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汐見坂。江戸見坂。霊南坂。菊池寛実記念 智美術館。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その1。)

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 5月18日(月)午後。約2時間の探索。最寄り駅では「溜池山王」~「六本木一丁目」~「麻布十番」。地域では、首都高都心環状線が頭上を覆う「国道1号線」の東側、「桜田通り」との間。
 この地域は「アメリカ大使館」、「ロシア大使館」、「スペイン大使館」などの大使館や「ホテルオークラ東京」、「アークヒルズ」、「サントリーホール」など文化施設の立ち並ぶ区域。その建物群の間を縫いながらの坂道探訪です。

 ちょっと遅くなりましたが、その報告。

 なお、坂道探訪には、

 

 」HPを参考にしています。

 この辺り、よくよく考えてみたら、頭上は「首都高」で、いつも通る道筋。「谷町Jct」、「一の橋Jct」・・・、下の街を見る余裕もないが、たしかに見覚えのあるビルが建ち並ぶ景色。そのところを歩いたわけです。

 「溜池山王」駅から「六本木通り」に出て、「榎坂」を上がり、「汐見坂」に向かいましたが、その付近から物々しい雰囲気。防護柵(バリケード)が道の半分近くをふさぎ、歩道も通行不可。機動隊員ががっちりガード。右手に「アメリカ大使館」。そのため、周囲は厳重な警戒態勢。まさに現代の「見附」。

反対側の歩道を上って行くと、「汐見坂」。

汐見坂
 江戸時代中期以前には海が眺望できた坂である。南側に松平大和守(幕末に川越藩)邸があって、大和坂ともいった。

 右手が「ホテルオークラ」左手が「国立印刷局」。

東側から坂を見る。

「ホテルオークラ」を過ぎて、右に折れると「江戸見坂」。



江戸見坂
 江戸の中心部に市街が開けて以来、その大半を眺望することできたために名づけられた坂である。

    
             「ホテルオークラ」の敷地をぐるりと取り囲むように進む、けっこう急な坂道。

     
              坂を上り詰めた左手にあるのが、「菊池寛実記念 智見術館」。



 菊池寛実記念 智美術館(きくちかんじつきねん ともびじゅつかん)は、現代陶芸のコレクターである菊池智(とも)が長年にわたり蒐集してきた現代陶芸のコレクションの一般公開、関連事業による現代陶芸の普及、および陶芸作家や研究者の育成を目的とし、2003年4月に東京・虎ノ門に開館いたしました。
 美術館はホテル・オークラのすぐ近くの虎ノ門の高台に立つライム・ストーンの外壁をもつ西久保ビルの地下1階にあります。西久保ビルという名称は中世の時代に西久保城があったことに由来しています。敷地内には、西久保ビル(2003年竣工)と大正時代に建てられた西洋館(国の登録文化財)、智の父でありこの地を拠点として活動した実業家・菊池寛実(かんじつ)のための持仏堂と和風の蔵が、百年ほどの歴史のある庭を囲んで都心の中に独特な空間を構成し、隠れ家的な雰囲気を醸しだしています。
 当館は設立者である菊池智の美意識を一貫して反映させた個性的な空間としてもお楽しみいただけます。1階の受付から螺旋階段をくだりながら空間はいつしか日常から非日常へとうつり変わり、地下1階の展示室では暗がりのなかから作品が1点ずつスポットライトを浴びて姿をあらわします。それはまるで、作品を見ながら自分と作品とが対話を交わすようであり、それこそが彼女がこれまで考えてきた、美しい作品と出会い、作家の思いを受けとめるための理想の場と言えるのかもしれません。
 智美術館は、開館以来、「藤本能道(ふじもとよしみち)展」「十五代樂吉左衞門展」「小池頌子展」をはじめ、さまざまな企画展を開催してまいりました。隔年ごとに開催予定の「菊池ビエンナーレ」や「智美術館大賞 現代の茶陶―造形の自由・見立ての美」も、展覧会事業の一環を担う企画として育ちつつあります。陶芸の枠にとどまらず、現代工芸の発信地となるべく活動を続けていきますが、どうぞ皆様におかれましては当館をご愛顧いただきますようお願い申し上げます。

        螺旋階段
 1階の玄関ホールと地下の展示室を結ぶ螺旋階段室は菊池智のアイデアがもっとも生きている空間です。壁面には銀の和紙がはられ、その上に書家の篠田桃紅氏の「いろは歌」の料紙が「真・行・草」の漢字をかたどったコラージュ作品としてほどこされています。ガラスの手摺りはガラス作家の横山尚人氏によるものです。天井からの光を受けて宝石のように輝き、美しい曲線を描いています。

(「菊池寛実記念 智見術館」HPより)

 ぜひ入ってみたいところですが、あいにく休館日(月曜日)でした。

右手角に「大蔵集古館」。

 明治から大正期にかけて大きな財をなした実業家大倉喜八郎が、長年に亘って収集した古美術・典籍類を収蔵・展示するため、1917年(大正6年)に財団法人大倉集古館として大倉邸の敷地の一角に開館したもので、日本最初の私立美術館である。開館からまもない1923年(大正12年)、関東大震災によって当時の展示館と一部の展示品を失い、一時休館を余儀なくされた。
 1928年(昭和2年)、建築家伊東忠太の設計による耐震耐火の中国風の展示館が完成し、翌年再開館した。その後昭和30年代にホテルオークラ東京の建設のため一部の建物が解体された。解体前の建築は現存する展示館から長い回廊が伸び六角堂を経て表門に至る壮大な建築であった。喜八郎の子大倉喜七郎も近代日本画などの収集品を館に寄贈している。
 日本・東洋の絵画、書跡、彫刻、陶磁器、漆工、金工、刀剣、能面、能装束、考古遺物など約2,500点と中国の古典籍(漢籍)約1,000部を所蔵し、年間5回ほどの企画展を開催している。
 2015年(平成27年)9月より開始されるホテルオークラ東京本館の建て替えに伴う施設改修工事のため、2014年(平成26年)4月より長期休館している。再開は2018年(平成30年)の予定。(以上「Wikipedia」参照)

 その角を右に曲がると、「霊南坂」。左手が「アメリカ大使館」のため、坂道の両側は機動隊員が警戒中。キョロキョロ歩き、写真でも撮っていると、すぐ尋問を受けそうな雰囲気。
 ところが、「霊南坂」の標示は「アメリカ大使館」側の歩道に。そこはバリケードがあって立ち入り禁止。
 道路越しに「大使館」側で警備に当たる若い機動隊員に大声でわけを話す。
 バリケードをずらし、通してもらって撮った写真がこれ。

「そういう目的ならばいいですよ」
「ただし、大使館側は撮さないで下さい」
「他のお固い人だとダメだったかもしれませんよ」・・・。

    

霊南坂
 江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が嶺南庵としてここにあり、開山嶺南和尚の名をとったが、いつしか「嶺」が「霊」となった。 

    
 坂の途中から坂上を望む。                    坂上から坂下。

 坂の途中、左手に「ホテルオークラ」正面玄関に通じる広い出入口。現在の純日本調の建物は、今年8月いっぱいで営業を終え、19年春に地上38階建てとして生まれ変わることになるらしい。
 坂を上りきって右に折れると、左手には「霊南坂教会」。1980年に山口百恵と三浦友和が結婚式を挙げたことで知られる。

その向かい側は「陽泉寺」などいくつかお寺が昔のままに。



     1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 ←が「江戸見坂」。南側一帯に江戸の街が広がっている。→が「霊南坂」。○が「ホテルオークラ」の現敷地。中央・北付近が現「アメリカ大使館」にあたる。

桜坂。スペイン坂。道源寺坂。御組坂。偏奇館跡。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その2。)

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 霊南坂から西南付近は、けっこう坂道が入り組んでいて、「桜坂」、「榎坂」、「鼓坂」、「三谷坂」、「新榎坂」などと名づけられているようです。「桜坂」の標識のみ確認できましたが、他は・・・。そこで、不明なところは、『江戸東京坂道事典』コンパクト版 石川悌二著(新人物往来社)を参考にさせていただきました。

「霊南坂」を右折したところにある坂道。「榎坂」? 下方に見える坂が「桜坂」。坂の途中に「霊南坂教会」、坂下の左手角に「榎坂ビル」があります。

榎坂
 赤坂一丁目十番、アメリカ大使館正門前を霊南坂から西北に下る坂道で『紫の一本』には「榎坂 溜池堤より赤坂の方へ行く坂なり、大木の榎一本あり。・・・」・・・(「上掲書」 P185)
 江戸時代初期、「溜池」の水を苦労して築き留めた、その功のしるしとして榎を植えたことに由来する、と説明されています。

