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Channel: おやじのつぶやき
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その2。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

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                            緩やかな上り坂。中野坂下から中野坂上へ。

 「中野宿」に入っていきます。
 「中野」は幕府直轄であったことや鷹狩りの指定地であったことから徳川家との関わりが深く、三代将軍家光は7年間の間に29回も中野で鷹狩りを行ったといいます。また五代将軍綱吉が発した「生類憐みの令」に伴う犬小屋が中野に造られ、8万頭もの犬が保護されていました。その犬小屋の跡が残っているそうです。

途中に「中野坂」の解説碑。
 武蔵野の中央にあるので「中野」と呼ばれました。坂上には「弁慶」という菓子屋と「大団子」と称する団子屋があり、この先の妙法寺への参詣者に好評でした・・・

路傍には「淀橋」の柱と同じものが埋め込まれています。


 (10:03)そば粉用の石臼〔直径約1.8m〕。石森製粉ビル玄関前。

 江戸時代、青梅街道は江戸五街道に次ぐ重要幹線道路でした。江戸城築城のために青梅に産出する石灰を運ぶ役割として開設されましたが、泰平の世になると、多摩地域の物資輸送路というライフラインに変わりました。中野宿は最後の宿場町にあたり、すべての物資の集荷地としてにぎわったのです。
豊かな原料はやがて地場産業を発展させます。大豆から味噌・醤油生産などの醸造業、麦・蕎麦からは製粉業が興りました。浅田醸造所・石森製粉、いまでも現役のあぶまた味噌などが有名でした。
 明治になって造られた浅田ビールは内国博覧会で一等賞を得ました。その後、ビール醸造業は合併吸収が繰り返され、浅田ビールは最終的にはキリンビールの傘下に入りました。
 また、江戸の信州そばの中身は中野の蕎麦粉という話もあります。当時、信州の蕎麦粉は中仙道を辿りながら江戸に入ってきました。御存じのとおり中仙道には沢山の宿場があります。中継地点が多いほど運ばれる物資の価格は高くなります。一方、深大寺そばで有名な多摩地域でも蕎麦粉の生産が行われていました。ここでおわかりの通り、道筋が短く宿場の少ない青梅街道の蕎麦粉は安いのです。
 しかし、悔しいかな江戸っ子達は、中野(多摩)の蕎麦粉を使いながらも、信州・更科・戸隠などとブランド名をつけて大いに儲けたのでした。

(この項、「中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁」さんの文章を引用させていただきました。)

「中野坂上」交差点。


 右手に珍しい? お店が。「天然記念物・甲斐犬」との看板。

甲斐犬(かいけん)
 山梨県原産のイヌの品種。
 日本犬種の1つで、昭和4年(1929年)に当時甲府地方検察庁に赴任した安達太助が発見し、昭和6年(1931年)に「甲斐日本犬愛護会」を創立、昭和7年(1932年)日本犬保存会の初代会長斎藤弘吉、獣医師の小林承吉等が中巨摩郡芦安村(現南アルプス市)や奈良田村(後の西山村、現南巨摩郡早川町)に群生していた虎毛、立耳の地犬を調査し、発見した地方に因んで「甲斐犬(かいけん)」と命名、保存活動を開始した。 また、本来、日本犬の名は「◯◯犬(いぬ)」という呼称になるが、甲斐犬の場合は「◯◯犬(いぬ)」と呼ぶと「飼い犬(かいいぬ)」と誤解される可能性がある為、例外的に「甲斐犬(かいけん)」と命名される事となった。
 毛色は黒虎毛と中虎毛と赤虎毛とに分かれる。年齢を重ねるに従って虎毛がはっきりしてくることもある。虎毛は山野で狩りをするときの保護色となる。
虎毛部分の色がビール瓶を太陽に透かした様な美しい赤い色素を持つ個体を赤虎毛とするが、赤の色素の無い褐色の縞の黒虎毛も勇壮な虎模様を特徴とするため、「虎毛犬(とらげいぬ)」の別名をもつ。

※昨今黒一色で虎模様の無い甲斐犬が多数存在し、近親交配の弊害が心配されている。
※中虎毛を、赤虎毛とも黒虎毛とも呼べない虎柄として低く評価するのは間違いで、赤も、黒もいずれも綺麗で艶のある個体が中虎毛で、色の抜けたハイエナの様な色合いの個体は中虎毛とは呼べない。
体高は、オスは47~53cm、メスは42~48cmで、日本犬種のなかでは中型犬に分類される。
 また、体型より、「鹿犬型」(鹿型犬)と「猪犬型」(猪型犬)のタイプがあったが、現存する甲斐犬は、「鹿犬型」(鹿型犬)であり、猪の他、カモシカも追っていたとされ、細身で体が長めで、岩場に適応して垂直に飛び上がる力に優れている。
 北海道犬や琉球犬、中国のチャウチャウなどと同様、舌斑を持つ等、弥生時代以前からの特徴を有している。太く長い毛と、細くてやわらかい短毛が密集している。尾は差し尾、または巻尾。
甲斐犬の評価ポイントは、三角形の肉厚な耳の角度、三角目の形、尾っぽの巻き方、足の開き方のバランス、飛節の角度などがある。

