旧志免鉱業所竪坑櫓(きゅうしめこうぎょうしょたてこうやぐら)。志免鉱業所(志免炭鉱)の遺構です。近代建設技術史上の価値が高く、国の重要文化財に指定されています。かなり大きな建築物で、近づくとその巨大さに圧倒されます。高さ47.65メートル、長辺15メートル、短辺12.25メートル。地中の石炭層まで垂直に掘られた竪坑が地下430メートルまで延びています。
この施設は、「志免鉱業所」の採炭夫を昇降させ、石炭を搬出するためのもの。地上にある櫓(やぐら)の部分は1941年(昭和16年)に着工し、1943年(昭和18年)に完成。地下の竪坑は櫓の完成後1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)にかけて開鑿されました。その後、1964年(昭和39年)に閉山となり、そのまま残されています。
もともと、この志免鉱業所は1889年(明治22年)に海軍が軍艦の燃料である石炭を確保するために開設したもので、現在残っているこの竪坑櫓も、海軍により建造されました。終戦後は国鉄所有の鉱業所に。他の炭鉱と同じくエネルギー革命により昭和39年に閉山。最初から最後まで「国営炭鉱」という珍しい経営スタイル。
この巨大な「竪坑櫓」は戦時中にもかかわらず、イギリス製の鉄鋼を用いた鉄筋コンクリート造。当時の価格で200万円(関連施設含む)もの予算をかけて建設されました。
巻上機室(1000馬力)が櫓の高層部、高さ35メートルの位置に置かれているワインディング・タワー(塔櫓捲式)と呼ばれる形で、終戦前に建設されたもので現存しているのは世界でも志免炭鉱と龍鳳炭鉱(中国・撫順市)、トランブルール炭鉱(ベルギー・リエージュ州)の3か所だけで、国内でこのタイプの縦坑櫓が現存するのはここのみ、ということです。
2007年(平成19年)7月31日に国の登録有形文化財に登録され、2009年(平成21年)12月8日、国の重要文化財に指定されました。
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竪坑櫓とそのすぐ近くに残されている斜坑口(第八坑連卸坑口)、国鉄勝田線跡地(志免駅跡である志免鉄道記念公園ほか)などが「志免鉱業所関連遺産」として経済産業省指定の近代化産業遺産に登録されています。
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遠くからでもよく見える、福岡県志免町のランドマーク的存在の遺構。解体の話も出たそうですが、住民の保存運動が実って現在のような姿で保存されています。
全景。その奥に見えるのが「ボタ山」?
ボタ山は、石炭を掘り上げた時に出た土(ボタ)を積み上げたもの。あまりはっきりしないので、「志免町」のHPから拝借。
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「現在、西原硬山が4つの峰を残し現存しており、自然史的にも貴重な山となっています。竪坑櫓・斜坑口とボタ山がセットで残っているのも日本で志免町だけです。志免・須恵・粕屋の三町で所有。」(HPでの説明文)
コンクリートの骨格だけですがごつくて威圧感があります。
周囲はフェンスで囲まれ、立ち入り禁止となっています。
グランド側から見たところ。
説明板。
「竪坑櫓」は、ケージと呼ばれる籠を昇降させるために造られた巨大なビルディングです。この櫓の真下にまっすぐ掘られた深さ430mの「竪坑」という穴を使い、地下から石炭を上げたり、坑員を地下の石炭層まで移動させていました。まるで金づちを立てたような形の櫓に、巻き上げる機械が組み込まれた、エレベーターのような仕組みとなっています。さまざまな形の竪坑櫓の中で最も発達した形式で、地上8階、地下1階のうち、地上1階から5階までを柱のみで構成し、6階以上には壁をつけています。8階部分には吹き抜けの大空間があり、ケージの巻き上げに使われた1000馬力のモーターが、休みなく稼動していました。
志免と類似する形式で、終戦(1945年)の前に建設された竪坑櫓は、これまで九州で造られたおよそ100の竪坑のなかでも、四山第一竪坑(三井三池炭鉱、荒尾市)にあっただけです。また世界中をみても、現在まで残っているものは、志免のほかにベルギーのブレニーと中国撫順の2か所だけだといわれています。その姿は、機能的で無駄のない造形美をもつ近代建造物であり、世界の産業技術史を語る上でも大切な遺産であるといえるでしょう。
1957(昭和32)年には、21万トン以上も出炭していた竪坑も、1964年の閉山とともに稼動を停止します。現在、日本に現存する最大規模の竪坑櫓は、日本で唯一、開坑から閉山まで国営でありつづけた志免鉱業所の歴史を物語っています。
日本の近代化を支えた竪坑櫓が、志免町のランドマーク、そして歴史と文化のシンボルタワーとして、広く親しまれることを願っています。
構造断面図
内部のようす。
操業当時の「支免鉱業所」。
(以上、「支免町」HPより)
斜坑口。
第八坑本卸坑口。1938年(昭和13年)完成。
隣接されている施設。「支免町総合福祉施設シーメイト」。
昭和40年代前半の頃。父親が筑豊の出身の炭鉱労働者。閉山となって茨城に移り、学校警備員の仕事をしながら家族を育てている、その家族の一人と知り合いました。その方も今は長じて既に立派な社会人。お父さんはすでに亡くなりましたが、その方とは今でも付き合いがあります。
どこの炭鉱で働いていたかは聞きそびれていますが、戦後の復興・日本のエネルギーを担い、過酷な労働下にあった、そして廃山とともに各地に散っていき、生活を支えたそうした人々と家族の生き様を、こうした遺構を目の当たりにしてふと思い出しました。
帰りは、再び福岡空港まで。すっかり雨も上がり、少し元気を取り戻して、来た道を歩き始めました。往復約3時間の行程でした。
この施設は、「志免鉱業所」の採炭夫を昇降させ、石炭を搬出するためのもの。地上にある櫓(やぐら)の部分は1941年(昭和16年)に着工し、1943年(昭和18年)に完成。地下の竪坑は櫓の完成後1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)にかけて開鑿されました。その後、1964年(昭和39年)に閉山となり、そのまま残されています。
もともと、この志免鉱業所は1889年(明治22年)に海軍が軍艦の燃料である石炭を確保するために開設したもので、現在残っているこの竪坑櫓も、海軍により建造されました。終戦後は国鉄所有の鉱業所に。他の炭鉱と同じくエネルギー革命により昭和39年に閉山。最初から最後まで「国営炭鉱」という珍しい経営スタイル。
この巨大な「竪坑櫓」は戦時中にもかかわらず、イギリス製の鉄鋼を用いた鉄筋コンクリート造。当時の価格で200万円(関連施設含む)もの予算をかけて建設されました。
巻上機室(1000馬力)が櫓の高層部、高さ35メートルの位置に置かれているワインディング・タワー(塔櫓捲式)と呼ばれる形で、終戦前に建設されたもので現存しているのは世界でも志免炭鉱と龍鳳炭鉱(中国・撫順市)、トランブルール炭鉱(ベルギー・リエージュ州)の3か所だけで、国内でこのタイプの縦坑櫓が現存するのはここのみ、ということです。
2007年(平成19年)7月31日に国の登録有形文化財に登録され、2009年(平成21年)12月8日、国の重要文化財に指定されました。