「サントリーホール」へ通じる歩道橋から下を望む。「桜坂」or「鼓坂」 
                  

鼓坂
 この坂は霊南坂教会(赤坂一丁目一三番)の北わき、同一二番との間を西へ下る坂で、桜坂の南に並んでいる。(「同」P186)
ということから、この坂は、「鼓坂」と思われます。

 素人考えですが、「鼓」坂は、上にもあるように溜池「堤」に下る坂だったとすれば、「堤」坂ということに? 「桜坂」は明治中期に新設された坂ですので、江戸期にはこの「鼓(堤)坂」が西北に下る坂だったっような・・・。

 この付近を上ったり下ったりしながら歩き回りました。

  「三谷坂」? (左)六本木一丁目と(右)赤坂一丁目の境にある。「ホテルオークラ東京別館」から西北へ下る道。

山谷坂(さんやざか)
 坂下はもとの麻布谷町であるが、同町はそれよりむかし今井三谷町とよばれていた。したがって、この坂も今井三谷町にかかるので三谷坂とよんだのであろう。(「同」P194)
 
 再び「桜坂」を下って行きます。

    
                                   右手には「SAISON さくら坂」。

桜坂
 明治中期に新しく作られた道筋で坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからその名がついた。

    
桜の季節はさぞかしすばらしい道に。                     坂下から見上げる。

 「ANAコンチネンタルホテル東京」の脇に下りて、「六本木通り」に出ます。左に曲がり、しばらく進むと、右手の坂が「スペイン坂」。

    
                          付近の案内図。右図で右にカーブする坂が「スペイン坂」。


スペイン坂の由来

 1986年(昭和61年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK HILLS)は誕生しました。当時の民間における都市再開発事業としては最大級の規模(総敷地面積56,000㎡)を誇り、共同住宅、オフィス、ホテル、テレビスタジオ、コンサートホールなどを組み合わせた複合型街づくりは、その後の都心部における再開発事業のさきがけとなりました。
 そのアークヒルズの南方に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館につながることから「スペイン坂」と名付けられ、多くの人々に親しまれています。
 春には、両側の歩道に植えられた桜が坂道を被うように咲き乱れ、都心における桜の名所としても知られています。

 2001年1月1日     アークヒルズ自治会 森ビル株式会社

左手が「森ビル」。

坂の途中から「六本木通り」方向を望む。

  すぐ南隣の坂が「道源寺坂」。

道源寺坂

江戸時代のはじめから坂の上に道源寺があった。その寺名にちなんで道源寺坂または道源坂と呼んでいた。

    
 左手に「道源寺」。                           坂下を望む。

江戸時代からの坂らしい坂が残っていることにビックリ!

 「スペイン大使館」を左奥に見て、坂上を右に曲がります。

    
御組坂

 幕府御先手組(おさきてぐみ・戦時の先頭部隊で、常時は放火・盗賊を取り締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった。

 タイル舗装のしゃれた坂道。この付近も大きく変貌していて、この坂も江戸期の道とは少し異なるようです。
 
 現在、「泉ガーデンタワー」となっている付近には、かつて永井荷風が住んだ偏奇館(戦災で焼失)がありました。
    
        記念碑。                            「泉ガーデンタワー」の一角。

偏奇館跡

 小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の偏奇館を新築し、二十五年ほど悠悠自適の生活を送りましたが、昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。
 荷風はここで「雨蕭々」「墨東綺譚」などの名作を書いています。
 偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情趣に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。

    冀くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ
    われ一人住むといへど
    幾年月の過ぎ来しかた
    思い出の夢のかずかず限り知られず
                     「偏奇館吟草」より

  平成十四年十二月     港区教育委員会

 この付近も1990年以降の大規模な都市開発により、曲がりくねった坂道・石段があり、崖にへばりつくようにあった木造の家屋群などもすっかりなくなって、高層ビル街に変貌。
 「偏奇館」があった付近の家屋や地形を含めてまったく跡形もなくなってしまいました。「偏奇館跡」碑の位置も実際にあった場所よりも北にずれているようです。

そのまま道なりに進んでいくと、右手の角には、「山形ホテル跡」。

 此処は、大正9年から昭和元年まであった山形ホテルの跡地である。
 永井荷風は、此処から北百米程の処に木造2階建ての洋館を建て、『偏奇館』と称した。
 25年ほど独居自適の生活を送ったが、昭和20年3月10日の空襲で焼失した。
 荷風は其処で『雨瀟瀟・雪解』『墨東綺譚』などの名作を書いている。
 荷風の日記『断腸亭日乗』には山形ホテルが登場する。彼は此処を食事、接待のために頻繁に利用した。
 当時、山形ホテルの北側は崖になって、間に小さな谷間を挟んでその対岸に偏奇館が建っていた。
 山形ホテルの主人、山形巌の子息が俳優山形勲(大正4年ロンドン生まれ、平成8年没)である。衣笠貞之助監督『地獄門』(昭和28年)今井正監督『米』(昭和32年)など、代表作は数多い。
 永井荷風の研究家である、評論家川本三郎は著書『荷風と東京』(平成8年、都市出版)で、荷風と山形ホテルに一章を割いている。
 昭和47年に麻布パインクレストが統治に竣工した。爾来30年が経過、都心部での住民書道によるマンション建替えの嚆矢として今般麻布市兵衛ホームズが完成した。

 平成16年10月 麻布市兵衛ホームズ ・・・

          「碑」から北側を望む。

 右折して六本木通りに出ます。ここで、小休止。南北線「六本木一丁目」駅の地下街で、と。はるか地下深くまで下りるために連続するエスカレータ・階段が今どきの急坂になります。

           

行合坂。落合坂。三年坂。雁木坂。狸穴坂。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その3。)

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 小休止して、再開です。再び「六本木一丁目」駅地下街の坂(「エスカレータ」を利用してですが)を上がって地上に。「麻布通り」を少し「飯倉」方向(南)に進むと、行く手の先で上りと下りになる坂が「行合坂」。

    
                              「行合坂」。

 双方から行き合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでない。

 「行合坂」と直角に交わる坂が「落合坂」。東西に延びる坂道。

     
                              「落合坂」。

「我善坊谷」へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。



 この道の両側には江戸時代には「御先手組」の屋敷が並んでいました。

「先手組(さきてぐみ)」

 江戸幕府の軍制の一つ。職制上は若年寄に属し、治安維持の役割を担った。先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した。
 しかし、江戸時代に入ってからは戦乱があまり起こらなかったので、平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めた。先手頭は、六位相当の布衣役で、役高1500石のほかに役扶持として60人扶持が支給された。また、先手頭は「各大名家の『御頼みの旗本衆』とされ、幕府との事前打合や報告同行などを勤めるため、由緒ある旧家の人が任命されていた。
 時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた。
 同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。(以上、「Wikipedia」参照)

 明治になってからは、小さな住宅が建ち並ぶ街になったようです。西側が大きく変貌する中でまだかつての面影を残しているところです。

                     坂下から西を望む。


下りきって「稲荷坂[我善坊谷坂]」との交差点にある標識。

西北に上がる坂。稲荷坂(我善坊坂)? 

 この坂の途中は、趣のある住宅街。坂上から望む。

稲荷坂〈我善坊谷坂〉(いなりざか〈がぜんぼうだにざか〉)
 麻布台1丁目1番と2番の間を西北に上る坂道です。

    
                            三年坂(さんねんざか)
                
 いつの頃よりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか、定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。
 京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。

 坂らしい坂。南にある坂と同様の「雁木坂」とも呼ばれたらしい。振り返ると、眺望もすばらしい。京都・清水の三年坂(三寧坂)と比べるのはどうかと思いますが・・・。

     

坂道を上がると、左側は「霊友会」の施設。

しばらく進と、左手に急な石段。雁木坂。

雁木坂(がんぎざか)
階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたからともいい、当て字で岩岐坂とも書く。

    
                                    木漏れ陽の下の急坂。

東京タワーに通じる坂道「永井坂」。     

永井坂(ながいざか)
江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。

「榎坂(えのきざか)」。

 飯倉交差点から西へ上がる坂。正面のお店の名に「榎」という文字が。
 その坂を上がっていくと、左手が「ロシア大使館」。ここも厳重な警戒網。バリケードがあって、ここも現代の「見附」。大使館の先を左折すると、「狸穴坂」。

    

