「長島記念館」の先で土手にぶつかり、荒川の広大な河川敷となります。目の前には1,000㍍以上もあるという、日本一長い「荒川水道橋」。
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1880年代のようす。街道は幅の狭かった荒川を渡し船で渡り、吹上方面に向かいました。
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2010年代のようす。まったく様変わりしている荒川河川敷。整備され流路変更されているようです。長く延びているのが「荒川水道橋」。
土手に上がり、上流にある「大芦橋」を渡り、対岸へ。「大芦橋」は「和田吉野川」と「荒川」との二つの川、さらに河川敷を越える長大な橋。
自転車道の案内板。![]()
(14:01)「大芦橋」。![]()
県道の熊谷市側から進むと、まず緩い上り勾配で和田吉野川を渡河し、次いで和田吉野川と荒川を隔てる背割堤と、鴻巣市大芦との市境である荒川の河道跡が残る河川敷を跨ぎ、最後に荒川を渡河する橋梁である。荒川を越えた後も広大な河川敷がしばらく続き、600メートルほど進むと左岸堤防に至る。河口から68.4 kmの地点に架かる全長1,016.0メートル、総幅員10.5メートル、有効幅員9.0メートル(車道7.0メートル、歩道2.0メートル)・・・。
歴史
冠水橋の旧大芦橋(昭和30年代)
大芦橋が開通する以前は木造の冠水橋(かんすいきょう)、さらに以前の昭和初期頃迄は橋はなく、いつから存在していたかは定かではないが、八王子千人同心道(日光脇往還)に属する「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船で対岸を結んでいた。・・・
大正時代には渡船場の川上側に仮橋が架設されていた。また、大芦の渡しのすぐ下流側には松山道に属する「五反田の渡し」と呼ばれる私設の渡船が設けられ、こちらも渡船場に河岸が併設され、冬季には川下側に仮橋が架設されていた。
昭和初期頃架設された冠水橋は橋脚、橋桁共に木製で現在の橋の300メートル下流の荒川のみに架けられ、和田吉野川を渡るには抜水橋である吉見橋を渡る必要があった。冠水橋は北足立と大里を結ぶ重要な交通路となっていたため、洪水で不通となるたびに緊急事態になり復旧までの間、水量がまだ相当ある中、緊急に仮橋が架けられ、この様なことはのちの永久橋が架けられるまで何度も繰り返された。1949年(昭和24年)8月にはキティ台風で流失し、1965年(昭和40年)5月の台風で損壊し、3か月後の8月22日台風17号の洪水で相次いで流失した。
1966年に架け替えられた旧大芦橋(1966年)![]()
現在の大芦橋は1979年(昭和54年)10月に竣工した。河川敷は左岸(鴻巣市側)に広くとられている。その広い河川敷を活用した農地の他、運動場や軽飛行機の発着場等のレクリエーション施設がある。毎年秋には左岸堤防(荒川花街道)や河川敷でコスモス祭りが行われ、開花期は行楽客で賑わう。春季はコスモスが植えられていた場所にポピーの花を見ることもできる。
(以上、「Wikipedia」参照)
「鴻巣市」に。![]()
「荒川」。川幅はさほどではありませんが、河川敷が大きく広がっています。![]()
1,000㍍以上もある橋で渡りきるのに15分以上かかりそうです。
振り返る。
橋の下流にある水道橋も長い、長い。![]()
眼下に田畑が広がっています。![]()
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やっと渡り終えて土手下の道を進み、旧道に復帰します。![]()
(14:22)「医王寺」(青い屋根のお寺)付近から旧道が復活するようです。
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1880年代のようす。 2010年代のようす。」↑が「医王寺」。→が旧道。
「右 松山道 左 五反田かし(河岸)」。
住宅地をくねくね曲がりながら進みます。
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(14:34)「なんでもや」さん。昔よくあった万屋(よろずや)さん?![]()
左手にある秋池家の板塀が珍しい。舟板を転用したものだそうです。
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(14:47)JR高崎線の踏切に近づきます。![]()
「松山街道踏切」。地元では今たどってきた道をそう呼んでいるようです。
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右手には「吹上」駅。![]()
街道はこの先、左手の細い道に進みますが、今回はここまで。
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1880年代のようす。○が中山道との合流点。 2010年代のようす。
斜めの直線は鉄道。 右手下に「吹上」駅。
注:「吹上」宿は間の宿として賑わったところ。
(14:51)そのまままっすぐ進み「旧中山道」を右に曲がり「吹上」駅に向かいます。
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1880年代のようす。街道は幅の狭かった荒川を渡し船で渡り、吹上方面に向かいました。




