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蛎殻町公園。有馬小。(震災復興52小公園。その21。)

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?蛎殻町公園(有馬小)
「由来碑」。左が「切絵図」(幕末・1850年頃のようす)。

蛎殻町公園の由来
 この蛎殻町辺は、江戸時代の切絵図によると周囲を堀割で囲まれた武家地で、大名の下屋敷が建ち並ぶ静かな落ち着いた町並みであったと思われます。
 蛎殻町公園のあるこの場所も、江戸時代、松平三河守(津山藩主)の下屋敷があったところで、その後京都出身の豪商杉村甚兵衛氏の屋敷となり、現在公園内にある大イチョウも、当時、かなりの大木として育っていました。
 大正12年の関東大震災の時には、近所の人達がその広い庭園内に難を逃れて助かった話も伝わっています。その後、震災復興御計画により、蛎殻町公園として整備され、昭和6年4月に開園しました。
 このたび、有馬小学校と蛎殻町公園を改修整備するにあたりこの地域の歴史を思い起こさせる江戸情緒のある築地塀と門構えを造って町並み景観に特色をもたせ、往時をしのぼうとするものです。
平成元年4月   中央区土木部公園緑地課

隅田川最下流付近にあたり、古くから市街地を形成していた。地形的には、流入する土砂の集積で、この辺りの標高は、海抜2?。(「今昔マップ」より)


1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央に「有馬小」の名。現在地よりも北にあったようだ。「松平邸」跡が現在の「有馬小」の位置と思われる。
 右の堀割は「浜町川」か? 「久松小」の西側にあった流れの下流にあたり、隅田川に注いでいた。

現在の公園正面。問門構えと築地塀に特色が。
奥が「有馬小」。
校庭の北側と西側を囲むように公園がある。
設立当初とは学校のと公園の位置は異なるが、一体型というコンセプトは引き継がれている。

 この公園は「有馬小学校校庭」と「蛎殻町公園」とを一体的に整備してつくられたものです。利用に当たっては有馬小・幼稚園の児童・幼児等が使用する時間帯と一般の皆さんが利用できる時間帯が区分されています。・・・
土曜日のせいか、校庭も開放されていた。公園と校庭が一体のため、学校長名でこんな掲示がある。一般の校庭や公園ではありえない。
校舎側から西を臨む。奥に古い色づいたイチョウの木がある。
左が校舎。
藤棚。
遊具施設があるコーナー。
落ち着いた雰囲気の公園。

道路をはさんだ西側の一角も公園の一部となっている。お尻を見せるサンタ。西側は「ロイヤルパークホテル」。
喧噪の中での憩いの場所に。
見上げると、首都高(箱崎インター付近)。


1970年代のようす(「同」より)。
 隅田川中州沿いの運河を埋め立てて首都高の建設が始まっている。首都高建設現場の上に「有馬小」。現在の校舎とは位置が違っていて、震災復興校舎としてコの字型(昭和62年まで現役だった)。その東側に隣接して「蛎殻町公園」がある(公園の位置も現在とは異なっている)。左下に「都立日本橋高校(旧箱崎小)」と「箱崎公園」。

1965〜68年のようす(「今昔マップ」より)。上から「久松小」「有馬小」「箱崎小」。堀割がまだあります。「有馬小」と「箱崎小」の間にある堀割は現在埋め立てられ、首都高の橋脚部分になっている。堀割の南を通るのが、「箱崎湊橋通り」。左上から下に流れるのが、「日本橋川」。上は、現在ほとんど首都高。

・有馬小

 校名は旧久留米藩主有馬頼咸の寄付を受けて創立されたことに由来する。
 1873年に「幼童学所」として創立。翌年、第一大学区第一中学区第六番公立有馬小学校となる。
 1945年には「付属幼稚園の形で有馬幼稚園」が開園。(戦前からの長い歴史を持つ幼稚園)
 今年で、創立140周年を迎えた伝統校。

1927(昭和2)年完成の校舎(鉄筋コンクリート造り)。1987(昭和62)年に現在の校舎が完成するまで使われていた。(「有馬小」HPより)「戦災復興校舎」の一つ。
 「有馬小学校は今年度学校創立140周年・有馬幼稚園は開園68周年の節目の年を迎えました。今年度在籍している子ども達が、将来に夢と希望を抱けるように様々な取り組みを計画しています。」(「同」HPより)
校舎校庭側のベランダには「祝 開校140周年 開園68周年」の文字が。

勝鬨(かちどき)橋。(隅田川の歴史をたどる。その3。)

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 久々に「東銀座」へ。そのついでに、「晴海通り」を「勝鬨橋」まで。実は、初めて。
 「隅田川」に架かる橋の中で、最下流にある橋で「晴海通り」が通る。この先は、東京港(少し南西にある「浜離宮公園」付近が河口)。

 日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)だが、1980年に機械部への電力供給が終了、可動部もロックされ、跳開することはない。
跳開したときのようす。
www.zenitaka.co.jp/bridge/kachidoki.html)‎より。

 1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置された。築地と対岸の月島の間を結ぶ渡船だった。
「かちときのわたし」碑。
 説明板によると

 明治38(1905)年、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「かちどきの渡し」と名付けて渡船場を東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。・・・
 設置されたかちどきの渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸9丁目(現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあってこの間を渡船が運搬していました。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。稲荷社(赤丸)がある。当時は、月島はまったく市街地の形をなしていない。北の石川島には、監獄があった(北から「石川島」「(新)佃島」「月島」の三つの島・埋め立て地から構成されていた。)

大正時代、勝鬨橋がないころのようす(「今昔マップ」より)。「かちどきの渡し」、「月島の渡し」、「佃の渡し」があった。「海軍兵学校」、「経理学校」、「軍医学校」等の施設が記されている(現在の「築地市場」)。
勝鬨橋架橋のころのようす(「同」より)。「月島の渡し」「佃の渡し」は、まだ健在。

 大正12(1923)の関東大震災後、架橋の運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。・・・かちどきの渡しは昭和15(1940)年6月勝鬨橋の開通とともに廃止されました。

※1 「かちどき」は、中世の戦などの勝負事で勝ちを収めたときに挙げる鬨(とき)の声で、士気を高める目的で多数が一緒に叫ぶ声。「いざ!出陣」のときに「エイエイ(エイ)」に呼応して「オー」と三回繰り返すのは知っていたが、勝ち戦ののときのかけ声「ときの声」は何と叫ぶのだろう?
※2 この橋も関東大震災の復興事業と関連した。

 明治25(1892)年、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されたが、月島側の発展とともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態に。
「月島の渡し」碑。
 当時は隅田川を航行する船舶が多かったので、3千t級の船舶が航行させるために中央部分を開く可動橋として架橋されることになり、1933年に着工し、1940年6月14日に完成。


勝鬨橋之記
 明治三十八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄付す。昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
昭和十五年十二月 東京市長大久保留次郎 撰書

 1940年に「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった「日本万国博覧会」へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。博覧会そのものは日中戦争の激化などもあって中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。
 橋の両端部はアーチ橋で、中央部が上方に開く構造。開く角度は最大70度、約70秒で全開になる。片側だけ開く操作も可能であった。橋梁の歩道の上部には、4つの建屋があり、それぞれ運転室、見張室、宿直室などとなっている。

信号機がまだそのまま。
上部・梁の部分。
 橋が開く際は、両岸アーチ部にある信号器が赤になり、橋上の往来を停止させた。
 設置当初は1日に5回、1回につき20分程度開いていた。この回数はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量が増大したことで、次第に回数は減少、特に上流に「佃大橋」が建設された1964年以降、船舶通航の需要は限定され、開閉回数は年間100回を下回るようになった。1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に一度ほど試験のため開いていたが、航行する大型船舶がなくなったことや交通量の著しい増加などの理由で1970年11月29日を最後に開閉が停止となった。

橋梁。
河口を望む。右が「築地市場」。その奥が「浜離宮」にあたる。
上流方向。
月島方向。
 1998年より夜間にライトアップが行われている。
 橋のたもとの築地側には、開閉のための電力を供給していた変電所を改装し、財団法人東京都道路整備保全公社が運営する「かちどき橋の資料館」が2005年4月に開館した。


 2007(平成19)年、清洲橋・永代橋と共に勝鬨橋が国の重要文化財(建造物)に指定された。


現在の橋が完成した年。但し、「駒方橋」は「駒形橋」。(「錢高組」HPより。)
 この他に
「千住大橋」(旧)1927(昭和2)年(新)1973(昭和48)年、「白鬚橋」1914年(大正3)年、「水神大橋」1989年(平成元)年がある。

「海軍経理学校」の碑。橋の西詰のたもとにある。

海軍経理学校
 大日本帝国海軍で庶務・会計・被服・糧食を受け持つ主計科要員育成のために置かれた軍学校としての養成学校である。主計科士官の基礎教育を行う初級士官養成校の機能と、主計科の専門教育を主計科士官および下士官・兵に施す術科学校としての機能を兼ね、さらに研究機関でもあった。
 1907年(明治40年)に創設され、第二次世界大戦終結後に日本海軍が解体されるまで続いた。主要校舎所在地は現在の東京都中央区築地。海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校の一つ。略称は海経(かいけい)。
 高校の先輩(「旧制中学」出身)でこの学校を出たあと、しばらくして終戦。「ポツダム中尉」だった、という話を聞いたことがある。