狸穴坂(まみあなざか)
まみとは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。

 坂上部の東側(左側)は「ロシア大使館」になります。

     
                               坂下から。
     
    
 「狸穴公園」を右折して行くと、

 「鼠坂」。

 細長く狭い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で上は植木坂につながる。

    
 坂下から。                              坂上から。

 この付近には、「狸」がいたり「鼠」がいたり「鼬(いたち)」がいたり、さらには「溜池」があったりと、高台と谷と湿地が入り組んだ土地柄だったようです。今やその面影もありません。

坂上で西南(左)に向かう急坂が植木坂。

     
    坂下から。                           坂上から。
植木坂(うえきざか)
 この付近に植木屋があり菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。

島崎藤村旧居跡。鼬坂。永坂。更科。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その4。 )

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 「外苑東通り」に向かう坂道「鼬坂」の途中には、
「島崎藤村旧居跡」。
 「メゾン飯倉」の下には、(株)東京楽天地が昭和48年4月3日に建てた石柱と説明文を彫った石板があります。

 藤村は71才の生涯のうち文学者として最も充実した47才から65才(大正7年~昭和11年)までの18年間 当地麻布飯倉片町三十三番地に居住した。
 大作「夜明け前」 地名を冠した「飯倉だより」 童話集「ふるさと おさなものがたり」などは当地での執筆である

付近のようす。

「鼬坂」。「外苑東通り」から望む。
鼬坂(いたちざか)

外苑東通りの「外務省外交史料館(飯倉公館)」前から南方に下る坂道です。港区麻布台3丁目4番と5番の境界にある坂道です。坂上は外苑東通り。

 「鼬坂」のほか、「植木坂」、「鼠坂」については、どこの坂道がそれぞれの名称に該当するのか諸説あるようで、文献によってその示す場所が異なっているとのこと。石川悌三「江戸東京坂道事典」はこの坂を「植木坂」としています。
「鼠坂」、「植木坂」は、どちらも別の坂道に港区設置の標識がありますが、「鼠坂」の説明では一名「鼬坂」と書かれているし、「植木坂」の説明でも「外苑通り」から下りるところ、とも書かれています。はたして真相はいかに?

 「飯倉片町」の交差点を西に進み、最初の角を左折すると、緩い下り坂。その途中遠くに「標示」が。


     
永坂(ながさか)
 麻布台から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が住んでいたともいうが、その確証はえられていない。


 しばらく下ると、頭上に首都高が通る「麻布通り」に合流します。合流するまでが「永坂」なのか? もっと下っていた先までなのか? 

合流点の三角地帯に「永坂上児童公園」があります。ということは、もっとしたまで「長く」続く坂だったようです。

    
      広い通りを道なりにどんどん「新一の橋」方向に下って行きます。

坂の途中から望む。右が首都高。

ありました! かなり下った右側に「永坂」という標識が。

坂下から坂上を望む。

右の角にある「麻布永坂 更級本店」。

 更科(さらしな)は、蕎麦屋の老舗のひとつ。江戸の蕎麦屋の老舗としては、砂場、藪とあわせて3系列が並べられることが多い。

 創業は江戸時代寛政元年(1789年)と伝えられている。信州の織物の行商人をしていた清右衛門なる者が、江戸での逗留先としていた麻布・保科(ほしな)家に勧められ、麻布永坂町で蕎麦屋をはじめた、とされている。開店に際し清右衛門は太兵衛に名を改め、開店時に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げたという[1]。「更科(さらしな)」は、蕎麦の産地である信州更級(さらしな。現長野市、千曲市、埴科郡坂城町の一部)に保科家の「科」の文字を組み合わせたもの。なお、信州更級は当時よりソバの産地であったため、他にも「さらしな」を名乗る蕎麦屋は存在していたようである。
 更科の特徴は、蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦(更科蕎麦)である。これがいつ頃からのものかは明らかになっていないが、1750年頃にはすでに存在していた模様。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期から明治時代のことと考えられている。
 更科は、明治10年代までのれん分けなどを一切しておらず、(旧)布屋太兵衛の一軒のみでの営業だった。のれん分けがはじまり、更科を冠した蕎麦屋が増え始めるのはそれ以降のことである。現在では東京都港区麻布十番にある3軒の更科のほかにも、都内の芝大門、神田錦町、有楽町などにのれん分けをした更科の店がある。

麻布十番にある3つの更科
 昭和恐慌による出資先麻布銀行の倒産、戦時体制による統制などに加え、七代目松之助の放蕩が駄目押しになり(旧)布屋太兵衛は昭和16年(1941年)にいったん廃業する。戦後、七代目松之助から屋号使用の許諾を受けたとする馬場繁太郎が「永坂更科本店」を開業する。屋号の使用につき裁判となるが、七代目が馬場に渡した承諾書がでてきたため和解。馬場側が「永坂更科本店」の永坂と更科の間をあけ「麻布永坂 更科本店」とし、「永坂更科」を強調しないことで合意する。
 かつての更科とは無関係の人間が出店したことを受け、七代目松之助と当時の麻布十番商店街会長である小林勇などが中心となり、昭和24年(1949年)に「永坂更科 布屋太兵衛」を再興する。このとき法人として店名の「永坂更科」を商標登録し、また「(旧)布屋太兵衛」の屋号も「永坂更科 布屋太兵衛」側に引き継がれることになる。
 その後、昭和59年(1984年)に八代目松之助が独立して麻布十番に開店するが、屋号に「布屋」を用いていたため永坂更科布屋太兵衛側と裁判となる。商標権をもたない八代目松之助は布屋を名乗れず、自身の姓である「堀井」をつけ店名を「総本家 更科堀井」に改称した。
 このため、現在は「麻布永坂 更科本店」(七代目から屋号使用の許諾を受け開業)、「永坂更科 布屋太兵衛」(店舗・会社組織として株式会社永坂更科布屋太兵衛が(旧)布屋太兵衛を継承)、「総本家 更科堀井」(店主が(旧)布屋太兵衛の創業者の直系)の3店が存在することとなる。いずれも近隣にあり、3店が並ぶ麻布十番は更科系老舗の密集地帯となっている。
(以上、「Wikipedia」参照)


 知りませんでした! 更科は蕎麦系としては、かなり好んで食する方ですが、近所にはないので、なかなか・・・。
 坂下の「新一の橋」交差点を渡って、通りの反対側を少し上がると、「永坂更科発祥之地」。

碑文

永坂更科発祥之地
    昭和五十四年十一月吉日
      永坂更科布屋太兵衛 建之

 その下に細かい字でいきさつが彫られていますが、判読不能につき、省略。

そこから坂下「麻布十番」駅方向)を望む。右が首都高。

 今回、なかなか変化に富んだ町並みを探索しました。高層ビルの間に昔ながらの平屋建てや木造建築があったり、路地があったり、表通りの賑やかな都心らしい雰囲気とはひと味違った街の姿を垣間見ました。都内の坂はまだまだ見所が満載です。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 中央左下が「麻布十番」駅付近。「永坂」が南北に延びています。右上の道が現「外苑東通り」。中央、「嶋津邸」付近は「狸穴公園」など現在も緑が多く残っています。

左内坂。中根坂。浄瑠璃坂。芥坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その1。)

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 6月6日(土)。午後2時頃から4時頃。JR「市ヶ谷」駅で下車して、「左内坂」から。・・・上がったり、下ったりで「神楽坂」まで。新宿区のエリアですが、町の名称も由緒あるものが入り組んで存在している町並み。前回の六本木付近に比べて、昔ながらの坂道が続きます。
 「市ヶ谷橋 」を渡って、まずは案内図で確認。ここは、一部を除いて標識が建っています。

「左内坂」。「外堀通り」を渡ったところにある。

    

左内坂(さないざか)
 この坂は江戸時代初期に周辺の土地とともに開発されたもので、開発名主島田左内の名に因み左内坂と呼ばれるようになった。島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内を名乗ったという。

けっこう長くて急坂。

市ヶ谷駅方向に向かう道として人通りもあり、両側には商店も並んでいますが、段違いに斜めに。激しい雨とか雪の時には、下るのに足もとが心配なほどの急坂。下っていく車の姿もすぐに見えなくなるほど。

その坂をあえぎあえぎ上ると、左手が自衛隊の広大な敷地。
                                                 正面を右折します。

    

 左手が「日本学生支援機構」。もとは、「日本育英会」。学生時代、大変お世話になりました。ここの坂が、「安藤坂」?

