「佐賀橋」。
11月23日(祝)。快晴。あと2回で完結するつもりの「日光千人同心街道」。
このところ、軟弱路線でゆとりある行程。今回は忍宿(行田)の街並みを通ります。時間的には今回もさほど掛からずに。
(9:04)前回の終了地点。左に曲がると、旧中山道に合流します。
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西に進む「旧中山道」とほんのわずか重複します。![]()
「吹上本町」交差点の手前を左に折れるのが「千人同心街道」。![]()
「吹上本町」で左折する旧中山道(正面の道)。
南東を望む。「中山道」という標識あり。
「日光千人同心街道」。
「佐賀橋」の下を流れるのは「元荒川」。かつての荒川本流。桜並木。![]()
(9:14)上流にある「新佐賀橋」は土木学会推奨の土木遺産。
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土木遺産 新佐賀橋
竣 工 昭和8年(1933)
構造形式 鉄筋コンクリートアーチ橋
認定理由 元荒川では珍しいアーチ型の橋で、開腹式アーチ構造が美しく、親柱や高欄に花びら風の装飾が施されている また、川とのふれあいの場として、ランドマークになっていることが評価された
エピソード かつて行田市にあった陸軍演習場の視察に訪れる皇族が橋を渡るため、豪華な外観に仕上げられたと伝えられている
住宅地を抜け、「国道17号線(現「中山道」)」を横断、「県道66号線」に合流します。
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周囲が開けて田んぼが広がります。高架線は「上越新幹線」。
新幹線が通過中。
(9:28)ほどなく変わった名前の橋、「がんがら大橋」。前身は「雁柄橋」と呼ばれた石橋だった、とか。
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下に流れる用水は「がんがら落とし」という農業排水路。![]()
「がんがら大橋」の親柱は変わった形をしていて、左岸側には蓮の花、右岸側にはコスモスの花が描かれています。それぞれが行田市と吹上町のシンボルとなっています(「古代蓮の里」=行田市、「荒川コスモス街道」=吹上町)
歩道上には、かつてこの路線(行田と結んでいた)を運行していた「忍馬車鉄道(のち「行田馬車鉄道」)」の様子を描いたプレートがはめ込まれています。
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行田馬車鉄道
吹上村にて(大正初期)
行田馬車鉄道(ぎょうだばしゃてつどう)は、かつて埼玉県北足立郡吹上村(現在の鴻巣市)の国鉄高崎線吹上駅前から、現在の行田市中心部までを結んでいた馬車鉄道線である。
1901年(明治34年)6月に日本鉄道吹上停車場から行田を経て長野村に至る馬車鉄道が開業した。創業時は忍馬車鉄道。発起人は忍町(行田市)の橋本甚五郎ら15名で北埼玉郡忍町行田(行田市)の青縞卸商や足袋製造業者が中心となって設立した。
1905年(明治38年)5月、忍馬車鉄道の経営陣は新たに行田馬車鉄道を設立し前会社の事業を引き継いで経営したが、1922年(大正11年)に北武鉄道(後の秩父鉄道秩父本線)の開通によって会社に大きな影響を受けた。
1922年(大正11年)12月には行田 - 鴻巣間に乗合自動車の営業を開始し、1923年(大正12年)馬車鉄道を廃止して乗合自動車専業となり社名を行田自動車と改めた。 (以上、「Wikipedia」参照)
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1880年代のようす。馬車鉄道ができる前。 2010年代のようす。上方では旧道は失われている。道の付け替えがあったか。
東に向かいます。直線道路が続きます。馬車鉄道が走っていた道?
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「国道17号線(熊谷バイパス)・前谷」交差点歩道橋からの眺め。
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「歩道橋」下で振り返ると、屋根の向こうに真っ白な富士山が意外に大きく(↓)。
街道際に大きな「常夜燈」。![]()
(9:59)「忍宿(行田)」の街中に入って行きます。明治中期以降、江戸当時の旧道も失われているようです。
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1880年代のようす。○が右折点。 2010年代のようす。
11月23日(祝)。快晴。あと2回で完結するつもりの「日光千人同心街道」。
このところ、軟弱路線でゆとりある行程。今回は忍宿(行田)の街並みを通ります。時間的には今回もさほど掛からずに。
(9:04)前回の終了地点。左に曲がると、旧中山道に合流します。