 ちょっと上流、隅田川に流入する川に架かる橋で、関東大震災復興事業にかかわる橋がある。
「南高橋」。「日本橋川」から分岐した「亀島川」が隅田川に注ぐ地点にあります。
「南高橋」の説明板。

 創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
 都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋(旧弾正橋)朱塗りの橋。現在は歩道橋として利用。菊の紋が見える

についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。   
 平成十四年三月 中央区教育委員会
 

 ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めたもの。

読書「なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか」(中野美代子)岩波ジュニア新書

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 図書館のジュニア・コーナーで見かけた本。孫も小学校生活にもずいぶんと慣れてきて、元気に通っているようす。勉強の方はどうだか心配だが、何とかつじつま合わせには上手なほう。休まず頑張っている。放課後の「わくチャレ」なんかにも参加している、とか。しかし、ゲームにばかり集中して、どうも困ったものだと親の弁。では「読書のすすめ」なんかはどうだろう、というわけ。そこでこの本に興味を持つか、ためしに。

 「ゴクウ」って知ってるよ、「ドラゴンボール」。クリリンとかブルマも出てくる。

 えっ、あの漫画、『西遊記』だったのか。

 何、「西遊記サイユウキ」って。

 ゴクウって、孫悟空から借りたんだ。

 そうだよ、名前がソン・ゴクウ。尻尾が生えているんだ。ブルマとかいう女の子と出会う。そこで、7つ集めると願いを叶えてくれるというドラゴンボールがあることを聞くんだ。
 自分が大切に持っていた球がその1つであることを知って、ブルマと共に残りのドラゴンボールを探す旅に出る、という話さ。ウーロンとかヤムチャなんかが加わってドラゴンボールを探しに行くんだよね。

 なるほどなるほど。そのへんの冒険談は西遊記にも似ているな。見つけ出して、それでおしまいになるというわけか。

 そうじゃないよ、続きがあるんだ。旅の途中に知り合った武術の達人・亀仙人の下で、クリリンといっしょに修行を積んで、天下一武道会に出場するんだ。でも、残念ながら準優勝。

 天下一武道会って何なのよ。

 世界一強い武闘家を決める闘いの場だよ。

 それでおしまいかい。

 いやまだ、まだ。ピッコロ大魔王というのが出てくるんだ。その前に、レッドリボン軍との闘いがあったかな。そして、次の天下一武道会ではテンシンハンと闘うが、負けて前回と同じ準優勝となるんだ。

 ピッコロ大魔王って何なんだ

 天下一武道会が終わってピッコロ大魔王によって、クリリンや亀仙人など悟空の仲間達や多くの武道家達が殺されてしまう。仇を討つため、ヤジロベーっていったかな、カリンとかにも協力してもらって、ピッコロ大魔王に勝つんだ。
 そして、悟空はピッコロ大魔王に殺された仲間達に会いに天界に行く。そこで、ドラゴンボールをつくった神に会うんだよね。そして今度は、一人で天界で修行することになる。

 それじゃなかなかおしまいにならないね。天界から戻ってきてからまた話が続きそうだね。

 そう、大きくなった悟空は、チチと結婚。次の天下一武道会で初優勝するんだよ。

 めでたし、めでたしだね。

 いやいやまだまだ。今度はサイヤ人というのが出てくるんだ。
 悟空は自分が惑星ベジータの戦闘民族・サイヤ人であることを知らされるんだ。そして、・・・

 もういいよ、分かった分かった。

 いや、次に「フリーザ編」というのがあって、悟空は、伝説の戦士・スーパーサイヤ人になるんだ。セル編というもあるし、魔人ブウ編というのも。アニメで、「ドラゴンボールZ」っていうのも。・・・
 

 わいわいがやがや、ああでもない、こうでもない、違うよ、それは、たしかそうだったけど、う〜ん、・・・行きつ戻りつ、孫とその友達二人の会話は、まだまだ続きました。
 いやはや恐れ入りました。「カメハメハー、元気玉」しか知らなかったじいさんは、脱帽。

 というわけで、この本の紹介どころではありませんでした。「西遊記」の世界もますます遠い中国の昔話になってしまいそうです。
 岩波文庫で10巻に翻訳された「西遊記」の訳者で、中国の古典文学に造詣の深い筆者の中野さんにはたいへん失礼しました。あらためて、しっかりと読んでみますので(読ませますので)。

※ 「ドラゴンボール」のあらすじについては「Wikipedia」を参照しながら付け加えました。子ども達の話だけでは心 許ない感じがしましたので、念のため。

 劇場用アニメ「ドラゴンボールZ」。2013年公開の最新作。

(「www.dragonball2013.com」より。)  

読書「ホロコーストとポストモダン」(ロバート・イーグルストン)みすず書房

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 副題として「歴史・文学・哲学はどう応答したか」。
 第一章「他の書物と同様の仕方で読んだり消費したりしてはならない」導入―様々な視点からの考察―結論
 このように極めて論理的にかつ実証的に文学(者)、歴史(学者)、哲学(者)のホロコーストへのアプローチを解明しながら「今」生きている我々にとって「ホロコースト」後の世界をどのようにとらえ直し、自らの方向性を見いだしていくか(あるいは見いだしていったか)を追究する内容。かなり大部の書ですが、示唆に富んだ内容を持っています。
 歴史的事象に関わる「同一化」と「差異化」。「体験」の「追体験」(当事者としての、傍観者としての)が可能なのか、不可能なのか。そもそも「歴史」「過去」と「現在」「未来」とどのように関わっていくのか?
 特に、日本の保守政治家(評論家)の、たとえば、過去の日本の侵略戦争を遂行する国家体制・戦略を「現在」と切り離し、むしろ「当時としてはやむをえなかった、当然だった」、あるいは「現在の日本」「我々」がそうした過去の責任を問われることはない!という言説がまかり通っている現実を見ると、この書のようにどこまでもこだわり続けることへの大事を感じる。
 応答の仕方にもその強弱・是非などは、当然ある。しかし、それぞれが自らの依って立つ思想・世界観に基づいての関わりの中で、当事者同士が議論を続ける(論争を行う)、またそれを客観的に吟味するという、当然の姿勢が随所に見られるのがすばらしい。(どこかの知事のようにしどろもどろの言い訳に終始し、結局、真実を明らかにしなまま辞任するなどという政治風土の日本と比べて)そうした西洋の哲学的な基盤に圧倒される。
 訳者の後書きにもあるように、「ホロコーストの同一化によって消費されない特異性、単独性を強調する一方で、デリダの言う『特異なもの一般』をつまり単独的なものの普遍性を思考することを示唆してい」く、そのために多くの資料(言説)を取り上げ語り掛ける著者の立場が、まさに西洋の哲学的伝統の上にあることを思いしらされた。
 ホロコーストに関わって、古き良き映画シリーズで取り上げた「縞模様のパジャマの少年」の「倫理的な防壁」(あり得ない防壁という設定を通して)のありようをあらためて感じた。
※ 2013/1/10投稿「縞模様のパジャマの少年」(古きよき映画シリーズ18)を再掲。

 ジョン・ボインの同名小説が原作で、ホロコーストに関わるドラマ。子供を主人公として描いた作品。
(「www.amazon.co.jp」より)
 第二次大戦下のドイツ。快活で冒険好きな8歳のブルーノ(エイサ・バターフィールド)は、ナチス将校である父の転勤に伴いベルリンを遠く離れ、厳重な警戒下にある大きな屋敷へ引っ越してきた。ブルーノは、寝室の窓から遠くに見える「農場」で働く人々が昼間でも縞模様のパジャマを着ていることを不思議に思う。

 学校に行かせてもらえず、遊び相手もなくて退屈しきっていたある日、屋敷の裏庭を抜け出し林を駆け抜けていくと、有刺鉄線を張り巡らした「農場」にたどり着く。フェンスの向こうにはパジャマ姿の同い年の少年シュムエル(ジャック・スキャンロン)が一人ぼっちで座っていた。
 シュムエルはユダヤ人、ナチスによってその「強制収容所」に送り込まれていた。シュムエルの存在は家族には秘密だったが、有刺鉄線越しに、シュムエルとチェスをしたり、ボール投げをしたりするうちに、子ども同士の友情が芽生えてくる。

 ブルーノの母親は、夫の職務に違和感を感じ始める。息子のブルーノも、収容所の焼却場から立ち上る異臭について、たびたび両親に聞く。ついに、母親と二人の子供達は、別の所へ引っ越すことに。しかし、ブルーノはシュムエルのことが気にかかっていた。
 ブルーノは引越しの当日、収容所内で行方が分からなくなったシュムエルの父を一緒に探す為、強制収容所の有刺鉄線の下をかいくぐり、シュムエルと同じ縞模様のパジャマを着て紛れ込む。しかし間もなく、豪雨の降り注ぐ中、他のユダヤ人収容者とともに追い立てられるようにして、二人は「シャワー室」に入っていく。
 ブルーノの母親は、息子がいないことに気付き、収容所挙げての捜索が始る。真っ暗なシャワー室の中で不安におののく大勢のユダヤ人、ブルーノとシュムエルは手をしっかり握り合う。
 父親も半狂乱で、収容所内を調べまわる。豪雨の中、母親は、鉄条網の外で、息子が脱ぎ捨てた衣類を抱きしめながら号泣する。
 ラストシーンは、閉じられたシャワー室の扉。カメラの引きとともに、脱ぎ捨てられたたくさんの縞模様のパジャマ(囚人服)が映る。次第に灯りが消えていく。・・・