 その先は「大日本印刷」の大がかりな建設工事が盛んに行われていて、道の様子も広くなるなど、まだ建物が立ち上がっていないせいなのか、明るく広々とした雰囲気に。

           「中根坂」にさしかかる。

上り詰めたところにある標識。    

中根坂(なかねざか)
 昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。

 「安藤坂」から緩やかに下って、また上りになる坂道です。周囲は、「大日本印刷」関連の施設が並びます。再び下って十字路を左に曲がって、広い道を「外堀通り」方向に緩やかに下って行きます。途中、右斜めに上る坂があります。「長延寺坂」。

    

長延寺坂(ちょうえんじざか)
 昔、この坂の上に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから自然にそうよばれるようになったという。

    坂上から望む。

 いったん「外堀通り」出て、その先、左手の坂道を上ります。「浄瑠璃坂」。

浄瑠璃坂(じょうるりざか)
 坂名の由来については、昔、この坂で「あやつり浄瑠璃」の小屋興行を行ったから。近くに光円寺があり、その本尊の薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であるからなどの諸説がある。

 この坂もけっこう長い坂。

    
 坂の途中から坂下方向を望む。                  坂上から望む。

 突き当たりをすぐ左折すると、西南に向かう坂道があります。「芥坂(ごみざか)」

「芥坂」の歩道橋付近から振り返る。

「歩道橋」に「ごみ坂」とある。

 今でこそ歩道橋によって南側の通りと結んでいますが、もともとは、そうとうな急坂だったような。崖の上から下へまさにゴミ捨て場のようになっていたのでは。その名のように、歩道橋下はかなり低くなっています。

    

                  





                  1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 現在の自衛隊の敷地は「陸軍士官学校」でした。坂の名前も「左内坂」「安藤坂」「中根坂」「芥坂」等が記されています。また、「長延寺」の名も。坂道に関してはほとんど現状と変化がないのも驚くほどです。

 

鼠坂。「浄瑠璃坂の仇討ち」。払方町。鰻坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その2。)

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 「芥坂」を戻って、今度は左に曲がります。
「芥坂」上から下を望む。

西に向かって急角度で曲がりながら一気に下りていく坂。「鼠坂」。

鼠坂(ねずみざか)
 細くて狭い坂だったから、まるで鼠がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう。

坂の途中から見上げる。
 坂下は「中根坂」につながります。工事中のフェンス。石垣がかつてを偲ばせます。この坂も周囲が大きく変化すると、雰囲気がずいぶん変わるはずです。

 そこに向かう途中、「大日本印刷市谷松柏寮」のところに、
「浄瑠璃坂の仇討跡」。

新宿区指定史跡
 浄瑠璃坂の仇討跡   指定 昭和60年11月1日

 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(1672)2月3日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり6年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。

     平成3年1月 東京都新宿区教育委員会

 興味深いお話です。
 
浄瑠璃坂の仇討

 寛文8年3月2日(1668年4月13日)、下野興禅寺(宇都宮市)で宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の法要において、奥平内蔵允)と奥平隼人の2人がささいなことから口論となり、憤慨する内蔵允が隼人に抜刀した。
 居合わせた大身衆の同輩・兵藤玄蕃などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜、内蔵允は切腹する。
 藩の処分は事件から半年を経た9月2日(10月7日)に下された。隼人へは改易、内蔵允の嫡子・源八(当時12歳)、ならびに内蔵允の従弟・伝蔵正長へは家禄没収の上、追放が申し渡された。両成敗ならば隼人は切腹となるはずである。隼人の親子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せた。
 そのためこの処分は不公平である、と追放された源八とその一族に同情に同情して自ら浪人の身となって源八の助太刀をかってでた主な奥平家の藩士は、40数名におよんだ。
 源八一党からの襲撃を不安視した隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ身を移した。
 寛文12年2月3日(1672年3月2日)未明、源八とその一党42名が隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入った。屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、源八は隼人と対決し、討ち取った。
 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄による幕閣への影響力が大きかった為、結果としては、死一等を減じて伊豆大島への流罪という処分に落ち着いた。
 流罪から6年後、天樹院(千姫)13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免された源八は、のちには彦根藩井伊家に召抱えられた。
 源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。
 この仇討ちは、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と並ぶ仇討ちとして、当時は大変な評判となり、江戸の瓦版をにぎわせて「武士道の範」として世間に感銘をあたえ、歌舞伎や講談の題材としても取り上げられた。のちに起こった赤穂浪士の討ち入りと合わせて江戸三大仇討ちと称されることも多い・・・

(以上、「Wikipedia」参照)

 ここに登場する「伊賀越の仇討ち」。
 
伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)

 寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれた。
激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。
 寛永9年(1632年)、忠雄が疱瘡のため死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらったが、源太夫の兄・渡辺数馬は、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいたので、脱藩する。
 剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、寛永11年(1634年)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。
 数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人。
 11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目で、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。
(以上、「Wikipedia」参照)

 この「伊賀越の仇討ち」は、「東海道」を歩き、沼津宿にさしかかり、「狩野川」沿いの道に進んで、「黒瀬橋」の下を通り抜けるたところにある「平作地蔵の祠」で関わりがありました。(以下、再掲)

  
                        「平作地蔵の祠」と解説板。

日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来

 この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。

 沼津千本浜の場面

 平作は決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作の義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。

                                      山王前自治会

 ここでは「日本三大仇討の一」となっています(この場合は、「曽我兄弟の仇討ち」と「忠臣蔵」と合わせて、そのように称するようです)。また、芝居では、「沼津(千本松)」の場がけっこう上演されるようです。

 「泉岳寺」付近や「本所松坂公園」も散策しましたので、これで「江戸三大仇討ち」に関わる史跡を訪れたことになります。

 「鼠坂」を戻り、そのまま直進し、突き当たりを右折し、その先を左折すると「鰻坂」。この辺りは、「牛込払方町」

緑濃きおうち。「払方」という地名。

 払方町は、隣接する市谷砂土原町、市谷船河原町と並び江戸期に大名屋敷を持ち、明治時代より都心部有数の高級住宅街であり、元祖山の手の一つである。(「Wikipedia」より) 

 江戸時代には、この区域のほとんどは、武家地によって占められており、町名にも武家地であったことに由来するものがみうけられます。
 納戸町、払方町、細工町、これらは、居住していた武士(同心)の役職名に由来して命名されたものです。
 納戸役は、将軍のてもとにある金銀・衣服・調度の出納や大名旗下の献上品・将軍の下賜品を取り扱っていたもので、その内の下賜品を取り扱ったのが、払方です。御細工は江戸城内建物・道具の修理・製作にあたっていました。
 また、二十騎町は、先手与力の屋敷地であったことに由来しています。1組10人で構成される先手与力が、2組20人居住していたことから、二十騎町と俗称され、現在の二十騎町となりました。

HPより)

    
 
鰻坂(うなぎざか)
坂が曲がりくねっているから鰻のような坂だという意味で鰻坂とよばれた。「御府内備考」の払方西文政丁亥書上に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々」と記されている。 

広い通りを横切った先がその名の通りの「鰻坂」という雰囲気。

    
 坂下から。                             坂上から。
        
       「鰻の寝床」のように長く細く曲がっている。

歌坂。逢坂。「さねかずら」。「掘兼の井」。・・・(「市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その3。)

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上がって右に折れ、突き当たりを右折すると、「歌坂」。    

歌坂(うたさか)
  雅楽(うた)坂ともいう。一説には「善告鳥(うとう)(海鳥の一種)」の口ばしに似た地形であることからともいう。「うとう」が「うた」になり、歌坂に転じたものであろう。

 この付近、坂下の外濠沿いを船河原といった・・・。その岸に望む坂であった。王子のウトウ坂(大坂)が、坂下を岸町と呼ぶのと同じ地形的状況からこの歌坂も古くはアイヌ語のウタ(ウトウと同義で、突端とか出崎という意味)から着ているという説が信憑性をもってくる。・・・古い坂名と思われる。(石川悌二「江戸東京坂道事典」より) 

西南に下る坂道。法政大学の校舎が左手に。

 「歌坂」を上って、道なりに左折、突き当たりを右に進みます。左手に瀟洒な和風の建物。
 
    
                     「朝霞荘」。建築家・故黒川紀章さんの作品。

 閑静な住宅街の一画にあり、周囲の環境に調和するように設計され、「損保ジャパン」の厚生施設となっています。

右手に下る坂が、「逢坂」。    

逢坂(おうさか)
 昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のち都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂とよばれるようになった。

