(11:25)「杉並区役所」前にある皀莢(サイカチ)の木。
「皀莢(さいかち)の由来」![]()
かつて区役所前の青梅街道際に皀莢の巨樹がありました。その樹は江戸時代に青梅街道の里程指標として植えられたと伝えられていたものです。おそらく一里塚というよりは半里塚的なものだったと考えられます。こうした伝承が生まれたのは、その樹が街道の目印として人々に広く知られ、かつ親しまれていたことを物語るものと思われます。当初植えられていた皀莢は手話14年に枯死、二代目も病気となり、現在の皀莢はこの由来を後世に残すべく、新たに植えられたものです。
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(11:38)「天沼陸橋」交差点を左折し、旧道へ。![]()
実は地下鉄もこの地下を通っています。
しばらく進んだ先の藤沢ビル裏側には「長屋門」が見えます。
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裏手に回ると(道路側に出ると)「明治天皇荻窪御小休所碑」があります。![]()
その奥に瀟洒な日本家屋がみえます。
解説板がなくて詳細不明ですが、長屋門も小休所も荻窪の名主、中川家の屋敷跡。徳川第11代将軍家斉が、鷹狩の際に休憩に寄った場所であったようで、明治に入っては、明治天皇が二度立ち寄って休憩した屋敷跡で、以来、明治末まで毎年、小金井に花見に行く際に、必ず訪れていたとか。
「長屋門」には潜り戸があって、自由に行き来できます。
(11:48)旧青梅街道はこの先でJR中央線とぶつかります。横断地下道を通ってJR荻窪駅前に出ます。
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「青梅街道」新宿方向。右手の道が旧道。![]()
青梅方向。
「青梅」の文字が。![]()
さてお昼時ですが、「荻窪といえばラーメン」というのも芸のない話しなので、もう少し先へ進みます。
(12:08)「四面道」交差点。![]()
「環八」との交差点。 かつては、上荻窪村・下荻窪村 ・下井草村・天沼村の四村の境界にあたっていました。
「大勝軒」の看板があります。お客さんが並んでいます。
(12:20)しばらく進み、右手の日本そば屋さんに入ります。「桃蕎(とうきょう)庵こばやし」。
店内のようす。
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日本酒とつまみとお蕎麦を食べます。たっぷり昼食休憩。
(12:52)一杯機嫌で再開。
「井荻町役場跡」解説板。
・・・明治22年市制・町村制の施行に伴い「上井草村」・「下井草村」・「上荻窪村」・
「下荻窪村」の4村が合併し、井草の井と荻窪の荻をとり「井荻村」が誕生しました。井荻町役場の前身となる井荻村役場は・・・明治32年12月にこの地に移転しました。
誕生当時の井荻村は、人口2,925人の農業を中心とした典型的な西郊の一農村でした。しかしその後交通機関の発達もあり、大正12年の関東大震災以降、都市近郊の住宅地として人口が急激に増加し、大正15年7月1日、村は町制を布き井荻町となり、同年10月には二階建ての新庁舎が完成しました。この年の人口は13,514人でした。
人口の流入によって、村から町へと発展する中で、都市でも有数の大規模な土地区画整理が行われました。また、町営水道の敷設、西武線の誘致などが行われ、現在のこの地域の基礎が築かれました。
区になる直前の人口は、25,968人になっていました。
昭和7年10月、町は「和田堀町」・「杉並町」・「高井戸町」と共に杉並区として東京市に編入され、井荻町役場はその役割を終えました。
この時期、街路樹も刈られて殺風景なのが残念。そんな中に。![]()
沿道には緑豊かな木々に囲まれた大きな神社やお屋敷が見られます。
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「江戸向き地蔵」。![]()
そこから江戸(新宿)方向を望む。![]()
(13:23)練馬区に入ります。![]()
「青梅街道と稲荷神社」。
青梅街道は、新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合する道です。慶長11年(1606)江戸城の大改修にあたって、青梅付近より産する石灰を江戸幕府に搬入するために開かれたと伝えられています。
石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山への参詣や、甲州裏街道として、旅人が行き交う街道でもありました。
この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていました。・・・
車の行き来する広い青梅街道を進みます。歩道があるので安心!
沿道にはもと農家らしいおうち。![]()
「青梅街道」の表示。
(14:01)西東京市に入ります。![]()
「皀莢(さいかち)の由来」