 この物語の原作はジョン・ボインというアイルランドの若い作家(DVD特別編では、解説に登場)が2006年に出版し、世界的ベストセラーになった。それをイギリスとアメリカの合作で映画化。
 ラストシーン。ブルーノが両親にとってかけがえのない子供だったように、シュムエルもその他のたくさんのユダヤ人もそれぞれの誰かにとってかけがえのない人だった。一方では、存在そのものが忌まわしいものとして生命を奪われる(奪う)。
 これまでもかけがえのない多くの人間の生命が、戦争や政策、体制の名の下で「人種」「民族」「反・・」という括りで一緒くたにされて、意図的に抹殺されていく(していく)。それは今もなお世界の隅々で起こっていることではないか。それをどうすればいいのか、空しさも残る現実。
 
 ユダヤ人たちが明るく楽しむ収容所内での生活ぶりを映した映画(もちろん、ナチスのプロパガンダだった、と今は言えるが、当時は・・)によって、疑っていた父親に対して信頼を取り戻すブルーノ。
 家庭教師によって次第に「ナチズム」に染まっていく姉。
 精神的に追い詰められていく母親。・・・
 シュムエルが屋敷に食器洗いでやってきたときのエピソード。
 ブルーノは「こんな子は知らない」と言い放ち、その後、懲罰を受けて傷だらけのシュムエルとフェンス越しに再会するシーン。

 許しを請うブルーノに対するシュムエルの反応。
 
 それぞれが、身につまされるシーンの積み重ね。

 もちろん、強制(最終、絶滅)収容所は、アウシュビッツを含め、二重の高電圧の流れる鉄条網で囲まれ、銃を肩に掛けた監視兵が常に見張っている。映画のような出来事はぜったいにありえない。あり得ない物語をなぜ創作したのか?
 ここに、映画が現在の私たちへの問題提起(ホロコーストを共有できるのか? どういうかたちで共有し継承していくのか?)。主人公が少年達であることも含めて、鋭い問いかけのような気がします。

※画像は、「YouTube」予告編より。

中央区立明石小学校。築地外国人居留地。(震災復興52小公園。番外編。その5。)

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 (「http://akashisho.web.fc2.com/index.html」HPより)

 なお、「関根要太郎研究室@はこだて fkaidofudo.exblog.jp/10854674」2009/04/20に解体前の校舎が写真で詳しく紹介されている。
 そのときの文章を転載させてもらう。

 東京の築地といえば魚市場でお馴染みの場所だが、今回はその魚市場より歩いて5分ぐらいの所にある中央区立の明石小学校を紹介させていただきたい。
 この明石小学校は明治42(1908)年に開校。そして昨年創立100周年を迎えた同校の校舎は、大正15(1926)年に建てられた築83年の鉄筋コンクリート製校舎を現在も使い続けているという、まさに歴史ある小学校である。
 なお以前に中央区の明正小学校を紹介したときにも触れさせていただいたが、中央区内には10軒近くの大正末から昭和初期に建てられた小学校舎が現存しているが、その最古参がこの明石小学校である。その存在はあまり知られていないが、今日も教育の場として使われている、まさに街の生きる文化財とも言うべき存在だ。
 鉄筋コンクリート製の小学校というと、無骨とか冷たいという印象を持たれるかも知れない。この明石小も一見するとそのようにも見えるが、じっくり観察していただければ、80数年前この学校を設計した人たちの心遣いを感じていただけるのではないかと思う。例えば窓の間の柱や軒や庇、そし玄関窓や門柱まで曲線が多用されている。外観だけでも校舎内がどんな作りになっているか想像できる、やさしいデザインだ。・・・(中略)
 函館の小学校は明石小より12年後の竣工だが、明石小の設計を手掛けた東京市の技師、函館の弥生小の設計を手掛けた函館市の技師ともに、関東大震災・函館大火からの子供たちの心の復興という、共通したビジョンを持っていたのではないかと思う。当時の人々のが思いを託し作り上げた美しい校舎が、長年に渡り子供たちを育んできたと思うと感慨もひとしおである。
 この明石小は美しい搭が印象的な聖路加病院が表通りの喧騒を遮断したかのような、とても落ち着いた雰囲気。恐らくこの周辺の環境は変われど、聖路加病院と明石小の連続した佇まいは今も昔も同じなのだろう。
 しかしこの落ち着いた小学校には、唯一そうではなかった時代があった。それは太平洋戦争が激しくなった昭和20(1945)年、同校の児童たちは地方に学童疎開し、この校舎は日本軍の高射砲陣地として使われていたという過去を持つ。歴史ある建造物、そして明石小をはじめとした歴史ある校舎はその存在により、これまでの歴史を明確に後世に伝えることができる訳である。


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「明石小」と「第二中」(上)が並んで建っている。下方が「聖路加病院」。西側の川は旧「築地川南支流」(埋め立てが進められ、親水公園風に)。
 その後、震災復興校舎は解体され、新築工事が始まった。卒業生などが中心となって建て替え反対・保存運動があった、明石小学校校舎。平成25年(2013年)1月24日に新校舎が完成しそこでの学校生活が始まった。
新校舎(「明石小」HPより)。

円柱など、以前の校舎の特徴を生かす工夫がうかがわれる。

校庭と校舎。アーチ状の外廊下。

正面外壁。
校庭脇の倉庫の屋根にもかつての意匠の雰囲気が。
正門前の通り。
裏手のようす。

 児童数は、全校で232名(25年9月現在)、1学年2学級規模。児童数の割には、葛飾区や足立区とは比べものにならないほど、豪華な施設・設備。さすが「金持ち」区は違います!

「旧校舎の石」。

 このベンチに使われている花崗岩は大正15年に建設された復興小学校である明石小学校・明石幼稚園の旧校舎の階段に使用されていた石材を再利用したものです。

 左に当時の昇降口の階段の写真がある。奥のレンガ塀は、築地外国人居留地のレンガ塀の遺構の一部。関東大震災や空襲による戦禍を免れ、残されたものをモニュメントとして保存してある。

「築地外国人居留地跡」碑。

雙葉学園発祥の地」記念碑。
 徳においては純真に 義務においては堅実に
 SIMPLE DANS MA VERTU FORTE DANS MON DEVOIR

歴史
1875(明治8年) 築地居留地内に修道院を開設。孤児院・寄宿学校を開設。
1909(明治42年) 雙葉高等女学校設立、築地明石町にて開校。校長メール・セン・テレーズ。(同学園のHPより)



 東京は開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地を設けた。今日の中央区明石町一帯である。しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院の発祥地となっている。また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで続いた。

1880年代のようす(「同」より)。赤丸が米国公使館。
築地居留地も1899年の治外法権撤廃で廃止されている。
 ここが発祥の学校・学園はまだ他にもたくさん。
移設されたガス街灯の柱。
旧明石小校舎脇にあった「ガス灯」(HPより)。
「ガス灯」。中央区立第2中にあったもの。現在は廃校。

鉄砲洲児童公園。中央小学校(鉄砲洲小学校)。湊界隈。(震災復興52小公園。その22。)

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※「鉄砲洲小学校」の沿革碑。(鉄砲洲児童公園内に設置されている。もともとは、小学校の敷地にあったものか)

鉄砲洲児童公園(旧鉄砲洲公園)

学校の解体、新校舎建設と合わせて整備されたようす。
こじんまりとした公園。児童の帰りを待つ母親達が団らん。
公園の東側の通り「鉄砲洲通り」。

 隣接してある小学校が「中央小学校」。
公園東南から中央小学校を望む。

中央小学校(旧鉄砲洲小学校)
 明治時代に創立された旧京華小学校と旧鉄砲洲小学校が統合されて、平成5年4月1日に誕生した学校。


平成24年9月より新校舎での生活が始まりました。(「中央小」HPより)
正面玄関はかつての意匠を生かした感じ。
外壁などのつくりは、かなり斬新なデザイン。復興校舎の趣とはかなり異なる印象になるのは、しかたがないが。

※「中央区立中央小学校(昭和モダン建築探訪)」として、旧「明石小」と同じく、すでに取り壊された「中央小(旧鉄砲洲小)」の震災復興校舎の貴重な写真が文章とともに掲載されています。
(「関根要太郎研究室」...fkaidofudo.exblog.jp/10882180 2009/04/23)

 この「湊」地域は、かつての家屋が残っている一方、再開発で取り壊され新しい町づくりが始まっている地域でもある。「中央小学校」も新しい町づくりの一環としてモダンな様式の校舎になったようだ。
1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。周囲のほとんどが低層住宅の中で、「鉄砲洲小学校と「鉄砲洲公園」は目立った存在だった。右の運河(川)は「亀島川」。