西に進む「旧中山道」とほんのわずか重複します。

「吹上本町」交差点の手前を左に折れるのが「千人同心街道」。

「吹上本町」で左折する旧中山道(正面の道)。

「日光千人同心街道」。

「佐賀橋」の下を流れるのは「元荒川」。かつての荒川本流。桜並木。

(9:14)上流にある「新佐賀橋」は土木学会推奨の土木遺産。



土木遺産 新佐賀橋
竣 工 昭和8年(1933)
構造形式 鉄筋コンクリートアーチ橋
認定理由 元荒川では珍しいアーチ型の橋で、開腹式アーチ構造が美しく、親柱や高欄に花びら風の装飾が施されている また、川とのふれあいの場として、ランドマークになっていることが評価された
エピソード かつて行田市にあった陸軍演習場の視察に訪れる皇族が橋を渡るため、豪華な外観に仕上げられたと伝えられている
住宅地を抜け、「国道17号線(現「中山道」)」を横断、「県道66号線」に合流します。

周囲が開けて田んぼが広がります。高架線は「上越新幹線」。


(9:28)ほどなく変わった名前の橋、「がんがら大橋」。前身は「雁柄橋」と呼ばれた石橋だった、とか。


下に流れる用水は「がんがら落とし」という農業排水路。

「がんがら大橋」の親柱は変わった形をしていて、左岸側には蓮の花、右岸側にはコスモスの花が描かれています。それぞれが行田市と吹上町のシンボルとなっています(「古代蓮の里」=行田市、「荒川コスモス街道」=吹上町)
歩道上には、かつてこの路線(行田と結んでいた)を運行していた「忍馬車鉄道(のち「行田馬車鉄道」)」の様子を描いたプレートがはめ込まれています。

行田馬車鉄道

行田馬車鉄道(ぎょうだばしゃてつどう)は、かつて埼玉県北足立郡吹上村(現在の鴻巣市)の国鉄高崎線吹上駅前から、現在の行田市中心部までを結んでいた馬車鉄道線である。
1901年(明治34年)6月に日本鉄道吹上停車場から行田を経て長野村に至る馬車鉄道が開業した。創業時は忍馬車鉄道。発起人は忍町(行田市)の橋本甚五郎ら15名で北埼玉郡忍町行田(行田市)の青縞卸商や足袋製造業者が中心となって設立した。
1905年(明治38年)5月、忍馬車鉄道の経営陣は新たに行田馬車鉄道を設立し前会社の事業を引き継いで経営したが、1922年(大正11年)に北武鉄道(後の秩父鉄道秩父本線)の開通によって会社に大きな影響を受けた。
1922年(大正11年)12月には行田 - 鴻巣間に乗合自動車の営業を開始し、1923年(大正12年)馬車鉄道を廃止して乗合自動車専業となり社名を行田自動車と改めた。 (以上、「Wikipedia」参照)








1880年代のようす。馬車鉄道ができる前。 2010年代のようす。上方では旧道は失われている。道の付け替えがあったか。
東に向かいます。直線道路が続きます。馬車鉄道が走っていた道?


「国道17号線(熊谷バイパス)・前谷」交差点歩道橋からの眺め。


「歩道橋」下で振り返ると、屋根の向こうに真っ白な富士山が意外に大きく(↓)。
街道際に大きな「常夜燈」。

(9:59)「忍宿(行田)」の街中に入って行きます。明治中期以降、江戸当時の旧道も失われているようです。




1880年代のようす。○が右折点。 2010年代のようす。