かつて区役所前の青梅街道際に皀莢の巨樹がありました。その樹は江戸時代に青梅街道の里程指標として植えられたと伝えられていたものです。おそらく一里塚というよりは半里塚的なものだったと考えられます。こうした伝承が生まれたのは、その樹が街道の目印として人々に広く知られ、かつ親しまれていたことを物語るものと思われます。当初植えられていた皀莢は手話14年に枯死、二代目も病気となり、現在の皀莢はこの由来を後世に残すべく、新たに植えられたものです。

(11:38)「天沼陸橋」交差点を左折し、旧道へ。


しばらく進んだ先の藤沢ビル裏側には「長屋門」が見えます。


裏手に回ると(道路側に出ると)「明治天皇荻窪御小休所碑」があります。

その奥に瀟洒な日本家屋がみえます。
解説板がなくて詳細不明ですが、長屋門も小休所も荻窪の名主、中川家の屋敷跡。徳川第11代将軍家斉が、鷹狩の際に休憩に寄った場所であったようで、明治に入っては、明治天皇が二度立ち寄って休憩した屋敷跡で、以来、明治末まで毎年、小金井に花見に行く際に、必ず訪れていたとか。
「長屋門」には潜り戸があって、自由に行き来できます。
(11:48)旧青梅街道はこの先でJR中央線とぶつかります。横断地下道を通ってJR荻窪駅前に出ます。


「青梅街道」新宿方向。右手の道が旧道。


「青梅」の文字が。

さてお昼時ですが、「荻窪といえばラーメン」というのも芸のない話しなので、もう少し先へ進みます。
(12:08)「四面道」交差点。

「環八」との交差点。 かつては、上荻窪村・下荻窪村 ・下井草村・天沼村の四村の境界にあたっていました。
「大勝軒」の看板があります。お客さんが並んでいます。
(12:20)しばらく進み、右手の日本そば屋さんに入ります。「桃蕎(とうきょう)庵こばやし」。


日本酒とつまみとお蕎麦を食べます。たっぷり昼食休憩。
(12:52)一杯機嫌で再開。

・・・明治22年市制・町村制の施行に伴い「上井草村」・「下井草村」・「上荻窪村」・
「下荻窪村」の4村が合併し、井草の井と荻窪の荻をとり「井荻村」が誕生しました。井荻町役場の前身となる井荻村役場は・・・明治32年12月にこの地に移転しました。
誕生当時の井荻村は、人口2,925人の農業を中心とした典型的な西郊の一農村でした。しかしその後交通機関の発達もあり、大正12年の関東大震災以降、都市近郊の住宅地として人口が急激に増加し、大正15年7月1日、村は町制を布き井荻町となり、同年10月には二階建ての新庁舎が完成しました。この年の人口は13,514人でした。
人口の流入によって、村から町へと発展する中で、都市でも有数の大規模な土地区画整理が行われました。また、町営水道の敷設、西武線の誘致などが行われ、現在のこの地域の基礎が築かれました。
区になる直前の人口は、25,968人になっていました。
昭和7年10月、町は「和田堀町」・「杉並町」・「高井戸町」と共に杉並区として東京市に編入され、井荻町役場はその役割を終えました。
この時期、街路樹も刈られて殺風景なのが残念。そんな中に。

沿道には緑豊かな木々に囲まれた大きな神社やお屋敷が見られます。



「江戸向き地蔵」。

そこから江戸(新宿)方向を望む。

(13:23)練馬区に入ります。


青梅街道は、新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合する道です。慶長11年(1606)江戸城の大改修にあたって、青梅付近より産する石灰を江戸幕府に搬入するために開かれたと伝えられています。
石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山への参詣や、甲州裏街道として、旅人が行き交う街道でもありました。
この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていました。・・・
車の行き来する広い青梅街道を進みます。歩道があるので安心!
沿道にはもと農家らしいおうち。


(14:01)西東京市に入ります。