2010年代のようす。まったく様変わりしている荒川河川敷。整備され流路変更されているようです。長く延びているのが「荒川水道橋」。
土手に上がり、上流にある「大芦橋」を渡り、対岸へ。「大芦橋」は「和田吉野川」と「荒川」との二つの川、さらに河川敷を越える長大な橋。
自転車道の案内板。

(14:01)「大芦橋」。

県道の熊谷市側から進むと、まず緩い上り勾配で和田吉野川を渡河し、次いで和田吉野川と荒川を隔てる背割堤と、鴻巣市大芦との市境である荒川の河道跡が残る河川敷を跨ぎ、最後に荒川を渡河する橋梁である。荒川を越えた後も広大な河川敷がしばらく続き、600メートルほど進むと左岸堤防に至る。河口から68.4 kmの地点に架かる全長1,016.0メートル、総幅員10.5メートル、有効幅員9.0メートル(車道7.0メートル、歩道2.0メートル)・・・。
歴史
冠水橋の旧大芦橋(昭和30年代)

大芦橋が開通する以前は木造の冠水橋(かんすいきょう)、さらに以前の昭和初期頃迄は橋はなく、いつから存在していたかは定かではないが、八王子千人同心道(日光脇往還)に属する「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船で対岸を結んでいた。・・・
大正時代には渡船場の川上側に仮橋が架設されていた。また、大芦の渡しのすぐ下流側には松山道に属する「五反田の渡し」と呼ばれる私設の渡船が設けられ、こちらも渡船場に河岸が併設され、冬季には川下側に仮橋が架設されていた。
昭和初期頃架設された冠水橋は橋脚、橋桁共に木製で現在の橋の300メートル下流の荒川のみに架けられ、和田吉野川を渡るには抜水橋である吉見橋を渡る必要があった。冠水橋は北足立と大里を結ぶ重要な交通路となっていたため、洪水で不通となるたびに緊急事態になり復旧までの間、水量がまだ相当ある中、緊急に仮橋が架けられ、この様なことはのちの永久橋が架けられるまで何度も繰り返された。1949年(昭和24年)8月にはキティ台風で流失し、1965年(昭和40年)5月の台風で損壊し、3か月後の8月22日台風17号の洪水で相次いで流失した。
1966年に架け替えられた旧大芦橋(1966年)

現在の大芦橋は1979年(昭和54年)10月に竣工した。河川敷は左岸(鴻巣市側)に広くとられている。その広い河川敷を活用した農地の他、運動場や軽飛行機の発着場等のレクリエーション施設がある。毎年秋には左岸堤防(荒川花街道)や河川敷でコスモス祭りが行われ、開花期は行楽客で賑わう。春季はコスモスが植えられていた場所にポピーの花を見ることもできる。
(以上、「Wikipedia」参照)
「鴻巣市」に。

「荒川」。川幅はさほどではありませんが、河川敷が大きく広がっています。

1,000㍍以上もある橋で渡りきるのに15分以上かかりそうです。

橋の下流にある水道橋も長い、長い。

眼下に田畑が広がっています。


やっと渡り終えて土手下の道を進み、旧道に復帰します。

(14:22)「医王寺」(青い屋根のお寺)付近から旧道が復活するようです。




1880年代のようす。 2010年代のようす。」↑が「医王寺」。→が旧道。

住宅地をくねくね曲がりながら進みます。


(14:34)「なんでもや」さん。昔よくあった万屋(よろずや)さん?

左手にある秋池家の板塀が珍しい。舟板を転用したものだそうです。


(14:47)JR高崎線の踏切に近づきます。

「松山街道踏切」。地元では今たどってきた道をそう呼んでいるようです。

右手には「吹上」駅。

街道はこの先、左手の細い道に進みますが、今回はここまで。


1880年代のようす。○が中山道との合流点。 2010年代のようす。
斜めの直線は鉄道。 右手下に「吹上」駅。
注:「吹上」宿は間の宿として賑わったところ。
(14:51)そのまままっすぐ進み「旧中山道」を右に曲がり「吹上」駅に向かいます。