隅田川沿いの地域。再開発が進んでいます。対岸は、月島地区。
昔ながらの街並み。
歯が欠けたような一角。
ぽつんぽつんと残された家屋。
古風な家の構えとマンション。
近代的なビルと日本家屋。後者がしだいになくなっていく時代の流れ。
数年のうちにまるっきり雰囲気の違う街並みになるほどの再開発ブーム。

NPO法人ポチたま会

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私の名前は「ポーリー」。今、あったか〜いお家を探してる。
より)


 この間、久々に(1年半ぶりに)古くからの(30年以上のつきあいの)若い(一回り以上、下の)知人達と飲んだ。一昨年は東日本大震災で(関係者もいるようで)中止にしたが、去年、今年と(気がついたら、もう何十年も前から)続いている会。
 ただ下町の駅前の「安い」飲み屋で集まって飲んで話して・・・程度の集まりだが、気楽でほっとするアットホームな雰囲気がいつしか地について、長続きしている(幹事役の二人がまめに動いてくれるので続いているようなもの)。遠く甲府からもやってくるメンバーも(車で来て翌朝また車で帰る。この間は、運転手付きでやってきた。そのまま甲府へ戻るそうな)。
 時が経つうちに、恋愛、結婚や子育て、仕事、趣味などの話題から、いつしか自分の健康、連れ合いの健康、親の介護とだんだんと話題も移り、まさに人それぞれの「人生模様」。それでも、気がつくと、飲んで食べてお約束の時間もあっという間。
 

 その中の一人から、今、こんな活動をしているんだと、ミニカレンダーをもらった(カンパ代を払ったが)。
 縁あってさまざまな状況下(ひとくくりには出来ないそれぞれのドラマが)で捨てられた(遺棄された)犬、猫を保護し、その里親探しのボランティア活動をしている、とのこと。
 この方。幼児期から施設に預けられ、育った。そんな中で、中学卒業後、仕事をしながら定時制高校を卒業、会社を持ち、地道な仕事をこつこつやってきている方(他にも、こういうメンバーがこの会には、いる)。
 そういう経験がこんな活動を支えているのかもしれない。

 うちのすでに17歳になるネコたちも神社の軒下に捨てられていたのを息子が見つけて飼い始めた。嫁いだ娘も、近所の「里親さがし」のボランティア団体からネコを二人もらい受けて育てている。

 そんなわけで、ついつい話が盛り上がりました。飲み会にいた他のメンバーの方々、ごめんなさい。


 興味があったら、下記のHPをぜひ訪問して下さい。

「NPO法人ポチたま会:犬猫里親探しボランティア ワンにゃん幸せ探し」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~inu-neko/‎
ポチたま会では、人間の身勝手により遺棄された犬猫の新しい家族を探しています

迷路のごとき選択肢。

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維新・結い、合流を視野に入れた政策協議開始(読売新聞) - goo ニュース
 
 一匹狼的な存在感で政界での独自の位置を占める江田さん。果たして選択肢はいくつあるのか?
 片や、「まもなく賞味期限」切れを自覚する橋下さん。「維新」分裂・解消も選択肢にあるのか?
 現・みんな、旧・太陽の会を敵に回しての大一番、の江田さん。日和るかもしれない(その可能性大)の橋下さん。
 東国原を切ってもイシハラとくっついていたい(アベさんと仲良くしたい)という腹が見え見えの彼に大一番、の気概があるか、はなはだ怪しい。
 早くも、先手をうったアベ。
 「安倍晋三首相は23日、日本維新の会の橋下徹共同代表と、東京都内のホテルで会談した。来年の通常国会に向けて、今後の協力のあり方などについて意見交換したとみられる。
 政府・与党側は、菅義偉官房長官と自民党の石破茂幹事長、維新側は、松井一郎幹事長(大阪府知事)と松野頼久・国会議員団幹事長も同席。6氏が一緒に会うのは初めて。安倍首相は18日にも、維新の石原慎太郎共同代表らと首相官邸で会談。憲法改正や東京都知事選について意見交換している。」というニュースもある。
 橋下さんも、結局、アベ+イシハラに絡め取られる運命に。

 柿沢さん、おやじさんを超えることができるか、大一番の腹構え。しかし、片や、維新側はこうして心許ない感じ。まとめきれることが出来そうもなさそう。
 自民に馬鹿にされ、民主に無視され、みんなの渡辺さんにこけにされ、政界の大向こうから、歯牙にもかけられない状況。それでも、いざ戦いにとの気力だけは充実していそうな二人だが・・・。

 「維新大阪」+「結い」=「橋田党」?
 それとも、
 「維新東京」+「渡辺みんな」=「石渡党」?
 それとも、
 「自民」+「維新東京」+「渡辺みんな」=やっぱり「自民党」?
 それとも、
 「自民」+「維新東西」=それでも「自民党」
 そして、
 「みんな」も「結い」も政界の中で結ばずじまい、どちらもジ・エンド。

 いずれにしても「勝算我にあり」とはいかない。「日本政界」という深く暗い底知れぬ闇に潜み続ける古狸たちとその子分どもに軽くあしらわれる子狐たち、という見立て。
 ぜひ見立て違いになって欲しいとも思えない複雑な気持ち。

古狸は知らんぷり。手下の狸たちはさっさと次の手を。イノシシ一頭、猛進してジ・エンド。

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退任あいさつなし、真相説明なし…猪瀬氏だんまり退場(朝日新聞) - goo ニュース

 「猪瀬氏の発言機会はなかった」、のではなく自分で断ったようだ。終了後に猪瀬氏は各会派にあいさつ回りをしたが、自民党は訪問を断って、切って捨てた。
 一方で、「維新」と次期知事選を巡って話し合いが進んでいるようす。候補者はイシハラと気脈が通じる人物に。都知事選をきっかけに(イシハラに恩を売って)、自民と維新橋下・イシハラ(一部の不満分子を切って、それらが結いの会に流れても)との憲法改「正」を目指す政局運営が始まる可能性。したがって、東国原さんは絶対にありえないはず。
 焦るのは、おそらく公明党と「みんな」(特に「公明党」。イシハラは、以前から憲法問題で早く公明党・創価学会を切れ、とアベにはあからさまに進言し続けている。)

 しかし、「知事選はこの3年間で3回目」。これもそれも、イシハラの政治的野望のために?
 猪瀬は、道路公団民営化に携わった経験などを買われて、イシハラが副知事に迎え入れた。
 そのイシハラ、それらしく引退をほのめかし、後継者らしき人物を指名してあげくに、切って捨てた。後出しじゃんけんの極めつけで、都知事選に出馬、「殊勝(を装う)」な言動で当選。それもつかの間、衆議院選に出馬のために時を経ずして、辞職。
 猪瀬、その辞職に伴う昨年12月の知事選で後継指名を受けて、国内選挙の個人得票として最多の約434万票を獲得し、初当選を果たした。

 こうして、都民(もしかしたら多くの都職員)の意志・希望は翻弄され続け、またしてもわずか一年で無残にも無駄になった。

 そういう過去がありながら、イシハラは己の政治的野望(実現)のために引導を渡し、葬り去った。政治権力・権謀術数の非道さを都民・国民にも植え付けた感が。

 都知事選もこうした流れを見極めた上で、賢明な判断をする必要がある。何しろ、国民・都民にとって唯一、「自由」が許されるのは、選挙しかないのだから。

 そのためにも、作家として、猪瀬さん、副知事以来の一部始終を、ありのままをすべてさらけ出してほしい。その中で、イシハラたちの非道ぶりをも白日の下に、天下に知らしめてほしいと思う。
 意気地がないからそれも出来ずに、「晩節を汚すな」(イシハラに言われたそうだが)とは反対のことになってしまうのか。

 5,000万円に目がくらみ猪突猛進、札束に牙が刺さって抜けないままに、御用となった痛ましい(けどつい笑ってしまう)イノシシ一頭。鍋の材料にもなりそうにない。

 こうして、巷では次に飛びつける話題を探し始める。
 ex:徳洲会・徳田側からイシハラにも相当なカネが渡っているとか。でも、そこはズバリ「特定秘密」の対象でマスコミの追究も及び腰になりそうだ。

イヌは吠えるのが性とはいえ。・・・・

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 恒例の飲み会・23日編。このところ、飲み会が続いている。今回は、一回りも二回りも下の「イヌ」年の集まり。

 男4人のささやかな飲み会。それぞれ縁ある女性に声を掛けても皆、体よく断られて。

 即、着切り。「ちょっと仕事が」「ちょっと都合が」「ちょっと体調が」「またの機会にはぜひ」「皆さんによろしく」・・・という、いつものパターン。

 仕事もバラバラ、交友関係もバラバラ。接点は、唯一「錦糸町」。ということで、南口で集合。

 それでも、お互いに年を取ったせいか、話題も温厚な、可もなく不可もなく、たわいない話で進む。また、それがいいのだが。

 1名を除いて、残りはけっこう頻繁に連絡を取っているようす。

 ブラック企業としてあれこれ言われる、某チェーン店。早めの時間はまだ空いている。
 
 そんな中、パソコン関係の仕事をしながら、若い女性が家に転がりこんできて、困っているんだか、楽しんでいるんだか、早く手を切りたいんだか、よく分からない(本人も、当然周りも)のをいいことに、言いたい放題で盛り上がっていく。

 一方、中国関係の貿易にも関わっている男の話も、なかなか手広くやっているようで。

 そうして話が進むうち、お隣の韓国の話になったとたん、日頃温厚で、ぶつぶつ文句を言いながらも朝早くから夜遅くまで、日曜祭日なく働いている学校関係者。その彼が、突然怒り出した、「韓国は嫌いだ!」「あいつら許せねえ!」と吠えだした。

 ここは、いろんな国々の人が集まって生活している地域。お店で働く従業員、日本人以外の人も。
 いくら飲んだ勢いとはいえ、これには、他の連中、かなり引き気味に。まあまあ、と。それ以上、話を進めなかった。

 いったい彼をして何がそうさせたのか? 日頃の鬱積した怒りの、不満のやり場がどうして韓国に向かってしまったのか?

