(11:51)旧街道(北一商店街通り)は「環八通り」の上に出ます。
「大山道標」。![]()
下練馬の大山道道標
旧川越街道とふじ大山道の分岐点に宝暦3年(1753)8月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王像は後に制作されたものです。
江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。
東高野山道標
「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台3丁目の長命寺への道しるべです。長命寺は紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。
この二つの道標は、環状8号線の工事により元の位置から8㍍ほど西側に移動し、現在の場所に設置されたものです。
移転前は、相模の大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面から来る人々のため、東南東の向きに置かれたいました。現在は見学しやすいように向きを変えています。
不動明王像の台座には「従是大山道 天下泰平 国土安全」「ふじ山道 田なし三里 府中え五里」と刻まれています。
「環八通り」を越えた右手には脇本陣、さらにその先には本陣跡がありますが、脇本陣の内田家は工事中。
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相変わらず商店街が続きます。歳末大売り出しの最中。![]()
しきりにアナウンスで景品の種類が「足軽」とか「旗本」とか言っているようですが聞き取れず。
浅間神社には「旧川越街道」の解説板。![]()
旧川越街道
この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いた頃、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。
江戸時代には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一役かいました。
下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南に折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継ぎの問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。
この神社には「富士塚」が残っています。![]()
ここにも解説板。![]()
旧川越街道
・・・「栗より(九里四里)うまい十三里」は、川越芋の宣伝文句として有名ですが、江戸・川越間は、九里足す四里の計十三里(約51キロメートル)でした。・・・
「北町上宿公園」。![]()
・・・宿場町は上宿・中宿・下宿に分かれ、現在の北町2丁目付近は「上宿」と呼ばれていたことから、現地名の「北町」と合わせこの公園名を「北町上宿公園」としました。
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(12:19)「下練馬宿」を出ると、「国道254号線」に合流します。![]()
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地下鉄「赤塚」駅付近で昼食休憩。駅手前に「庚申塚」。![]()
(13:03)再開。武者姿のモニュメント。
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「鎌倉古道 至 はやせ 至 かまくら」。 (注:「はやせ」は、荒川の渡し名。対岸の戸田へ渡る。)
(13:16)その先には「小治兵衛窪庚申尊」。![]()
庚申塔
庚申庚申 (かのえさる)の日に、近隣の人々が集まり豊作や健康を祈る行事を庚申待庚申待という。この供養に立てたのが庚申塔庚申塔である。
この塔の正面には六手を持った青面金剛青面金剛 が陽刻してある。手に弓矢、宝剣を持ち、頭髪は上指て三猿三猿の上に座っている。座像彫刻は比較的珍しい塔である。右面には武州豊嶋郡狭田領上赤塚村とあり、左面には天明3癸卯(みずのとう)年2月吉日と刻んである。庚申様は道祖神道祖神として交通安全や町内安全の守り神ともなっている。
このあたりは「小治兵衛久保」という地名で呼ばれていた。また、「橋を作ってくれた盗人小治兵衛」の民話が残っている。この民話と共に古くから残る庚申塔は一度は松月院松月院に永代供養永代供養を依頼した時期もあったが、成増成増南町会周辺の数少ない史跡として、再びこの地に安置し、町民の心の支えとして、末永くお祭りすることにした。
昭和63年1月吉日 成増南町会氷川神社管理運営委員会
以下は「Google Earthで街並散歩(江戸編)」
ストリートビューと「ウィキペディア(Wikipedia)」で東京(江戸名称)の街並を見てみよう。のHPから引用します。
・・・
小治兵衛窪の地名の起こりについては、次のような伝説がある。
昔ここを流れていた百々向(すずむき)川に一本の丸木橋が架けられていた。とてもさびしい場所で、毎晩のように強盗が出没し、通行人から恐れられていた。
ある朝立派な橋が架け替えられていて、橋のてすりに「たくさんの悪いことをしたので、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていた。その後は便利になったばかりか強盗も出なくなったというものである。 (「小治兵衛窪庚申尊 成増2-6」より)
・・・
昔、ここを流れていた百々向川に1本の丸太橋が架けられていましたが、毎晩のように強盗が出没し、1本橋ゆえ逃げ場がないため、村人からはたいそう恐れられていたそうな。ある朝、立派な橋に架け替えられていて、橋の手すりに「たくさんの悪いことをしたので、罪滅ぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていたそうな・・
小治兵衛窪付近にはかつて、共同の洗い場があって付近の農家が野菜を洗っていたといいます。(「スリバチブログ – 小治兵衛窪という名の二級スリバチ」より)
「国道254号線(現川越街道)」。
「成増」駅を過ぎ、下り坂になると、旧道は右の道を進みます。
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だんだん国道との高低差が出てきます。![]()
旧道は一気に下って行きます。坂の途中に道祖神や地蔵などが集められています。
(13:29)坂道を振り返る。
旧道をしばらく進むと、埼玉県和光市に入ります。次の「白子宿」へ向かいます。
道沿いのおうち。
「大山道標」。

