春風とはいいがたい冷たさの中で。
この付近の今昔。
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1880年代のようす。右上の堀割は「山谷堀」。下の流れは「北十間川」。「隅田川」の両岸が現在の隅田公園。
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2010年代のようす。隅田川に架かる橋は、上から「桜橋」、「言問橋」、「東武線鉄橋」。
「菜の花」。
雪洞が揺れる土手沿い。![]()
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「牛嶋神社」の常夜燈。![]()
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・竹屋の渡し (注:上の古地図では「今戸の渡し」とも表記)
「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島・三囲(みめぐり)神社を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。
「言問だんご」。解説板。
言問団子と郡司大尉
江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振る舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都鳥 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群集で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。
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郡司成忠大尉
万延元年11月17日~大正13年8月15日(1860~1924)
東京生まれ。海軍軍人。父は幕臣、弟は小説家幸田露伴。明治5年(1872)海軍兵学寮に入校。26年(1893)海軍大尉として予備役に入り報効義会を組織し、千島樺太交換条約により日本領とされた千島列島を探検。最北端の占守島(シュムシュ島)に入植し、漁場の開拓にあたった。翌年日清戦争従軍のため帰還。日露戦争ではカムチャツカに侵入しロシア軍に捕われ、戦後帰国。第一次大戦にはシベリアで特殊任務に従事した。
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(写真は「Wikipedia」より)
この付近の今昔
1880年代のようす。○が「言問団子」と「墨堤通り」付近。
2010年代のようす。かつての墨堤通りを残している。上はアサヒビール関連会社。
この付近の今昔。




1880年代のようす。右上の堀割は「山谷堀」。下の流れは「北十間川」。「隅田川」の両岸が現在の隅田公園。




2010年代のようす。隅田川に架かる橋は、上から「桜橋」、「言問橋」、「東武線鉄橋」。


「菜の花」。
雪洞が揺れる土手沿い。


「牛嶋神社」の常夜燈。



・竹屋の渡し (注:上の古地図では「今戸の渡し」とも表記)
「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島・三囲(みめぐり)神社を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。

言問団子と郡司大尉
江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振る舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都鳥 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群集で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。

郡司成忠大尉
万延元年11月17日~大正13年8月15日(1860~1924)
東京生まれ。海軍軍人。父は幕臣、弟は小説家幸田露伴。明治5年(1872)海軍兵学寮に入校。26年(1893)海軍大尉として予備役に入り報効義会を組織し、千島樺太交換条約により日本領とされた千島列島を探検。最北端の占守島(シュムシュ島)に入植し、漁場の開拓にあたった。翌年日清戦争従軍のため帰還。日露戦争ではカムチャツカに侵入しロシア軍に捕われ、戦後帰国。第一次大戦にはシベリアで特殊任務に従事した。

(写真は「Wikipedia」より)
この付近の今昔