 別れての帰り道、ふと立ち止まってしまいました。

   

今の日本の政治思想状況に暗澹たる思い。

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参拝、制止退け強行 党幹部「もう誰も止められない」(朝日新聞) - goo ニュース

 影響力のある(と思っている)政治家二人。中国、韓国へ徹底した敵意、むき出し。

・河村たかし市長
 「現職総理だから行かないかん。祖国のために命を落とすのは最高の美徳の一つ。祖国のために命を落とした軍人に頭を下げるのは世界の常識。やっちゃいけないと(外国が)言うのは内政干渉だ。」(注:「外国」とは、中国、韓国を指しているのは明白。)

・橋下市長
 「日本のために命を落とした英霊に敬意を表するのは当たり前の話だ。A級戦犯だけを参拝しにいくわけではない。外交上の配慮で参拝を控える必要性はもうない。昨今の中国、特に韓国の態度や振る舞いをみれば、靖国参拝について配慮する必要はない。」

・アベ自身のフェイスブックで参拝の「報告」を行ったところ、賛同を意味する「いいね!」の数が4時間あまりで3万件を超えた。靖国参拝は短時間で異例の高い支持を集めた。

・「みんな」渡辺は賛意。
・公明党は批判しても、政権からの離脱は毛頭考えていない。
・民主も内情はバラバラ。
・共産党は当然批判。しかし、悲しいかな少数。
・「生活」の小沢はすでに過去の人。

 衆院選、参院選でアベ路線を支持し、圧倒的多数の議席を与えた選挙民(河村にも橋下にも)。怖いものなしの現政権。中国、韓国への国民の反感、嫌悪感に乗って、経済運営がうまくいっていることを背景にしての今回のやり方。 
 アベは、経済成長路線で国民の支持を得ていく中で、本来の意図している憲法改「正」を思うように成し遂げようとする。それに、しっぽを振る「維新」「みんな」「民主の一部」、そして「公明」・・・。

 ナチスは、当時の国民の間には根強い支持があった。生活と未来に不安と不満を持つドイツ国民。それに対して、失業対策、経済成長などの経済政策、(第一次世界大戦で失われた)栄光のドイツ復活、(自分たちの生活を脅かす)ユダヤ人への排撃、(ソ連への恐怖を煽りながらの)共産党への弾圧、・・・こうした政策による「成果」・「恩恵」を国民に与え、安心させていくことに成功。一方で、反対派に対しては陰謀を駆使してまでも、徹底的・暴力的に弾圧する。次第にもの言えぬ(ものを言わせぬ)国民、・・・。
 気がついたら、あれよあれよという間に、ヒトラーは「世界に冠たる」偉大な指導者になった。その後は歴史が示すとおり。

 当時のドイツ(そしてヨーロッパ・世界情勢)とはもちろん異なってはいるが、アベの政策をみていると、実に将来の危険が見えてきそう。特にアベに対して誰も物を言えず、お追従どころか、諸手を挙げて賛意を示す政治風潮に本当の危うさを感じる。政教分離は過去の遺物として靖国神社の国教化へ。「靖国」公式参拝の常態化への布石。

 靖国参拝を機会に(安倍政権にNO!という論調に対して巻き返すためにも)、日本で生活する中国人、韓国・朝鮮人等への排外主義的な動きが強まるのではないか(反対する人たちを「非」国民として非難しつつ)。そして、「平和」のための(「日本」を守るための)戦争に国民こぞって賛成し、海外派兵が出来る国づくりへ。米・中・韓・露がどう思おうと。

読書「中島敦『山月記伝説』の真実」(島内景二)文藝春秋

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 高校現代文の教科書の定番、中島敦「山月記」。日本の高校生の多くは、小説の教材として、1年生で芥川龍之介の「羅生門」、2年生で「山月記」や夏目漱石「こころ」、3年生で森鴎外「舞姫」、が順当なところですか。
 その「山月記」の挿絵には、きっと「虎」の絵が。

 中島敦は、おそらくこうして国語の教科書に掲載されなければ無名の作家のまま埋もれてしまったのではないか? とすら思います。中島敦の他の作品、たとえば「李陵」とか「光と風と夢」を読む人がどれほどいるかとすら。
 原典となった中国の「人虎伝」。当時、有名だった種本。さまざまな作家が其の中国の怪奇説話を小説化していた。そういう中でどうして中島敦の「山月記」がかくも教科書に載って、日本中の高校生に読まれ、高校時代に読んだ小説として「羅生門」、「こころ」、「舞姫」など今でも名高い作家達と肩を並べているのか? そこには、中島敦を巡る友人知人達が織りなしたドラマがあった! ということを明かした書。
 中島敦の人となり、友人達との関わり・・・、特に夭折した作家・中島敦の死後への思い、無念な思い、果たせぬ思いを受け止めつつ、「山月記」を通して中島敦の存在を今にまで世に知らしめた人々。その人々にも様々な思いが交錯する。
 登場する人物達も有名、無名、すでに忘れ去られた人々。今東光、佐藤春夫などが翻訳した(翻案した)「人虎伝」も紹介しながら、中島敦の「山月記」にはそうした作品などの影響やそれを超えようとする秀でた創作力を有していたことをなどにふれる。
 深田久弥、釘本久晴、氷上英廣、吉田健一、中村光夫、・・・。
 中島敦の分身を「李徴」と見立て、では「袁傪」は誰か、誰がモデルか? 文学作品の読みとしてはけっしていいとは思えないが(中村光夫の『風俗小説論』ではないが、作品を作者の「私」小説として読解することの弊害)、そういう立場で類推し、教科書編纂にあたって大きな力をもっていた文部官僚・釘本の関わりを詳細に追究していく。
 これこそが、新たな「山月記」伝説の誕生ではないか、と思った、事の善し悪しは別として。
 ところで、教科書に載せられた虎の絵はどういう絵だったんだろう。とんと思い出せない。 

阪本小学校。第一大学区第一中学区第一番官立小学。(震災復興52小公園。その23。)

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 日本橋兜町。国内でも有数の金融・ビジネス街にある小学校。公園も周辺のビルに囲まれた一角。

?坂本町公園。阪本小。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 中央に「坂本小学」とあり、「阪」が「坂」と表記されている。「坂」が「阪」にいつ変わったのか、もともと「阪本」だったのか。学校のHPを見ると、当初から「阪本」だったらしい。ただ、地名の方は、「坂本」となっている。
 「大坂⇒大阪」と変更されたのは「坂」が「土に反(か)える」で縁起がよくないというのが理由のひとつだったと言われているが、そういう理由ではなさそうだ。「中央区の歴史」(tokyochuo.blog.shinobi.jp/)でも、表題は「坂本学校」となっているが、本文は、「阪本」に。

 なお、西側に流れる堀・楓川(もみじがわ)は東京都中央区にかつて存在した河川。日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2kmの河川であったが埋め立てられ、現在は首都高速都心環状線がその跡を通る。江戸時代以前は楓川付近は海岸線付近であったと考えられている。

この絵では、「坂本」となっている。
 ちなみに以前紹介したことがある、同じ関東大震災復興校舎の一つで、台東区下谷にあるのは「坂」本小学校。

正面玄関。
しっかりした現役の建物。

公園側からの校舎。
公園との一体的な利用がなされている。
校舎側から公園の北方向を望む。
公園正面。公園名は「坂本町公園」。
公園の沿革史がモニュメントとして保存されている。
校舎方向。
築山風。平日の昼間などは会社員の憩いの場所に。北側にはプールが。


前掲の古地図とほぼ同じ地域の1980年代のようす(「同」より)。中央が「阪本小」「坂本町公園」。一番西側にある広い通りは「昭和通り」。
 なお、公園の北側には都立紅葉川高校(「楓川(もみじがわ)」からとったと思われる)があった。長い間、狭い敷地で苦労・難渋したが、後に江戸川区内の広い敷地に移った。この校舎は、中央校舎としてしばらく存在していた。その跡地が現在、「警視庁中央署」となっている。