竪坑櫓とそのすぐ近くに残されている斜坑口(第八坑連卸坑口)、国鉄勝田線跡地(志免駅跡である志免鉄道記念公園ほか)などが「志免鉱業所関連遺産」として経済産業省指定の近代化産業遺産に登録されています。


遠くからでもよく見える、福岡県志免町のランドマーク的存在の遺構。解体の話も出たそうですが、住民の保存運動が実って現在のような姿で保存されています。

ボタ山は、石炭を掘り上げた時に出た土(ボタ)を積み上げたもの。あまりはっきりしないので、「志免町」のHPから拝借。

「現在、西原硬山が4つの峰を残し現存しており、自然史的にも貴重な山となっています。竪坑櫓・斜坑口とボタ山がセットで残っているのも日本で志免町だけです。志免・須恵・粕屋の三町で所有。」(HPでの説明文)




「竪坑櫓」は、ケージと呼ばれる籠を昇降させるために造られた巨大なビルディングです。この櫓の真下にまっすぐ掘られた深さ430mの「竪坑」という穴を使い、地下から石炭を上げたり、坑員を地下の石炭層まで移動させていました。まるで金づちを立てたような形の櫓に、巻き上げる機械が組み込まれた、エレベーターのような仕組みとなっています。さまざまな形の竪坑櫓の中で最も発達した形式で、地上8階、地下1階のうち、地上1階から5階までを柱のみで構成し、6階以上には壁をつけています。8階部分には吹き抜けの大空間があり、ケージの巻き上げに使われた1000馬力のモーターが、休みなく稼動していました。
志免と類似する形式で、終戦(1945年)の前に建設された竪坑櫓は、これまで九州で造られたおよそ100の竪坑のなかでも、四山第一竪坑(三井三池炭鉱、荒尾市)にあっただけです。また世界中をみても、現在まで残っているものは、志免のほかにベルギーのブレニーと中国撫順の2か所だけだといわれています。その姿は、機能的で無駄のない造形美をもつ近代建造物であり、世界の産業技術史を語る上でも大切な遺産であるといえるでしょう。
1957(昭和32)年には、21万トン以上も出炭していた竪坑も、1964年の閉山とともに稼動を停止します。現在、日本に現存する最大規模の竪坑櫓は、日本で唯一、開坑から閉山まで国営でありつづけた志免鉱業所の歴史を物語っています。
日本の近代化を支えた竪坑櫓が、志免町のランドマーク、そして歴史と文化のシンボルタワーとして、広く親しまれることを願っています。



(以上、「支免町」HPより)



昭和40年代前半の頃。父親が筑豊の出身の炭鉱労働者。閉山となって茨城に移り、学校警備員の仕事をしながら家族を育てている、その家族の一人と知り合いました。その方も今は長じて既に立派な社会人。お父さんはすでに亡くなりましたが、その方とは今でも付き合いがあります。
どこの炭鉱で働いていたかは聞きそびれていますが、戦後の復興・日本のエネルギーを担い、過酷な労働下にあった、そして廃山とともに各地に散っていき、生活を支えたそうした人々と家族の生き様を、こうした遺構を目の当たりにしてふと思い出しました。
帰りは、再び福岡空港まで。すっかり雨も上がり、少し元気を取り戻して、来た道を歩き始めました。往復約3時間の行程でした。