 これも石川悌二さんの前掲書によって詳述します。

 『紫の一本』はこの坂にまつわる次のような古い伝説をのせている。むかし、奈良朝のころに小野美佐吾という人が武蔵守となって都からこの地に赴任し、「さねかづら」という美女に逢って相愛の仲となったが、やがて都から帰還の命令がきたために心を残して戻っていった。けれども男の「さねかづら」への思慕はつのるばかりで、やがて病没した。
 そして男の魂は女の夢枕に立って、彼女をこの坂上によび寄せて再開したのだという。植物のサネカズラは、モクレン科の常緑蔓性灌木で、一名ビナンカズラともよばれるので、「美男坂」という坂名はこのサネカズラから転じたものであろう。


 ここでは、奈良時代となっていますので、万葉集の時代。こうした逸話はもちろん、小野美佐吾の歌はありませんが。


 玉くしげみむろの山のさな葛
       さ寝ずはつひにありかつましじ
                        藤原 卿
                    《万葉集巻二―94》

 万葉集にはサネカズラを詠んだ歌が10首ある。この鎌足の歌もその1つである。「玉くしげ」はみむろの山(今の三輪山)の枕詞。「さな葛」はサネカズラのことで、「さ寝ずは」のさ寝をおこす序となっている。「ありかつましじ」のありは今の状態でいること、ましじは「ないであろう」の意である。
 歌は「三輪山のサネカズラのように、あなたと一緒に寝ないでは今のように生き続けることはできないであろう」という意味である。鏡王女が鎌足に贈った歌にたいする鎌足の返歌である。
 サネカズラは図鑑などでは関東以南に多い常緑蔓性の木本植物とされているが、実際には福島県浜通りの海岸沿いを点々と北上し、仙台市まで分布する。枝はいくつにも分かれてもつれあう。その様を男女がむつみあっているようにみて「サネカズラのように」と詠んだのである。ストレートでしかも露骨な表現で好きになれないが、万葉研究者たちは「開放的で率直な表現である」などとほめている。また、サネカズラの枝は2つに分かれた後、先の方でまた2本が絡み合うことから、「後でまた逢う」の意にも用いられている。次の人麻呂の歌はその例である。

 さね葛のちも逢はむと夢のみに
         うけひわたりて年は経につつ
                          柿本人麻呂
                   《万葉集巻十一―2479》

 「あなたに後でまた出合おうと夢みつつ、年だけがたっていく」という意である。鎌足の歌に比べずっと品の良い歌と思う。
 本種の分布からいえば福島県は北限に近いが、松川浦の砂洲のクロマツ林床には多産する。夏に葉腋に一個の淡黄白色花をつけ、秋に赤熱する。
 別名ビナンカズラは枝皮の粘液を水に溶かし頭髪を整えたことからきている。美男になったかどうかは定かでない。

(「ふくしまの植物たち 福島県文化振興財団」「www.culture.fks.ed.jp/b_fk/shokubutsu/syokubutu.../setumei_p011.htm」HPより)

 よく知られている「さねかずら」は、百人一首の歌でしょう。

名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られで来るよしもがな  三条右大臣

歌意

 逢坂山のさねかづらではないが、そのさねかづらをたぐり寄せるように、人に知られずにこっそりとあなたと逢う方法があればいいのだが・・・。

 「逢(坂山)」と「逢う」、「さねかづら」と「小寝(さね)」、「来る」と「繰る」(たぐり寄せる)という掛詞や縁語が巧みに用いられています。
                 (「Wikipedia」より)

 そのまま下って行くと「外堀通り」に出ます。その途中にあるのが、「築土神社」。「掘兼(ほりかね)の井」の説明板。

        

史跡 掘兼の井(ほりかねのい) 新宿区市谷船河原町9番地
 掘兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないように言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精魂つきて死んでしまったという。
 
 平成3年11月 新宿区教育委員会

 なかなかすさまじい「いじめ」の話を載せてあります。「掘兼の井」は、全国にあるようですが、一般的には「まいまいず井戸」と称されているらしい。

 「まいまいず井戸」とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種で、地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう。

 「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれる。「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難井之井)がこれを指すものと見られる。

 いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)

 はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)

 武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)

 汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを(西行)

 井はほりかねの井。玉ノ井。走井は逢坂なるがをかしきなり。(『枕草子』 清少納言)

など、和歌や文学作品に多数登場する。埼玉県狭山市堀兼に「堀兼之井」の旧跡が現存するが、「ほりかねの井」という言葉が、特定の井戸を指すものかどうかについては不詳である。「まいまいず井戸」全般を指す一般名詞とも考えられ、「まいまいず井戸」は武蔵野を象徴するものとして平安時代の都人にまで知られていたようである。江戸時代には「まいまいず井戸」に関する考証が盛んに行われたが、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「『ほりかねの井』と称する井戸跡は各地にあり、特定の井戸のことと定めるのは難しい」との記述がある。
 こうした独特の構造の井戸が掘られた背景には、武蔵野台地特有の地質学的背景がある。武蔵野台地は多摩川によって形成された扇状地であり、武蔵野台地には脆い砂礫層の上に更に火山灰の層があるため、特に国分寺崖線から上は地表面から地下水脈までの距離が長い。従って武蔵野台地では他の地域よりも深い井戸を掘らなければ地下水脈に達しないにも拘らず、地層が脆いために地下水脈まで垂直な井戸を掘ることが出来ない時代が長かったのである。そこで、一旦地表面からすり鉢状に地面を掘り下げて砂礫層の下の粘土層を露出させ、そこから改めて垂直の井戸を掘って地下水脈に至るという手段が採用された。一般の井戸に比べてこのような「掘り難い」方法によって掘られた井戸が「まいまいず井戸」である。

 (以上、「Wikipedia」参照)

 かつて行ったことがある「まいまいず井戸」=「掘兼の井」。JR羽村駅北口にありました。
二回りして井戸に着く、そのくるくる回る道をかたつむりになぞらえたという説明文がありました。

 かなり困難な井戸掘り作業であったことが分かります。 

 町名に注目! 「船河原町(町会)」とあります。

 地形的に(外堀があるので)こういう町名になったと思いましたが、実は、

 船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現JR飯田橋駅)付近へ移転。さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転後、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した(平凡社 『郷土歴史大事典』参照)。ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる。

(この項「」HPより)

 いずれにしてもこの辺りの地名や史跡、坂名には一筋縄ではいかない、いわく・因縁があるようです。

坂の途中から見上げる。

坂下にある標識。

庾嶺坂。新坂。地蔵坂。神楽坂。三年坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その4。)

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 「外堀通り」を進み、「家の光会館」の脇からすぐ左に上る坂。

     庾嶺坂(ゆれいざか)

 江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠が中国江西省の梅の名所大庾嶺に因み命名したと伝えられる。別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。

 他の異名としては、「幽霊坂」、「唯念坂」など、全部で6つの呼び名があるようです。標識には「庾嶺坂」を採用しています。この名の方が趣があると・・・。

 今は、かつて「梅林」があった雰囲気は感じられませんが、坂の左側は緑が続きます。右手の「若宮八幡神社」の先を左折して道なりに行きます。この坂が「新坂」。

    
                            新坂(しんざか)

「御府内沿革図書」によると、享保16年(1731)4月に諏訪安芸守(戸田左門)の屋敷地の中に新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

緩やかに上り、住宅地を道は西に進んで行きます。

 突き当たりを右折し、さらに少し広い道になる手前を右折して進むと、「地蔵坂」。

  
                     地蔵坂(じぞうざか)

 この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。

急な坂を下りきると、そのまま「神楽坂」方向へ。

    

神楽坂(かぐらざか)
 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

繁華街。これまでの道筋とは段違い。

 続いて、「善国寺」の先を左折して「三年坂」に向かいました。両側はお店がずらりと並んだ道筋。入口には、
     「本多横丁」の標識。

本多横丁(ほんだよこちょう)

 神楽坂には横丁が沢山ありますが、この本多横丁は神楽坂の横丁では最も大きい横丁。むかし本多家の屋敷があったことから本多横丁と呼ばれるようになったとのことです。
 本多家とは、江戸時代の大名格の武家で石高1万500石。この本多家の屋敷が江戸中期から明治の初期までこの辺りにあったとことで、当時は「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたらしいです。
 本多修理とは、江戸時代後期(幕末)の福井藩の家老で「本多 修理(ほんだ しゅり)」。
 本多修理は「Wikipedia」によると、嘉永2年(1849年)に家督を継いで藩主・松平慶永に仕え、慶永の藩政改革のブレーンのひとりとして活動し、主に軍制改革で功績を挙げました。
 安政の大獄で慶永が隠居した後は養子の松平直廉に仕え、第1次長州征伐では幕府軍の副総督となった直廉の軍事総奉行として小倉まで従軍し、明治時代に入ると再び慶永(春嶽)に仕え、側近として活動しました。
 尚、この本多横丁は、終戦後の一時期、スズラン通りと呼ばれた事もあったそうです。