《特性》
 北海道犬、琉球犬など他の日本犬に似た遺伝子構成を持つ。
 山岳地帯での激しい狩猟に耐えうる体力や、ガレ場で鍛えられた独特の飛節を持つ。
 元来、山梨県南アルプスの山岳地帯でイノシシやカモシカ、などの獣猟、キジなどの鳥猟や、小動物の五目猟、それに伴う諸作業に使用されていた敏捷な犬。
 「甲斐犬は気性が荒い等のため、グループ猟より一銃一狗の単独猟でこそ、この犬種の猟性能が発揮されるという。
 飼い主以外の人間には心を開かず、唯一人の飼い主に一生忠誠をつくすことから一代一主の犬とも評される。
最長寿記録 クロ号・黒虎毛・差尾・♀28歳7ヶ月・昭和13年(1938).1月生

《歴史》
 戦国時代には、「門西家文書」によれば永禄3年(1560年)11月3日に甲斐河内領の国衆・穴山信君が湯之奥郷(身延町湯之奥)の土豪で家臣である佐野縫殿右衛門尉が所有する犬3匹の保護を命じている。これは、穴山氏が佐野縫殿右衛門尉が飼育する猟犬を保護する政策で、縫殿右衛門尉の所有する犬は甲斐犬であった可能性が考えられている。
 昭和9年(1934年)、天然記念物に指定された。昭和期には甲府市横近習町(現在の甲府市中央)の呉服商・大木喬策(八代目当主)が甲斐犬を飼育しており、喬策の愛犬「ケン号」は1932年(昭和7年)の第一回日本犬展覧会で山梨県知事賞を受賞している。昭和9年に甲斐犬が天然記念物に指定されると、喬策は「ケン号」を北白川宮に献上している。

(以上、「Wikipedia」参照。)

(10:18)その先に「鍋屋横丁」バス停。



                     
                                 「青梅街道」という標示。

「鍋屋横丁の由来」。 
 ここは古くから北は新井薬師へ南は堀之内妙法寺へと通じる道が、青梅街道から分かれているところである。
 妙法寺が元禄年間に厄除け祖師として名高くなると、沿道は参詣人で大いに賑わい商家や料亭が軒を連ね、中でもこの角地の休み茶屋「鍋屋」はひときわ繁昌したため、この通りを鍋屋横丁と呼ぶようになった。
 鍋屋を有名にしたのは名物の草餅とともに庭に梅香芳しく参詣客や文人墨客などの間でつとに知られるようになった。
 鍋屋の繁栄を偲ばせるものとして文久2年奉献された東中野氷川神社の鳥居と、平成14年に妙法寺に移設した明治11年建立の道しるべにその銘が刻まれている。

「鍋横道しるべ」。
 此処に明治11年建立された「ほりのうちへ一八丁十間」と、妙法寺までの距離が刻まれた道標がありました。
 江戸時代後期(文化・文政)お祖師様として親しまれた妙法寺への参詣道の入り口を示すとともに、裏側には鍋屋横丁の由来となった休み茶屋「鍋屋」の証しも刻まれており、中野区の歴史の資料にも載るほど、貴重なものでした。
 建立以来125年の永きにわたり、まちの変遷を見つづけてきたこの道標が、平成14年3月をもって、諸般の事情によりゆかりのある妙法寺に移設されました。


中央の直線道路が「青梅街道」。

(10:29)「中野通り」との交差点左手角に「杉山公園」。

     

杉山公園の由来
 杉山公園は、明治の実業家杉山裁吉氏が令嬢みさをさんの病気療養のため、自然環境ゆたかな田園風景をもとめて居をかまえた所です。
 この地に移られてからの杉山氏は多年の事業から隠退し、みさをさんの療養につくされました。しかし、そのかいもなく、みさをさんは明治四十一年、25歳の若さで世を去りました。両親の悲しみは非常に深いものでしたが、みさをさんの冥福を祈ると共に多くの子供達が健康ですこやかに育つように祈願されました。
 大正14年に夫人が逝去されたのを機に邸宅、土地を当時の中野町に寄付し、親子三体の地蔵尊を彫った石碑を建立されました。昭和6年に杉山裁吉氏が逝去された後、昭和9年3月、東京市より杉山公園として開園されました。
 現在は中野区に移管され、日毎(ひごと)に増す交通事故から子供達を守り、またよき遊び場として地域のみなさんから親しまれる公園となっております。
                    中野区

街道筋に残された商家。「尾張屋商店」。隣には「尾張屋」ビルが建っています。

(10:39)しばらく進むと、杉並区に入ります。

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