《「阪本小学校」沿革史》

明治 4年 7月18日 文部省設立
明治 5年 8月 2日 学制発布
明治 6年 3月 同年2月小学校設置の布達により十五小区二十六ヶ町有志が協議し、官立小学校設立伺を申請。
明治 6年 5月 3日 開学許可を第一大学区督学局より受ける。
明治 6年 5月 7日
 第一大区十五小区坂本町二十八番地(現校地の一部)に創設し、『第一大学区第一中学区第一番小学 阪本学校』
と称して、開校の式を挙げる。出席生徒三十六名。出席者に赤飯菓子を与える。この敷地は元熊本藩主細川家の下屋敷であったといわれる。
明治 7年 4月 生徒数267名、校舎、新築。
明治13年 9月29日
 従来の学制廃止。教育令発布。学区番号廃止。校名を公立阪本小学校、同女子小学校と称する。
明治19年11月 校名を、日本橋区阪本尋常高等小学校同女子尋常高等小学校とする。
明治22年 2月 学年の始期を四月に、終期を三月に改める。
明治22年 7月 男校舎を取り除き女校舎に合併。男女授業を隔日とする。
明治22年10月23日 新築校舎落成、開校式挙行。新校舎は木造総二階。
大正12年 9月 1日 関東大震災に罹災。校舎全焼。帳簿類一切焼失。卒業生台帳焼失。
昭和 3年 3月15日 東京市臨時建設局学校建設課設計による三階建鉄筋コンクリート校舎落成。
昭和 3年 5月 7日 新校舎落成。落成式、祝賀会挙行。
昭和 8年 5月 7日 開校60周年記念行事として校章・校旗・校歌を制定。
・・・
(「阪本小」HPより)
 
 1873(明治6)年の創立。都内でも有数の長い歴史と伝統を誇る小学校の一つ。校舎は1928(昭和3)年に建てられた「震災復興校舎」を現在も使用している。その際に隣接して「震災復興52小公園」の一つとして「阪本公園」が出来た。



 創立明治6年(1873)3月
  第一番官立小学 阪本学校
 中央区立阪本小学校は、明治4年(1871)の文部省設置及び明治5年(1872)の「学制布告」により、明治6年(1873)3月、「第一大学区 第一中学区 第一番官立小学 阪本学校」として創立、明治6年(1873)5月7日に開校式が挙行された。
 我が国の公立学校の創生期において「一、一、一」を冠した小学校は日本中でも阪本小学校だけであり、「一番学校」としての伝統と歴史を引き継いでいる。
 明治28年(1895)に附属幼稚園が開園された。

現校舎は、細川藩下屋敷跡に立地。
大正12年(1923)関東大震災後、昭和3年(1928)3月に落成した。
尚 文豪・谷崎潤一郎、本宮内大臣・石渡荘太郎、元一橋大学長・山中篤太郎、歌舞伎名優・左団次、桶屋六左衛門ほか、多数を輩出している。

 平成21年2月14日 中央区立 阪本小学校



 学制布告(明治5年8月)
全国を8大学区に分別、各大学区に1本部、各大学区を32中学区、各中学区を210小学区に分別(後に、改定)
第1大学区:東京・関東地方・山梨・一部静岡
第2大学区:愛知・岐阜・三重・一部静岡
第3大学区:石川・福井・富山・一部長野・岐阜
第4大学区:近畿地方・岡山・一部四国地方
第5大学区:中国地方・一部四国地方
第6大学区:九州地方
第7大学区:新潟・長野・山形・一部福島
第8大学区:東北地方

 ということで、日本橋から新川(霊岸島)、八丁堀、京橋、東京駅八重洲口へと探訪の足跡は続きます。
 

霊岸島。豊海橋。越前堀(児童)公園。(震災復興52小公園。その24。)

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 「越前堀(児童)公園」と「明正小」。日本橋川、隅田川、亀島川、旧新川(現在埋め立てられている)に囲まれたこのあたり一帯は、「霊岸島」と呼ばれた。現在は、一大商業地域。そのほぼ中央に位置する。

《霊岸島》

 霊岸島の歴史は、江戸初期に八丁堀先の東方海上を埋め立て、雄誉霊巌上人が霊巌寺を建立したことにはじまる。霊岸橋もこれに由来するといわれ、「こんにゃく島」との里俗名もあった。明暦の大火後、霊巌寺は深川に移転するが、霊岸島の地名は、霊岸島はもとより、霊岸島塩町、霊岸島四日市町などとして継がれ、酒問屋・酒蔵が集積し、初物好きの江戸っ子連に新酒を扱っていた。関東大震災後は区画整理で一帯が旧霊岸島の町名となり、旧越前堀・旧新川とともに親しまれた地域であった。(「中央区観光協会オフィシャルブログ・中央区観光協会特派員ブログ」より)
 
「越前堀児童公園」にある「霊岸島」の碑。

 当地区は、今から370〜80年前、江戸の城下町が開拓されるころは、一面の沼地葭原であった。
 寛永元年(1624年)に、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に越前福井の藩主松平忠昌が27,000余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
 邸の北、西、南3面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
 明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊巌寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。
 明治大正年間には富島町、四日市町、浜町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊巌島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の13町に分れ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心地であった。
 大正の大震災により全部焦土と化し、昭和6年(1931)7月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川1、2丁目・霊巌島1、2丁目・越前堀1、2、3丁目と改称され、さらに昭和46年(1971年)住居表示制度の実施により新川1、2丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
 昭和52年3月 霊巌島保存会

周辺の見所(の一部)。
 
 そこで、寄り道。ここも、関東大震災に関わるもの。

《豊海橋》

日本橋川河口(隅田川との合流点近く)に架かる「豊海(とよみ)橋」。昭和2年関東大震災復興事業の一つとして鉄骨橋になった。橋の形式は、フィーレンデール橋(考案者の名前をとった)。ハシゴを横にしたようなこの橋は、日本では数例しかなく希少価値の高い橋。
「日本橋川」の西側を望む。
「豊海橋」。

「はしご」を横にしたようなかたち。

由来碑。永井荷風の一文も刻まれている。

「日本橋川」が隅田川に合流するところに架かる橋。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が「豊海橋」(当時は「木橋」か?)。すぐ東、隅田川に架かる橋は、「永代橋」。中央の○が「越前堀公園」「明正小」付近。下の○が「越前堀」下流。上流の部分はすでに埋め立てられている。中央の水路が「新川」。左端、霊岸島を取り囲むように流れている「亀島川」に合流する水路が「八丁堀(桜川)」。


同じ地域の、1970年代のようす(「同」より)。明正小の最近まで使用されていた「戦災復興校舎」が写っている。

 「永代橋」は、明治30年(1897年)、道路橋としては日本初の鉄橋として、現在の場所に架橋された(「日本橋川」河口の北から100?ほど南へ)。
 しかし、橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。その後、大正15年(1926年)に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。
 この橋は、ドイツ ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100mを超えた橋でもあるとのこと。
「日本橋川」河口付近から「永代橋」を望む。

《越前堀》
近年、出土した「越前堀」護岸に用いられた石垣石。公園内に設置。
説明文。
 内容は、次のものの碑文とほぼ同じだが、特にこの公園は「関東大震災復興公園」の一つとしてつくられたことが記されている。

「明正通り」沿いある「越前堀跡」碑。

 江戸時代、この辺りは越前福井藩主、松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が入堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前堀の護岸は石積で、今でも建設工事中や遺跡の調査中に、越前堀のものとみられる石垣石が出土することがあります。堀の幅は12〜15間(20〜30m程)もあり、運河として用いられ、荷を積んだ小舟が通っていたようです。
 明治になり、越前守の屋敷地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられて行きます。大正12年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め立てられました。その後町名が改められ、「新川」となって現在に至っています。
 今では往時をしのぶ「越前堀」の名は、ここの越前堀公園にみられるのみとなりました。
 平成17年3月 中央区教育委員会

青い線が推定される「越前堀」。その赤いところから出土した。


公園周囲の石垣にも出土した越前堀護岸用の石垣を用いている。
説明板。
 周囲を堀・川で囲まれた地域であったことが分かる。

明正小。越前堀児童公園。(震災復興52小公園。その25。)

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?越前堀公園。明正小。

 「震災復興52小公園」の一つ、越前堀公園は、現在は、「児童」と付されているように、遊水池があって夏には水遊びができます。
「ECHIZEN LINE」と名付けられた豪華客船も浮かんでいる。真冬でも象が水浴び、ラッコも泳いでいる。脇には、ささやかだが恒例の藤棚も。
四阿風。史跡・記念碑などや緑も濃く大人もゆっくりと楽しめそう。

「明正通り」。
 道路を挟んで南側にあるのが「明正小」。公園との一体感はあまりなさそう。
「明正小」は旧校舎(震災復興校舎)を取り壊し、新築中。全面シートに覆われている。公園側から。
工事中の明正小から公園を望む。

新校舎は、2014年に完成予定。
校舎の印象が旧校舎の雰囲気を残しつつ、モダンな印象。
1927年に完成した「旧校舎」。保存・維持運動もあったようだが。
円形の部分はそのまま生かすようす。
かつての3階建てからみると、けっこうな高さ。

 取り壊す前の校舎の写真がコメントとともに「関根要太郎研究室@はこだて・fkaidofudo.exblog.jp/10731739
2009/04/07」に掲載されています(このblogにはすでにない震災復興校舎の「鉄砲洲小(現中央小)」「明石小」なども掲載されていて、貴重な写真となっています)。

