(9:30)岩槻宿。
久々の「日光御成道」。いよいよ最終日。2月3日(土)。薄曇り。
「東玉大正館 (旧中井銀行岩槻支店)」。
「中井銀行岩槻支店」として大正時代後期に建築された、煉瓦造2階建ての洋館建築です。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例です。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。また、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっています。
(
HPより)
なお、この建物付近に旧本陣があったようです。
先日の雪がまだまだ残っている街を進みます。要所要所に宿場時代の旧町名が記されています。
「久保宿」。
足下には岩槻宿にちなんだタイル絵。
「綾瀬川思い出かたるしじみ取り」。
商家。![]()
「日光御成道一里塚跡」碑。![]()
江戸日本橋より9里目、本郷追分から8里目。
旧岩槻市役所庁舎は解体され、工事中。![]()
旧家。所々にかつての古い建物が残っています。![]()
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その先、「日光御成道」は、渋江交差点を左折して、県道65号さいたま幸手線にはいります。○が渋江交差点。
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1880年代のようす。 現在のようす。
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「田中町」。
東武野田線を越し、次第に北へと向かいます。
「出口町」。岩槻宿の北口で、番所と門があったようです。![]()
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「人間総合科学大学」を過ぎ、「元荒川」を「慈恩寺橋」で越えます。「慈恩寺」自体は、まだまだ先。
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明治中期まで「元荒川」の流路は大きく南方へ蛇行していたようで、この大学の先で川を渡っていました。現在の緑地がかつての流路跡。
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1880年代のようす。 現在のようす。
久々の「日光御成道」。いよいよ最終日。2月3日(土)。薄曇り。

「中井銀行岩槻支店」として大正時代後期に建築された、煉瓦造2階建ての洋館建築です。建物正面を3分割し、上部を半円アーチ型で飾る入口を中心に、左右に窓を対象に配置する大正時代の中小規模銀行の典型的な事例です。壁面は腰壁を石貼りとし、その上を煉瓦タイルとモルタルで仕上げ、1階の背面には、金庫室が張り出しています。また、屋根は寄棟の瓦葺で、内部は三角形の骨組を基本とするトラスの小屋組みとなっています。
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なお、この建物付近に旧本陣があったようです。
先日の雪がまだまだ残っている街を進みます。要所要所に宿場時代の旧町名が記されています。


足下には岩槻宿にちなんだタイル絵。

商家。

「日光御成道一里塚跡」碑。

江戸日本橋より9里目、本郷追分から8里目。
旧岩槻市役所庁舎は解体され、工事中。

旧家。所々にかつての古い建物が残っています。


その先、「日光御成道」は、渋江交差点を左折して、県道65号さいたま幸手線にはいります。○が渋江交差点。




1880年代のようす。 現在のようす。



東武野田線を越し、次第に北へと向かいます。
「出口町」。岩槻宿の北口で、番所と門があったようです。


「人間総合科学大学」を過ぎ、「元荒川」を「慈恩寺橋」で越えます。「慈恩寺」自体は、まだまだ先。

明治中期まで「元荒川」の流路は大きく南方へ蛇行していたようで、この大学の先で川を渡っていました。現在の緑地がかつての流路跡。








1880年代のようす。 現在のようす。