下練馬の大山道道標
旧川越街道とふじ大山道の分岐点に宝暦3年(1753)8月、下練馬村講中によって建てられた道標です。上部の不動明王像は後に制作されたものです。
江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。
東高野山道標
「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台3丁目の長命寺への道しるべです。長命寺は紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。
この二つの道標は、環状8号線の工事により元の位置から8㍍ほど西側に移動し、現在の場所に設置されたものです。
移転前は、相模の大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面から来る人々のため、東南東の向きに置かれたいました。現在は見学しやすいように向きを変えています。
不動明王像の台座には「従是大山道 天下泰平 国土安全」「ふじ山道 田なし三里 府中え五里」と刻まれています。
「環八通り」を越えた右手には脇本陣、さらにその先には本陣跡がありますが、脇本陣の内田家は工事中。

相変わらず商店街が続きます。歳末大売り出しの最中。

しきりにアナウンスで景品の種類が「足軽」とか「旗本」とか言っているようですが聞き取れず。
浅間神社には「旧川越街道」の解説板。

旧川越街道
この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いた頃、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。
江戸時代には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一役かいました。
下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南に折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継ぎの問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。
この神社には「富士塚」が残っています。

ここにも解説板。

旧川越街道
・・・「栗より(九里四里)うまい十三里」は、川越芋の宣伝文句として有名ですが、江戸・川越間は、九里足す四里の計十三里(約51キロメートル)でした。・・・
「北町上宿公園」。

・・・宿場町は上宿・中宿・下宿に分かれ、現在の北町2丁目付近は「上宿」と呼ばれていたことから、現地名の「北町」と合わせこの公園名を「北町上宿公園」としました。

(12:19)「下練馬宿」を出ると、「国道254号線」に合流します。


地下鉄「赤塚」駅付近で昼食休憩。駅手前に「庚申塚」。

(13:03)再開。武者姿のモニュメント。


「鎌倉古道 至 はやせ 至 かまくら」。 (注:「はやせ」は、荒川の渡し名。対岸の戸田へ渡る。)
(13:16)その先には「小治兵衛窪庚申尊」。

庚申塔
庚申庚申 (かのえさる)の日に、近隣の人々が集まり豊作や健康を祈る行事を庚申待庚申待という。この供養に立てたのが庚申塔庚申塔である。
この塔の正面には六手を持った青面金剛青面金剛 が陽刻してある。手に弓矢、宝剣を持ち、頭髪は上指て三猿三猿の上に座っている。座像彫刻は比較的珍しい塔である。右面には武州豊嶋郡狭田領上赤塚村とあり、左面には天明3癸卯(みずのとう)年2月吉日と刻んである。庚申様は道祖神道祖神として交通安全や町内安全の守り神ともなっている。
このあたりは「小治兵衛久保」という地名で呼ばれていた。また、「橋を作ってくれた盗人小治兵衛」の民話が残っている。この民話と共に古くから残る庚申塔は一度は松月院松月院に永代供養永代供養を依頼した時期もあったが、成増成増南町会周辺の数少ない史跡として、再びこの地に安置し、町民の心の支えとして、末永くお祭りすることにした。
昭和63年1月吉日 成増南町会氷川神社管理運営委員会
以下は「Google Earthで街並散歩(江戸編)」
ストリートビューと「ウィキペディア(Wikipedia)」で東京(江戸名称)の街並を見てみよう。のHPから引用します。
・・・
小治兵衛窪の地名の起こりについては、次のような伝説がある。
昔ここを流れていた百々向(すずむき)川に一本の丸木橋が架けられていた。とてもさびしい場所で、毎晩のように強盗が出没し、通行人から恐れられていた。
ある朝立派な橋が架け替えられていて、橋のてすりに「たくさんの悪いことをしたので、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていた。その後は便利になったばかりか強盗も出なくなったというものである。 (「小治兵衛窪庚申尊 成増2-6」より)
・・・
昔、ここを流れていた百々向川に1本の丸太橋が架けられていましたが、毎晩のように強盗が出没し、1本橋ゆえ逃げ場がないため、村人からはたいそう恐れられていたそうな。ある朝、立派な橋に架け替えられていて、橋の手すりに「たくさんの悪いことをしたので、罪滅ぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていたそうな・・
小治兵衛窪付近にはかつて、共同の洗い場があって付近の農家が野菜を洗っていたといいます。(「スリバチブログ – 小治兵衛窪という名の二級スリバチ」より)

「成増」駅を過ぎ、下り坂になると、旧道は右の道を進みます。


だんだん国道との高低差が出てきます。

旧道は一気に下って行きます。坂の途中に道祖神や地蔵などが集められています。


旧道をしばらく進むと、埼玉県和光市に入ります。次の「白子宿」へ向かいます。
道沿いのおうち。