 中央区内で、震災復興校舎当時から今も現役なのは、「泰明小」「常盤小」「城東小」「阪本小」などわずかになりました。また、当時の校舎を生かして他のものに転用・活用されているのが「十思スクエア」(すでに紹介済み)


と「京華スクエア」。
 そこで、次に八丁堀方向に向かい、「京華スクエア」へ移動します。

亀島川・高橋から隅田川方向を望む。
 奥の橋が「南高橋」(関東大震災で損害を受けた旧「両国橋」の鉄骨橋梁を再利用した。都内で車が通行できる橋として一番古い橋)。遠くの高層ビル街は隅田川河口の月島地区。


1980年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が越前堀公園と明正小。矢印の橋が「高橋」。下に見えるのが「南高橋」。亀島川に合流する堀(左下)がまだ健在のころ。
 この堀は、古くから「八丁堀」と呼ばれていた。現在の首都高・京橋インター付近から鍛冶橋通りを東へ進み、亀島川に至るまでの区間に存在した水路。別名は「桜川」。
 京橋川・楓川より亀島川を連絡する運河として、江戸時代初期に開削されたといわれる。戦後もしばらくは水運として活躍していたが、昭和40年代以降、順次埋立てられ、水路としての「八丁堀(桜川)」は完全に姿を消し、下流は「桜川公園」などになっている。

 この続きは、年明けに。

京華スクエア(旧京華小)。(震災復興52小公園。番外編。その6。)

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 さて、「京華スクエア」とは?

俯瞰写真。

 産業振興のためのハイテクセンターや、シルバー人材センター、京華コミュニティルーム、さらに早稲田大学エクステンションセンター「八丁堀校」などの施設を兼ね備えた京華スクエアは平成13年1月にオープンしました。

 この京華スクエアは平成5年3月をもって閉校した中央区立京華小学校、京華幼稚園の建物を再利用したものです。当初、跡地利用に当たっては取り壊しの話もありましたが、区の財政負担をできるだけ軽減して、地域の活性化を図る活用方法を検討した結果、既存校舎を改修し利用することとなりました。

 昭和4年完成のこの校舎が、新たに「京華スクエア」として生まれ変わることができたのは、建物の構造がしっかりしていたということも大きな理由の一つです。

 京華小学校は明治34年(1901年)に開校。校舎が大正12年(1923年)の関東大震災により全焼、教員の皆さんや生徒たちは仮校舎に移りました。この震災後当時の東京市は災害時の学校建築の重要性を認識し、東京市臨時建設局学校建設課の共同設計による「復興小学校」の建築を実行に移しました。
 中央区にはこの当時建てられた「復興小学校」が京華小学校を含めいくつか残されています。中央小学校、泰明小学校、明石小学校、城東小学校、常盤小学校、明正小学校、また「京華スクエア」同様、廃校後に区の複合施設となった「十思スクエア」の十思小学校などです。(注)

 「復興小学校」の特徴は、
•耐震・不燃のため鉄筋コンクリート造三階建
•地域とのつながりを持たせるよう公園を隣接
•災害の際の救助・救援活動の拠点となること
などが挙げられます。

「京華スクエア」の主な施設
●中央区立ハイテクセンター
●京華コミュニティルーム
●中央区シルバー人材センター
●中央交通事故相談所
●早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校

(以上、「」を参照。写真も。)
(「おやじ」注:2013年末現在、「中央」、「明石」は、取り壊されて、新校舎完成、「明正」は新校舎建設中。また、上には載せられていないが、「阪本小学校」校舎は健在。)

「鍛冶橋通り」の向かい側から。曲線に特徴が。
防災拠点でもあるのでしょう、屋上には大きな拡声器が。
校庭側の側面。
西側校舎。
正面玄関の庇部分に特徴。


東側道路側の側面。
校舎角面の円柱状の柱。震災復興校舎に特徴的な形式。


少し手を加えた感じの校舎外壁。
敷地の外塀。コンクリート製で当時のまま?


 新年になってもまだまだ続きます。「旧京橋小」・京橋公園、さらに「城東小」・・・。

八丁堀。桜川。与力・同心組屋敷跡。(震災復興52小公園。番外編。その7。)

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 旧京橋小・京橋公園(現「京橋プラザ」)へ向かう前にちょっと寄り道。「京華スクエア」付近は、「八丁堀」。
 そこで、「八丁堀」別名「桜川」跡を探索しました。

「概念図」。

(「」H001八丁堀(はっちょうぼり=堀川の名称)、桜川(さくらがわ)編。homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/.../rekisi_map_kaisetu.htm‎」より)
 赤い色の地域が「八丁堀」町。亀島川と日本橋川(北新堀川)に囲まれた地域が霊岸島。その中央の堀割が「新川」。




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上の図から下の図へとつながる。上の図で、左(西)の堀が「楓川(もみじがわ)」。中央の堀が「八丁堀」。「白魚橋」の西の堀は「京橋川」。南に屈折している堀が「三十間堀」。
 下の図。西から東に流れて合流する川が「亀島川」。
 「桜川」と呼ばれたのは、「楓川(もみじがわ)」に対応させたものか。「楓川」と「桜川」が交叉するあたり、「楓川」に架かる橋が「弾正橋」(現在、「鍛冶橋通り」にある「弾正橋」よりも少し南)。
現「弾正橋」。
弾正橋公園にある旧弾正橋(都内最古の鉄骨の橋)のモニュメント(本物は、深川八幡宮の東のところ現存。)

「鍛冶橋通り」沿いにあった案内図。黒い枠のところが「八丁堀(桜川)」。右の赤丸は「明正小」左上が「京華小(現京華スクエア)」左下が「中央小(旧鉄砲洲小)」。明治時代から現代まで堀割が埋め立てられた以外には、大きな変化はない。

「桜橋ポンプ場」。
道路を挟んで東側(下流)は下水道工事中。
「桜川公園」。埋め立てられ、公園や保育園、地域センターなどになっています。一方で、もともと水流があった堀割だったようで、上流と下流の二箇所に大きな下水道処理施設があります。

東西に幅広く長い公園。
保育園。正面が区の施設。建物の幅が水路の幅。かなり幅広い堀であったことが分かります。戦後も昭和40年代までは水運として賑わったようです。
亀島川合流地点にある「桜橋第2ポンプ場」。 
合流地点。コンクリートの護岸がかつての八丁堀の河口か? 奥に見える橋が「南高橋」。都内で二番目に古い橋。
「鉄砲洲通り」。

「京華スクエア」前に設置されている与力・同心組屋敷跡 説明板。現在の八丁堀から茅場町の一帯に組屋敷があった。

所在地 中央区八丁堀1〜2丁目・日本橋茅場町1〜3丁目の一帯。
 江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
 八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
 初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300〜500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地でした。
 これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍しましたが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
 平成13年3月 中央区教育委員会

 「八丁堀」付近は、史跡に富んだところのようです。

この周辺には、近代的ビルの中に、戦前を思わせるコンクリート製の高層建物が残っています。


「木挽町」。京橋公園。「旧京橋小」。(震災復興52小公園。その26。)

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?京橋公園(京橋小)

 銀座1丁目。首都高・京橋ジャンクションのすぐ南。銀座4丁目の交差点から直線距離にして約600?。


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央に見えるのが「京橋小」と「京橋公園」。学校の西側の広い通りは「昭和通り」。かなりの渋滞。左(西)が銀座方向。


ほぼおなじところの1880年代のようす(「同」より)。上部東側付近、十字に交わる堀割。西は「京橋川」東は「八丁堀(桜川)」北は「楓川)南は「三十間堀」。「三十間堀」の東側地域が旧「木挽町」(現在の東銀座、銀座)。「三十間堀」の直角に折れる辺りが、現在の京橋プラザ(旧京橋小)・京橋公園。右下の堀割は、「築地川」。
 かつて、楓川には「弾正橋」、京橋川には「白魚橋」、三十間堀に「真福寺橋」が架かり、この三橋を「三つ橋」と称し、江戸の名所の一つとなっていたようだ。
「弾正橋公園」にあった標識。「白魚橋駐車場」とある。「白魚橋」は駐車場名として残っている。

「三ツ橋」の図。

「木挽町(現・・・銀座)」の由来碑。
 
 慶長8年(1603)徳川家康が幕府を開き、日比谷入江等を埋め立て造成し城下町を形成した。
 慶長17年三十間堀が開削され、その東側に南北に細長い木挽町が出来た。木挽町の名の起こりは、江戸城改築にあたって木挽(木曳)職人を多く住まわせたためといわれている。木挽町の町名は東銀座、銀座と変わったが、木挽町の歌舞伎座、木挽町の柳生道場と幾多の歴史上の名を残した由緒ある町名であった。
 京橋プラザの建っているこの場所は元京橋小の跡地で三十間堀が屈折して白魚橋で京橋川に注ぐ位置に在り、この新築にあたって、地中より掘り出された護岸の石が植え込みの囲いとして使われている。
 
 おやじ注:「三十間堀」:幅が三十間(約54.5m)あったことからその名が付けられた。

護岸として用いられていた石が植え込みの囲いに再利用。
「木挽町 きやうげんづくし 歌舞伎座」縁あってずいぶん前にもらったTシャツ(たしか裏方さん《舞台部》からだった)。

