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Channel: おやじのつぶやき
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黒門小。防空壕。奉安殿。・・・(震災復興52小公園。番外編。その3。)

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※「www.maroon.dti..jp/ne~satton/kyouiku/matutiyamael.html」より。但し、「黒門小」HPによると、校歌の制定は、昭和5年となっている。


1880年代のようす。赤丸に「黒門町」とある。右上が「広小路」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)

?黒門小学校
 明治43年5月7日創立。江戸時代から日本を代表する繁華街である上野をそっくり学区域に持つ小学校で、校舎は、今は都内でも少なくなった、いわゆる震災復興校舎(昭和5年竣工)を、大きく手を加えることなく現在も使用している。建築当初からある地下の防空壕と二宮金次郎像もそのまま残っている[1]。
 現校舎建築当初から平成元年まで使っていた旧体育館には、戦前に御真影を安置していた奉安殿が残っていたが[2]、体育館の改築とともに消滅した。
 ・・・卒業生のほぼ8割から9割が私立・国立の有名中学に進学しており、公立小学校の名門として都内や近県からの区域外就学児童が在校している。
 上野にある小学校として、上野公園内にある文化施設との連携・協力も密にしており、地の利を生かした教育活動を実践している。同窓会も活発で、黒門小学校育ての会(PTA組織)や地域との連携しながら黒門小学校の教育活動や児童の為に活動している。

《脚注》
1. 防空壕は、入口が特殊な場所にあって施錠されており、普段はまったく人の出入りがないこともあり、中は昔の雰囲気がよく残っている。建設当時のものと思しき、壁を碍子一つで伝う裸電線に電灯、昭和30年代の生徒の手によると思しき落書きなどが残る。学校の正面玄関を入って左右に行くと、同じ1階であるにもかかわらず、廊下を進むのに不自然にも若干の階段を登らなければいけないのは、上げ底となった部分の下に防空壕があるからである。

2. 舞台の奥に大理石で囲まれ、複雑なレリーフが施された大きな木の引き戸があり、扉を開けた奥行き僅かなスペースが奉安殿として使われていた。戦後は、学校教育から国体思想が排除されたことに伴って奉安殿として使うことを止め、全面を緞帳で覆って存在を隠し、運動会の入退場門を収納するなどの大物用倉庫としてひっそりと使っていた。
 (以上、「Wikipedia」より)この、2つとも興味深い記事です。

正面玄関。
玄関部分の装飾は、この時代らしいアールデコ調のデザイン。
校舎西側。こちらが当時のモダンスタイルの窓。丸窓が連続して設けられている。
北西の角。大きな曲線を描く。階段室。
校舎東側。大きくごつそうな窓。空調などの配管が目に付くが。

図書室。(どちらも「黒門小」HPより)。内部は撮れないので、お借りしました。
 壁の丸くなったレイアウトなどが、学んだ高校の古い校舎(1960年代)の構造とよく似ているので、懐かしくなりました。おそらく天井も、今の小学校の校舎よりも高いと思われます。
南側から。校庭。コの字型の校舎配置。

 上野広小路の繁華街西側のすぐ裏手。路地を入ると、周囲のモダンな建物と比べ、かなり古く重々しい印象の建物があるとは! そして、現在も現役で活躍している校舎があるのは、すばらしいことです。周囲をぐるっと回って、喧噪の街中に・・・。

付1 「防空壕」(ぼうくうごう)とは、敵方の航空機の攻撃(空爆、機銃掃射)及びミサイル攻撃から避難するために地下に造られた施設。日本では第二次世界大戦中に、アメリカ軍をはじめとする連合国軍機による銃後への大規模空襲が現実のものとなり、空襲の危険から逃れるため、1944年頃から学校の校庭、強制疎開跡の空き地、個人宅内などに大量に作られるようになる。空襲警報が鳴ると、身近なところに造られた防空壕に身を隠した。(「Wikipedia」より)

付2 「奉安殿」(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物。御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される(小学校の奉安殿建築は1935年頃に活発化)。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。
 四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。
 当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の話がいくつか美談として伝えられている。このため、さらに万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。(「Wikipedia」より)


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