新宿三丁目。追分交番前。甲州街道と青梅街道の分岐点。
今回から「青梅街道」を歩くことにします。新宿追分から青梅、そして大菩薩峠を越えて甲州・酒折で再び「甲州街道」と合流するまで。約167㎞。
3月10日(土)。曇りのち晴れ。午前中はかなり肌寒い。9:26に出発。今回通過するのは新宿区→中野区→杉並区→練馬区→西東京市(保谷・田無)の予定。
「新宿元標 ここが追分」。
「伊勢丹」。
「青梅街道」。
(9:33)新宿駅東口広場にある「馬水槽」。
![]()
19世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造品でイギリスから贈られたものである。動物愛護の精神に基づく水飲み施設で、交通運搬と都市水道発展の歴史を物語る記念物である。
![]()
東口広場から地下道を通って西口側に。地下道入口には「旧青梅街道」の標識。![]()
地下道に沿って「旧青梅街道」や「新宿駅」にちなんだ掲示が。
宿場は9ヶ所のよう。
「淀橋」付近。
新宿駅周辺。
みな、懐かしい写真ばかりです。ガード沿いには「青梅街道」の絵図。なかなか先に進みません。
![]()
やはり「酒折」まで歩くことに。
「甲州街道」との追分、「内藤新宿」の宿並み。![]()
追分付近の今昔。○が追分。↑が「青梅街道」。
![]()
![]()
1880年代のようす。
![]()
![]()
現在のようす。
ガードを抜けると新宿駅西口に。そこにも「旧青梅街道」の標識。
![]()
進む方向には超高層ビル街。![]()
振り返って望む。
歩道橋から「青梅街道」を望む。![]()
商業高層ビルに囲まれたお寺。![]()
「成子坂」。![]()
振り返って望む。
(9:58)「淀橋」。
![]()
東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。
元々は青梅街道の南側に広がる農村であったが、新宿駅の発展とともに、駅周辺を中心とする繁華街が形成された。さらに、1960年代後半以降の淀橋浄水場跡の開発(新宿副都心計画)により超高層ビルが林立する街となった。1990年、東京都庁もこの地に移転し、現在では副都心と呼ばれる。
名称の由来
淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)
・姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた。
・放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから 淀橋と改名した。
・豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となっ た。
・柏木、中野、角筈、本郷の4つの村(4戸)の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。
(以上、「Wikipedia」参照。)
「神田川」の流れ。
![]()
![]()
1880年代のようす。○が「淀橋」。
![]()
![]()
現在のようす。
ここを越えると、中野区になります。
今回から「青梅街道」を歩くことにします。新宿追分から青梅、そして大菩薩峠を越えて甲州・酒折で再び「甲州街道」と合流するまで。約167㎞。
3月10日(土)。曇りのち晴れ。午前中はかなり肌寒い。9:26に出発。今回通過するのは新宿区→中野区→杉並区→練馬区→西東京市(保谷・田無)の予定。



(9:33)新宿駅東口広場にある「馬水槽」。

19世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造品でイギリスから贈られたものである。動物愛護の精神に基づく水飲み施設で、交通運搬と都市水道発展の歴史を物語る記念物である。

東口広場から地下道を通って西口側に。地下道入口には「旧青梅街道」の標識。

地下道に沿って「旧青梅街道」や「新宿駅」にちなんだ掲示が。



みな、懐かしい写真ばかりです。ガード沿いには「青梅街道」の絵図。なかなか先に進みません。


「甲州街道」との追分、「内藤新宿」の宿並み。

追分付近の今昔。○が追分。↑が「青梅街道」。


1880年代のようす。


現在のようす。
ガードを抜けると新宿駅西口に。そこにも「旧青梅街道」の標識。


進む方向には超高層ビル街。


歩道橋から「青梅街道」を望む。

商業高層ビルに囲まれたお寺。

「成子坂」。


(9:58)「淀橋」。


東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。
元々は青梅街道の南側に広がる農村であったが、新宿駅の発展とともに、駅周辺を中心とする繁華街が形成された。さらに、1960年代後半以降の淀橋浄水場跡の開発(新宿副都心計画)により超高層ビルが林立する街となった。1990年、東京都庁もこの地に移転し、現在では副都心と呼ばれる。
名称の由来
淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)
・姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた。
・放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから 淀橋と改名した。
・豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となっ た。
・柏木、中野、角筈、本郷の4つの村(4戸)の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。
(以上、「Wikipedia」参照。)



1880年代のようす。○が「淀橋」。


現在のようす。
ここを越えると、中野区になります。