公園内にある「蜊河岸」碑。

蜊(あさり)河岸
所在地 中央区新富1―1・4地域
現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつ、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代後期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井春蔵の「士学館」がありました。嘉永六年(一八五三)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。
 平成十二年三月 中央区教育委員会

公園の東側から。

すべり台。復興小公園につきもののコンクリート製の二連式すべり台。2011年8月、老朽化等のために撤去され、モニュメントとして写真とともに掲示されたあります。

 京橋公園は(関東大)震災復興のときに整備された公園であり、コンクリート製すべり台は当時の面影を残すものとして長い間公園利用者の皆様に親しまれてきました。・・・
 平成23年8月 中央区環境土木部水とみどりの課

 1923年(大正12年)9月の関東大震災復興のときに設置された「二連式すべり台」が2011年3月の東日本大震災を機に安全性、老朽化のために撤去されたのも不思議な因縁を感じます。

 震災復興校舎だった「京橋小学校」は、統廃合ですでになく、「京橋プラザ」という大きな複合高層住宅になっています。
公園と接する「京橋プラザ」の建物。
 階数 地上19階
 高さ 73.08m
 竣工 1999年06月(平成11年06月)
 区民住宅の他、ホールもある区民館施設として建設された。

「京橋プラザ」。

超高層の複合ビル。

公園側から。

 一階吹き抜け部分には、旧京橋小にちなんだモニュメントがあります。
半円形の石柱。
旧校舎。
校歌。
沿革史。

説明板。
 
 一、半円形の石柱は、当時の工作室脇の階段の柱です。
 一、記念レリーフの絵は、昭和10年代後半か昭和20年代初期の写真を基に彫刻いたしました。
 一、記念レリーフの木枠は、当時の黒板を使用してあります。
 一、喫茶室の木製の窓は当時のものです。使用し手あるガラスは昭和初期の製品で、大変に貴重なものです。今では  作っていません。よく見ると、ガラスはゆがんで見えると思います。
 一、校歌の文字は第12代校長星野武之先生の書を彫刻いたしました。
 平成11年6月 中央区立京橋小学校同窓会

城東小学校。(震災復興52小公園。番外編。その8。)

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 「中央区立城東小学校」校舎。旧校名「京橋昭和小学校」。この校舎は、復興小学校の一つとして、昭和3(1928)年に建てられ、今も現役の校舎として使われている。
 震災後、1930(昭和5年)度まで7年間のあいだに117の「耐火耐震」コンクリート製校舎が建設された。中央区(旧日本橋区・旧京橋区)には24の「復興小学校」が建設され、この二校とも1929(昭和4)年に完成した。

 1962(昭和37)年4月 日本橋区立日本橋城東小学校(明治8年創立)と京橋区立京橋昭和小学校(昭和3年創立)が統廃合の結果、合併し、旧京橋昭和小学校校舎に「中央区立城東小学校」として新設された。
 旧「日本橋城東小学校」は、東京駅八重洲口の北東、「タカシマヤ」と中央通りを挟んで西側、「丸善」の裏手にあった学校で、跡地は現在、「日本橋プラザビル」となっている。こうして、「城東小」の校舎のみ残った。

1896年ころのようす(「今昔マップ」より)。東京駅がまだない頃(東京駅の開業は、1914《大正3》年12月20日)。皇居(江戸城)の外堀がある。上から「呉服橋」「八重洲橋」「鍛冶橋」。赤丸が「京橋昭和小」の前身の学校で、南槙町にあった。場所は現在地と変わらない。

1975年ころのようす(「同」より)。Aが「日本橋城東小」Bが「京橋昭和小」。青い線が「外堀通り」。

2000年ころのようす(「同」より)。Aが「日本橋プラザ」になっている。Bが「城東小学校」。

 八重洲口駅前の外堀通りの信号を渡り、小道を一本入れば、この小学校がある。うっかりしていると通りすぎてしまいそう。こんなところに小学校が、という印象。
 今でこそ、東京駅に最も近い場所にあって高層ビルに囲まれた小さな存在になってしまった小学校だが、この校舎が竣工した昭和はじめは、東京駅の八重洲口東には幅広い外堀があり、東京駅からはその堀をはさんだ場所にあった。(当時、京橋の繁華街・中心はもっと東側の地域で、小学校は町のはずれの住宅地にあった。)

 他の復興校舎と同様、建物の特徴は、当時のヨーロッパのモダンデザインが多く用いられていること。玄関や門柱のデザインはアールデコ風で、半円形の窓などはドイツ表現派の影響がみられる。
壁面。窓枠が大きい。


正面玄関。両脇の門柱や玄関の庇などに特徴。
裏手の玄関。
門柱。
庇下のデザインに注目。
校章。
半円柱。復興校舎の特徴の一つ。

ビルの谷間にどっしりとした存在感。


学校脇の道路から東京駅八重洲口を望む。
外堀通りからの八重洲口。


1学年1クラス 男女合計80名の小規模校。学習面、生活面。さらに運動会、学芸会でも、学年をこえて全校で協力して作り上げているようす。きめ細かな指導ができそう。都会のど真ん中にある本当に「小」小学校。

(「城東小」HPより)

読書「集団的自衛権の深層」(松竹伸幸)平凡社新書

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 次期通常国会において「集団的自衛権」の行使容認を何としても押し通そうと躍起になっている。衆参で圧倒的多数を占めていることで、その決意は現実のものとなって、まさに解釈改憲路線を鮮明にしてきた。
 「特定秘密保護法」が米軍との情報一体化・共有化のためのもの(実際は従属化)と位置づけて強引に国会を通し、今度はいよいよ「集団的自衛権」行使容認を国会で通すことによって、米軍との軍事行動一体化を成し遂げようとしているのだ。
 これによって、「日米安保条約」の文言上の実質的な改変によらず、アメリカが主導し、日本が従属する日米軍事同盟がより強化され、いよいよ自衛隊の海外派兵(地球の裏までも)が現実化することになった。
 次には、「自衛隊」がその名のごとくに「個別的」自衛権しか行使できない「重大な欠陥」を、自民党の憲法草案にあるような「国防軍」(名実ともに軍事同盟アメリカ軍と一体となって集団的自衛権を行使できる「軍隊」)構想により近づけていくだろう。これもまた、現憲法(具体的には第九条)には触れずに、自衛隊法の改「正」によって実現させていくかもしれない。
 他国が行う戦争に参戦するため、具体的には同盟国・アメリカのしかける(「しかけられた」と称する)戦争に後方支援から一歩踏み出し、ともに戦場に於いて肩を並べて戦う、たとえば「中国がアメリカ艦船を攻撃する」事態にともに対応する(先制攻撃も含めて)ことができる・・・。かつては、台湾海峡を巡る中台軍事衝突を想定してのもの? 現在は尖閣諸島をめぐる日中軍事衝突を想定? 米軍の目論見も含んでの・・・。しかし、はたして現在・将来の対中関係をみるとき、米軍がただちに参戦するかどうかはかなり疑問だが。
 むしろ米軍への敵からの攻撃防衛(あるいは米軍により敵への先制攻撃援護)にとどまらず、米軍と一体となっての武力行使の行動を当然のものとするだろう(そうするために、既成事実を積み重ねようと早くも画策している)。
日本は、ベトナムしかり、イラクしかり、戦後、アメリカが行ってきた多くの軍事行動に、一度も反対の声をあげたことがない、という世界の国々でも実にまれな「主権」国家。今後は、名実ともにその傾向にいっそうの拍車をかけるに違いない。
 麻生がいみじくも公言した「静かに」「気がついたら」、アメリカに従属しての戦争を行える「普通の」国家に日本がなっていく。
 また、「集団的自衛権」行使によって、派遣隊員が戦闘行為で犠牲者・戦死者が出ることを想定してか、アベが言い放ったように「(兵士は)靖国で会おうと(死んでいった)」という「虚妄な」キャンペーンなどが、年末の靖国参拝によって始まった。これも、有事の際、「戦争」「戦時」体制に一般国民を組み込ませるための着実な布石となってきている。

 こうした先行に対して、マスコミをはじめ、国民の反応も今ひとつ。先の「特定秘密保護法」反対の動きは遅きに失した! 今回の「集団的自衛権」行使問題については、はたしてどうか?

 この書は、「解釈改憲」による「集団的自衛権」行使を容認するため、安倍首相が設置した「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇話会」が13年秋に提出した「報告書」の内容にそってその矛盾と危険性を明らかにしたもの。
 世界での軍事衝突、軍事介入の実例をあげながら、アメリカなどによる「集団的自衛権」の行使そのものが、いかにまやかしのものであったかを明らかにする。そうして「報告書」の問題点を実証的に洗い出す。
 ともすれば「反中」「反韓」感情を持つ多くの日本人の意識に依拠しながら、情緒的、感情的なキャンペーンにしておいて、最後は数の力で通す、そうしたアベ政権の真の思惑を理論的、実証的に打破するための、示唆に富んだ書である。

 アベは、国民に対しては今の日本経済上向き効果を強調、国民の支持を得ている、衣の下の鎧は隠したままで。そうして国民が気がつかないうちに日本国民を戦前のような国家体制へ持ち込もうとしている。その奥の意図を見抜かなければならない。  
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