(以上、「東京 神楽坂 ガイドkagurazakaguide.web.fc2.com/1020.html」HP参照。)

 そのHPに以下のような記事も。

 「三年坂」は、本多横丁を含んでいます。 「神楽坂通り」から「軽子坂」の延長線の道と交差するまでが本多横丁で、これをさらに進み大久保通りまでのなだらかな坂道が「三年坂」です。

 なるほど、これで納得です。さらに、

三年坂

 大久保通り、筑土八幡町交差点近くから、南に登り、神楽坂通りに至る比較的長い坂道です。傾斜は緩やかです。坂下は津久戸町、坂上は神楽坂三丁目と四丁目の境界で、道の両側は飲食店が並んでいます。
 三年坂については、横関英一『江戸の坂東京の坂』において、一般に寺や墓地の近くにあり、「その坂で転んだものはすぐにその土を三度なめないと三年以内に死ぬ」という迷信があったとされていたことに名称が由来するとのこと。
 標識は、設置されていません。「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」とはさすがに公衆の目に触れる説明を書いたものは設置できなかったのであろうと想像されます。

HPより。

 さらにナットク! しかし、この「三年坂(三念坂)」こそ、京都水の「三年坂」にも劣らない道筋です。

         
 「本多横丁」案内図。              「神楽坂案内図」。

 人通りも激しく、一杯機嫌の集団もちらほら。小学校か中学校のクラス会が終わった人達が店を出てきたところ。年格好は60代後半くらいの男女のグループ。道の真ん中で、恩師らしい人を囲んで大声で騒いでいる内に、一人の男性が見事に転んだ! 慌てて駆け寄る仲間。すぐ元気に立ち上がったが。・・・

 「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」 
 
 エッ!

    
                   「三年坂」から「本多横丁」を望む。    

        坂下から。

 「三年坂」の途中を右折すると、「軽子坂」。

    

軽子坂

 この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。

 「飯田橋」駅方向へ下る広い坂。いったんこの坂を下って、再び「神楽坂」方向に戻りました。

 土曜の午後というせいか、けっこうな人通り。

    

神楽坂には横丁(小路)が縦横に。「神楽小路」。まだまだ探索のし甲斐がありそうです。

    




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 上方、斜めの道が「神楽坂」。「合(逢)坂」、「祐源坂(庾嶺坂)」、「軽子坂」などが確認できる。 

鳥居坂。於多福坂。暗闇坂。・・・(麻布十番駅周辺。その1。)

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 6月24日(水)午後。ちょっと出かけた帰りに、大江戸線「麻布十番」駅で途中下車して、さっそく坂道探索と。「永坂」から少し西へ入って、それから南に下って、と時間もないが、ぐるりと回ってみようという魂胆。
 が、「元麻布3丁目」にある「中国大使館」付近はものものしい警戒。またしても四方八方「見附」。その周囲には坂もありますが、交通規制が始まるやら、道路には機動隊が昔懐かしい(?)ジュラルミンの盾を脇に置いての警戒・誘導。手持ちの地図を見ながらうろうろしましたが、結局、その付近には行けませんでした。
 だから、きわめて中途半端な「坂」探索。

 「麻布十番」駅の長い階段を上がって地上に。「外苑東通り」(「青山一丁目」付近で分岐)を西に向かうと、「鳥居坂下」の交差点(「外苑東通り」は二本あるのか? )。この坂を上ることから開始。
坂下の標識。

鳥居坂
 江戸時代なかばまで坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ごろ開かれた道である。

坂の途中から坂下を望む。

    

港区指定文化財 名勝 旧岩崎庭園
 
 現在の国際文化会館の庭園の前身は、昭和4年(1929)に三菱の四代目当主岩崎小彌太(1879‐1945)が建設した岩崎家鳥居坂本邸の庭園で、京都の造園家「植治〈うえじ〉」の小川治兵衛の作庭によるものでした。「植治」の歴代当主小川治兵衛は数多くの庭園を作庭しており、近代日本庭園作庭の先駆者として著名です。
本庭園は、崖に面した南側と鳥居坂に面した東側に植栽が施され、その内側に池を設けた池泉回遊式の日本庭園であり、入り口部の岩組なども優れています。また、昭和5年(1930)の「東京市麻布区鳥居坂町 岩崎邸実測平面図」と比較しても、作庭当初の姿を大筋において残していることがわかります。
岩崎邸は昭和20年5月の空襲で焼失し、その後、昭和30年には国際文化会館が建設されました。この建物は前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計による戦後日本の優れた建築の一つですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が認められますす。
 本庭園は、近代日本庭園として優れたものであるとともに、国際文化会館と調和した景観を創り出している点からも高く評価されます。

 平成17年10月25日 港区教育委員会

        

(写真は、HPより)



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 江戸時代のこの地には多度津藩京極家(1万石)の屋敷がありましたが、明治時代に入り、井上馨の屋敷となりました。上の『五千分ノ一東京図』に見える「井上(馨)邸」がのちの旧岩崎邸で、現「国際文化会館」の敷地。
 坂の途中の左の屋敷跡には、赤レンガの塀が現存しています。 その向かい側が現「東洋英和女学院」の敷地。南北に延びる坂道は、左が「鳥居坂」、右が「永坂」。その間にある「潮見坂」「於多福坂」なども確認できます。

遠方に「六本木ヒルズ」。

なお、「鳥居坂」については、
《鳥居坂ものがたり - 港区「www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/.../01_roppongi02.pdf」》に過去の歴史や写真と現在のようすが詳細に記されています。

坂を下り、途中から東(左)に入ります。

 この先のカギ型に下りる坂が「潮見坂」のようですが、沿道の工事中でトラックで道路が占拠されているので、その間を下って行きます(写真は撮れず)。その先が「於多福坂」。

    

於多福坂
 坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになってまた下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。

    
 坂下から。                             坂上から。

坂上にある標識。正面左手が「フィリピン大使館」。

 突き当たりを左に折れて、再び「鳥居坂」へ。下校中の制服姿の女子小学生達(低学年)の間を縫いながら、そのまま南に下って「外苑東通り」を越えます。「外苑東通り」の北側が「麻布台」、通りの南側は「元麻布」付近の坂道となります。

大通りを越すと、正面の上り坂が「暗闇坂」。

    

暗闇坂
 樹木が暗いほどおい茂った坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。

 今でも右側は高い崖で、木が覆い被さるように茂っているところがあります。南へ曲がりながら上る急な坂道で、上る車の通りもけっこうある道です。途中、左手に「オーストリア大使館」があります。坂上で、「大黒坂」、「一本松坂」と交わります。

    
 坂の途中から坂下を望む。                      坂上の標識。      


「虎の威を借る狐」。「憂国」家気取りの危険性。

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「経団連に働きかけ、マスコミ懲らしめを」 自民勉強会

 ここまで品格を下劣にさせたのは誰か? アベ親衛隊を自任する連中の集まり。たまたま敵失(民主党)のおかげとアベ効果で、議員の地位にいられる(程度の)人間が、自ら天下を取った気分で、高揚感で語る。それをもてはやす連中。
 アベはこういう動きに内心ではほくそえんでいるはず。ただ、行きすぎては困るぞ(ズバリ本音を言ってはこまるぞ)、というポーズはとる。
 おそらく、マスコミをますます萎縮させる効果は出てきそう。それが恐ろしい!

