところが驚いたことには大小の狸が数十匹が輪になり、
証誠寺山のペンコポペン
俺等の友達やドンドコドン
と腹を打ちながら踊っています。和尚さんもついおもしろくなり一緒になって踊りました。
こうして毎晩踊りましたが或夜狸たちが全く姿を消してしまったので不思議に思って居りますとかわいそうにもお腹をたたき破って藪の中で死んでいました。
和尚さんはこの友達をあわれに思ってねんごろに葬ってやったのがこの狸塚です。
この伝説が野口雨情先生によって狸ばやしの童謡が生まれ更に中山晋平先生の作曲により今や天下に広まりました。
「矢那川」を渡って南に向かいます。![]()
なかなか風情のある看板建築。![]()
こちらはなまこ壁がすてき。
静かな通り。![]()
大通りを越えて南へ。![]()
海岸に関わりのありそうな地名。
「「貝渕」バス停。
この付近の今昔
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1880年代のようす。○が「証誠寺橋」。「貝淵」という地名がある。
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2010年代のようす。西側の海岸は埋め立てられ、塩浜地区となっています。
丁字路を右折した先に「貝渕陣屋」跡(「木更津県庁」跡)がありますが、省略。
「国道16号線」を越えます。
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来た道を振り返る。![]()
関東をぐるりと囲む幹線道路の「国道16号線」。街道歩きではしばしば出会います。その路線、この先、思いがけない場所で終了します(便宜上)。
桜井新町に入って右手からの道に合流。旧道はそのまま「鳥田川」を渡っていましたが、消失、川の向こうで旧道が復活します。
外出も控えめに。「房総往還」歩きの記録がしばらく途絶えていたので、掲載します。3週間前くらいの歩きなので、サクラなどちょっと景色が異なっていると思いますが。

右手に蔵造りの建物が並んでいます。


「矢那川」に架かる「証誠寺橋」の手前奥に「証誠寺」が。境内左手にには野口雨情作詞・中山晋平作曲の狸囃子「童謡碑」。

詩人で童謡作詞家であった野口雨情が千葉県木更津市を訪れた際、童謡の題材にと木更津市内の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」を提供されたことを契機に作詞を行い児童雑誌「金の星」1924年(大正13年)12月号で発表。その後、中山晋平がその歌詞を元に改作し曲を付けて児童雑誌「金の星」1925年(大正14年)1月号で発表した。
證 證 證城寺
證城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ
皆(みんな)出て 來い來い來い
己等(おいら)の友達ァ
ぽんぽこ ぽんの ぽん
負けるな 負けるな
和尚さんに 負けるな
來い 來い 來い
來い 來い 來い
皆出て 來い來い來い
證 證 證城寺
證城寺の萩は
ツ ツ 月夜に 花盛り
己等は浮かれて
ぽんぽこ ぽんの ぽん
中山の詞は最初の出だし「しょ、しょ、しょうじょうじ〜♪」に見られるように、同じ音の繰り返しを多用する事でリズミカルで軽快な音楽になっている。野口の表記は漢字表記で「証城寺の狸囃子」としているが、児童向けの童謡であることから「しょうじょうじの狸ばやし」とひらがな表記にしている場合もある。
1929年(昭和4年)に平井英子が歌い、ヒットした(発売はビクターレコード)。戦後から1960年までにレコード売上は17万枚に達し、ロングヒットを続けている。
「証城寺」という表記について
本曲は木更津市富士見に実在する寺「證(証)誠寺」の狸囃子伝説を元としているが、じょうの表記に正規の誠ではなく城の字を用いているのには諸説ある。
①野口が作詞の際に参考にした文献『君不去』でしょうじょうじの表記が間違っており、それに気付かずそのまま紹介してしまったため。
②歌詞を読んだ寺の関係者から「住職がタヌキと一緒に踊るなんてことがあるはずがなく不敬である」という抗議があったため。
③最初から意図的に城の字を使ったことによる。証城寺と表記し歌に登場する寺を架空の場所であると位置づけることで、特定の地域の単なる民謡とするのではなく全国の子供たちに歌ってほしいという意図から。
カバー曲
1946年(昭和21年)から放送された東京中央放送局(のちのNHK)のラジオ番組「英語会話」(講師は平川唯一)では、テーマソングとして『証城寺の狸囃子』の替え歌『Come Come EveryBody』(カムカム エブリボディ)が使用された。このラジオ番組はその主題歌から「カムカム英語」とも呼ばれた。
・・・
1955年(昭和30年)、アメリカ人エンターテイナーのアーサー・キット(Eartha Kitt)が『証城寺の狸囃子』を『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)』という題名でカバー(英詞:Bill Walsh)。
当時日本で20万枚近くを売り上げ、文化放送『ユア・ヒット・パレード』でチャート1位を記録するなど、当時の日本における洋楽アーティストの楽曲としては大ヒットになった。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)
アーサー・キットの『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)』は、子供心に覚えています。独特の節回しで印象深い曲でした。
奥まったところに「狸塚」。

境内の入口には、解説板。

証誠寺の狸塚
この辺りが昼でも暗いほど茂っていた昔のこと、寺の和尚さんが夜中に目をさますと庭の方が大変賑やかです。そっと節穴からのぞいて見ますと、外は月夜で昼間のようです。
折から秋のこととて萩の花盛り、ところが驚いたことには大小の狸が数十匹が輪になり、
証誠寺山のペンコポペン
俺等の友達やドンドコドン
と腹を打ちながら踊っています。和尚さんもついおもしろくなり一緒になって踊りました。
こうして毎晩踊りましたが或夜狸たちが全く姿を消してしまったので不思議に思って居りますとかわいそうにもお腹をたたき破って藪の中で死んでいました。
和尚さんはこの友達をあわれに思ってねんごろに葬ってやったのがこの狸塚です。
この伝説が野口雨情先生によって狸ばやしの童謡が生まれ更に中山晋平先生の作曲により今や天下に広まりました。
「矢那川」を渡って南に向かいます。

なかなか風情のある看板建築。


静かな通り。

大通りを越えて南へ。

海岸に関わりのありそうな地名。

この付近の今昔




1880年代のようす。○が「証誠寺橋」。「貝淵」という地名がある。




2010年代のようす。西側の海岸は埋め立てられ、塩浜地区となっています。
丁字路を右折した先に「貝渕陣屋」跡(「木更津県庁」跡)がありますが、省略。


来た道を振り返る。

関東をぐるりと囲む幹線道路の「国道16号線」。街道歩きではしばしば出会います。その路線、この先、思いがけない場所で終了します(便宜上)。
桜井新町に入って右手からの道に合流。旧道はそのまま「鳥田川」を渡っていましたが、消失、川の向こうで旧道が復活します。