 作家の百田尚樹氏は25日、市街地に囲まれ世界一危険とされる米軍普天間飛行場の成り立ちを「もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった。基地の周りに行けば商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」と述べ、基地の近隣住民がカネ目当てで移り住んできたとの認識を示した。安倍晋三首相に近い自民党の若手国会議員ら約40人が、党本部で開いた憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」で発言した。
 実際には現在の普天間飛行場内に戦前、役場や小学校のほか、五つの集落が存在していた。沖縄戦で住民は土地を強制的に接収され、人口増加に伴い、基地の周辺に住まざるを得なくなった経緯がある。
 勉強会は冒頭以外、非公開。関係者によると、百田氏は「基地の地主さんは年収何千万円なんですよ、みんな」と発言。「ですからその基地の地主さんが、六本木ヒルズとかに住んでいる。大金持ちなんですよ」などと持論を展開したという。
 普天間飛行場の周辺住民約2千人が、米軍機の騒音で精神的苦痛を受けたと訴え、那覇地裁沖縄支部が約7億5400万円の支払いを命じた判決に触れ、「うるさいのは分かるが、そこを選んで住んだのは誰だと言いたい」と、自己責任だとの見解を示したという。
 「基地の地主は大金持ち。基地が出て行くとお金がなくなるから困る。沖縄は本当に被害者なのか」とも述べたという。
 議員から沖縄の地元紙が政府に批判的だとの意見が出たのに対し、百田氏は「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と主張した。
 出席議員からは、安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働きかけてほしい」との声が上がったほか、「沖縄は戦後、予算漬けだ。地元紙の牙城でゆがんだ世論をどう正すか」などの批判もあった。

より

 この「勉強会」なるもの、「産経新聞」によると

 勉強会は自民党の木原稔青年局長が代表で、首相側近の加藤勝信官房副長官や、萩生田光一・党総裁特別補佐も参加した。
自民党の若手国会議員有志は25日、芸術家を講師に招いて意見交換する勉強会を発足させた。出席者には、安倍晋三首相(自民党総裁)に近い議員も多く、9月の総裁選を前に首相の無投票再選の機運を高める狙いがある。
 新勉強会は「文化芸術懇話会」。設立趣意書によると、芸術家との意見交換を通じ「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」を目的としている。 この日、党本部で開いた初会合には加藤勝信官房副長官や薗浦健太郎外務政務官、萩生田光一総裁特別補佐ら首相を支持する議員を中心に37人が出席、作家の百田尚樹氏の講演に耳を傾けた。
 代表に就任した木原稔党青年局長は会合後、記者団に「党所属国会議員として、党や政府が進めようとしていることを後押しするのは当然だ」と強調。総裁選に向け、首相の「応援団」として活動するとみられる。今後は月1回のペースで会合を開催する予定。

 講師は、アベの親友・「芸術家」・「百田」だから大笑い! イヤ、恐い!

 そして、さりげなく以下の記事を載せた。

 一方、党内のリベラル系議員による勉強会「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」も同日、漫画家の小林よしのり氏を講師に招いて会合を開く予定だったが、「運営上の都合」(同会)により急(きゅう)遽(きょ)中止した。

 小林よしのりすら拒否し、反アベ的動きを徹底して封じ込めようとする自民党執行部の意向がありあり。何しろ自らが推薦した憲法学者が「違憲」と主張したとたん、「人選の誤りだった」と平然と言ってのけるほどだから。
 
 さらに、次のような記事が。(「朝日新聞」より)

 選挙権年齢を18歳以上に引き下げることに合わせて政治参加の意識を高める主権者教育で、高校の教員が「政治的中立」から逸脱した場合、罰則を科す案が25日、自民党で浮上した。「偏向教育を防ぐ」ことを目的とし、関連法の改正を求めるが、党内には慎重論もある。
 党文部科学部会内に設けられた勉強会(座長=池田佳隆衆院議員)がまとめた。来週にも、部会で正式に議論する。
 現行の教育公務員特例法は教員の政治的行為を制限しているが、違反しても罰則はない。勉強会では「特定のイデオロギーを子どもたちに押しつけてはならない」との意見があがり、民主党の支持組織・日本教職員組合(日教組)を名指しして批判。罰則を求めることにした。ただ、違反行為を誰が判断するかなどの詳細は詰めていない。
 主権者教育案はほかに、教職員組合に収支報告の提出を義務づけることも提案。地方公務員法を改正し、違法な活動があった場合は人事委員会の登録から除外することにも言及。登録団体から外れると、給与や勤務時間について、自治体に交渉の申し入れをすることができなくなる。
 勉強会内には「組合費が民主党などの選挙活動に使われている。透明性を高めるべきだ」との声がある一方、「特定の団体を攻撃するのは、政権与党として控えた方がいい」と慎重な対応を求める意見もある。(相原亮)

 「日教組はどうなんだ! 」とヤジを飛ばしたアベと軌を一にしている。

 政治家(屋)をここまでおごり高ぶらせたのはいったい誰か? 何だかイヤな感じがますますしてきた昨今の政治情勢。

  

大黒坂。七面坂。一本松坂。さくら坂。・・・(麻布十番駅周辺。その2。)

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 「暗闇坂」の上で「大黒坂」と「一本松坂」と出会います。右に下りる坂が「大黒坂」。その坂を下りる途中、「七面坂」。



     1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 中央付近の十字路が「暗闇坂」(北から上ってくる坂)、「大黒坂」(東から上ってくる坂)、「一本松坂」(南に上っていく坂)、「狸坂」(西へ下りる坂)とが交わる地点。今もほぼ当寺のままの道筋です。
 「暗闇坂」から左に折れ、「大黒坂」を下ります。

    
     坂下から上を望む。正面奥が十字路。

大黒坂(だいこくざか)
大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。

 「大黒坂」を少し下って行くと、左手の下り坂が「七面坂」。

    

七面坂(しちめんざか)
坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。

 坂を上って元のところへ。今度は、南に向かいます。角に標識と「一本松」があります。

    

一本松坂(いっぽんまつざか)
源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来植えつがれている一本松が坂の南側にあるための名である。

    

一本松の由来
 江戸砂子によれば天慶2年西暦939ごろ六孫源経基 平将門を征伐して皈(「帰」の異体字途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松と云い又一本松とも云う
 注 古樹は明治9年辰年焼失に付き植継ぎ 昭和20年4月又焼失に付き植継ぐ。

    
                                          一本松。
その坂を上ると左手にあるマンション。「元麻布フォレストタワー」。 

この付近の案内図。

 再び十字路に戻って、今度は西に向かいます。「狸坂」。

    

狸坂(たぬきざか)
 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。

坂沿いのお屋敷。

    
                          坂下から上を望む。

 この付近には、「宮村坂」、「狐坂」があるようですが、道に迷ってうろうろしていると、「中国大使館」の警備にあたる機動隊員があちこちに。「麻布高校」と「中国大使館」との路地を行ったり来たりしましたが、・・・。そのまま「狸坂」に戻って坂道を下ってしまいました。その坂が「狐坂」?
 そして、右に折れて「北条坂」の方向へ進みました。
 
「愛育病院前交差点」を右に折れると、「北条坂」。

北条坂(ほうじょうざか)
 坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったためにこの名がついた。

    

 坂下は「外苑西通り」になります。下の方の坂には「鉄砲坂」という標示がありました。

         

鉄砲坂(てっぽうざか)
 江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた
 
 「中国大使館」前の通りの西側には「中坂」、「芥坂」、また「大横丁坂」とかあるらしいので、再び戻って「中国大使館」前をうろちょろしましたが、機動隊が交通規制を始め、警察車両も出てくるようなものものしさに諦めました。

 「麻布税務署」の先の信号を左折、「富士見坂」(「大横丁坂」? )。

    

「内田坂」から「妙経寺」の脇の階段を下りて「さくら坂」に出ました。

さくら坂(旧玄蹟坂)。

    

「六本木ヒルズ」建設に伴い新たに作られた道です。もとの玄碩坂です。その名の通り、桜並木の美しい道です。


 <番外>

 玄碩坂(げんせきざか)
  近くに玄碩という僧が住んでいたので、坂名にしたと言い伝えている。藪下という所へおりる坂で藪下坂とも呼んだ。
  六本木ヒルズの建設に伴い、この坂道の風景は写真にあるかつてのものから現在大きく様変わりし、現在玄碩坂は「さくら坂」と 呼ばれる坂になっています。写真に見える標識も撤去されています(2003年5月)。

(この項、HPより拝借しました。)

坂の途中の公園。子ども達の元気な声が。

    

駐車場の案内を兼ねて案内図があとこちに。

    

 ただ、「さくら坂」か「けやき坂」かがはっきりしないような表記になっています。特に左の案内図。

これには「さくら坂」(→)と。

これが「けやき坂」。

 「さくら坂」同様に六本木ヒルズ完成に伴いできた坂道です。六本木ヒルズの目抜き通り。

            



    1880年代のようす(「同」より)。

 中央付近が現在の「テレビ朝日」、「六本木ヒルズ」などの地域。毛利庭園の池は規模は縮小されていますが、残っています。
 「玄碩坂」は、「さくら坂」になりました。現「けやき坂」は新しくつくった坂。
 「六本木ヒルズ」の西側の通りは寺町通りだったことが分かります。「妙経寺」、「専称寺」、「長幸寺」などが今も残っています。

 結局、駆け足での探訪。どこにも寄らず、暑い日差しの下でした。今度はゆっくりと散策したいものです。





読書「大衆の反逆」(オルテガ・寺田和夫訳)中公クラシックス

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 著者のホセ・オルテガ・イ・ガセーは、スペインの哲学者。1883~1955。
 1930年(昭和5年)に発表された「大衆の反逆」は、文明批評家としての彼の名を広く世界に印象づけました。大衆化社会という20世紀の病理をえぐり出し、その指摘が今なお、80年以上経った現在においても多くの先見性があることに驚きます。
 このかん、日本のみならずアメリカなど世界が「第二次世界大戦」を筆頭にさまざまな壊滅的状況を経験しながらも、未だその人類的教訓を生かしていない、むしろ、1945年以前に回帰しつつある状況(回帰させようとする動き、混乱)を目の当たりにする時に、あらためてこの書の持つ現代的な意義(予見性)をつかむことが必要であるかと思います。
 この文庫版は2002年に初版が発刊され、13年に8版となった書です。今回は、各所にちりばめられたオルテガの洞察的文言を拾い出しておこうと思います。
 
 われわれが解剖しようとする事実は、次の二つの問題にまとめることができる。第一、以前にはもっぱら少数派のためにとっておかれた人生の目録と、大綱において一致する目録を、今日の大衆はわがものとしている。第二、同時に大衆は、少数派に対して従順でなくなった。かれらに服従せず、そのあとについていかず、また尊敬せずに、かれらを押しのけ、かれらにとって変わった。(P18)
 
 「大衆の反逆」は、貴族(自らを選ばれた貴族だと考えている者達、大衆化社会に眉をひそめる人々)にとってはまさに溜飲を下げる書という一面がありました。日本でも三島由紀夫などは大いにこの書に触発され、日本の国家像の欺瞞性、大衆によって牛耳られている日本の現状(とりわけ自衛隊・軍隊のあり方)を直接行動によって変革しようとしたあげく、自刃します。
 今日、アベ自身も強烈なエリート意識の持ち主。祖父への尊敬とそれを批判する人間への許しがたい思い、これによって今の自らの政治生命を保っていると考えているようです。ですから、大衆組織である「組合」、特に「日教組」への反感は、並ではありません。
 大衆に迎合せず、君らと違って国家100年の計を立てている私を尊敬しろ! 服従しろ! 従順になれ! このような意識の持ち主でしかないような気がします。底の浅いエリート観に酔っている、そしてお追従する連中の存在。  
 オルテガの語る真の貴族とはまった異質なもので、浅い世界観・人生観でしかないことを自ら暴露しているようなものです。オルテガがいう「人生の目録」とはけっして「自己満足」というのではありません。「生の充実」ということであって、「本当の生の充実は満足や成就や到達にあるのではない。」(P31)
 のらりくらりと論点をぼかし、最後は数によって「決めるときには決める」。かつての「決められない政治」への強烈な皮肉ですが、そこから生まれるかれの選良意識はとてつもなく恐ろしい。

 自由主義とは、公権が万能であるにもかかわらず、公権自体を制限する政治的権力の原則であり、また、公権と同様に、つまり、最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々も生きていくことができるように、公権の支配する国家のなかに、たとえ犠牲を払ってでも、余地を残しておくことに努める政治的権利の原則である。
・・・
 敵とともに生きる! 反対者とともに統治する! こんな気持ちのやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。反対者の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横顔をはっきりと示しているものはない。ほとんどすべての国で、一つの同質の大衆が公権を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させている。大衆は―団結した多数のこの人間たちを見たとき、とてもそんなふうに見えないが―大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないもすべてのものを死ぬほど嫌っている。(P91)

 アベ自身、「貴族」でも「エリート」でもありません。「選挙」という「大衆」の洗礼によって登場した「大衆」の一人にすぎません。だからこそ、公権力を握ったとたん、自分に反対するすべての者を「死ぬほど嫌っている」のです。

 《慢心した坊ちゃん》の時代
 以上のことを要約してみよう。私がここで分析しているのは、ヨーロッパの歴史は、いまやはじめて、じっさいに凡庸な人間の決定にゆだねられているように見えるという新しい社会的事実である。
・・・
 今日、あらゆるところを歩きまわり、どこででもその精神の野蛮性を押しつけているこの人物は、まさに人類の歴史に現れた甘やかされた子供である。甘やかされた子供は、遺産を相続する以外に能のない相続人である。
・・・
 生まれたときに突然、なぜだかわからないが、自分が富と特権のなかに据えられているのを見いだす。それらは、かれに由来したものでないから、本来のかれとはなんの関係もない。それは、他の人間、他の生物、つまりかれの祖先の残した巨大な甲冑である。しかも、かれは相続者として生きなければならない、つまり、他の生に属する甲冑を鎧わなくてはならない。そこで、どういうことになるだろうか。世襲《貴族》は、かれの生を生きるのか、それとも、初代の傑物の生を生きるのか。そのどちらでもない。かれは、他人を演ずる運命、したがって他人でもなく、かれ自身でもない運命をしょわされている。かれの生は否応なく、真実性を失い、他の生を演ずる生、あるいは他の生に似せた生となる。
・・・
 世襲《貴族》は、生を使用し努力することがないために、その人格がぼやけたものになっていく。その結果生まれるのは、古い貴族の家柄に特有の、類のない愚鈍である。この悲劇的な内的機構―あらゆる世襲貴族をどうしようもない退化に導く悲劇的な内的機構―を記述した人は、厳密な意味ではひとりもいない。(P121)   

 ところで、《慢心した坊ちゃん》の特徴は、ある種のことをしてはならないことを《知り》ながら、しかも、知っているがゆえに、その行動とことばで、反対の確信をもっているようなふりをすることにある。・・・ふまじめと冗談、これが大衆的人間の生の主調音である。かれらがなにかをするときには、ちょうど《箱入り息子》がいたずらをするのと同じように、自分の行ないは取り消しがきかないのだというまじめさが欠けている。(P127)

 アベをはじめ、坊っちゃん世襲議員によって牛耳られている国会に付ける薬はないのだろうか。
 
 

まったくの内向き志向。だが、これで一件落着する魂胆見え見え。

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大西氏発言で公明に陳謝=安保法案、今月中旬採決目指す―自民

 堕落もここに極まれり。謝る相手が違うでしょ! 

 野党をなめきり、国会を軽視し、・・・。もともとマスコミなどに謝る気はまったくなし! これでよし! 一件落着。あとは採決のタイミングをはかるのみ。内容論議を避けて逃げ切ろうとしている。公明党もなめられたことを知ってか知らずか。

 ここまでおごり高ぶっているアベ政権に付ける薬はないのか!
 

読書「呪いの時代」(内田樹)新潮社

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 2011年11月発行の書。ということは、「新潮45」誌上に2008年11月から不定期に連載してきた内容にプラスして、「東日本大震災」以後のものが加わっているということ。

 加筆修正があるとはいえ、第1章「『呪い』の時代」で提起した時代状況(「現在」に対する問題意識)がそのままより深まっていくことに驚く。11年以前と以後との筆者の、現在のとらえ方に大きな変化はない、つまり、「東日本大震災」とりわけ福島原発の未曾有の事故が起こったことで、よりいっそう2年半前から思索してきたこととのつながりを持つ、と。
 改めて2011・3・11以前と以後のスタンスに変化がないことに驚嘆する。それは、一貫して主張してきたことに間違いはなかったという筆者の確信でもある。特に、筆者自身が「阪神淡路大震災」を直接に経験したことが、より強い説得力を持っている。

 ますます「呪い」「呪われ」の様相を見せている社会情勢。特にメディア、左翼的な批判的態度への批判は鋭い。

 そうした中で、「呪い」から「贈与」という価値観をもとにした人間関係、社会的な関係を結ぶことによって社会の未来を見いだす、安定させていくことができる、このことを提唱しているが、今はそんな「悠長な」価値などなどは「くそ食らえ」の世の中。にもかかわらず、あえて「徒手空拳」的価値観をかかげる武闘家としての筆者の立場は一貫している。

 呪詛も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている。けれども、多くの人々はそれは神話や物語の中のことであって、私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうではない。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。(P285 「あとがき」より)

 さて、世間はそう甘くはない。この書が世に出てからの4年間。自滅した民主党からアベ政権に移った後の政治、経済、文化状況はどうであろうか。 
 責任をとらない・認めない、反面、自らの主義・主張を数の多さで国民に強要し、(領袖様の恩恵を有り難く頂戴せよと)、メディアへ露骨に介入してもの言わぬ国民にさせ(物をいわせぬように仕向け)、一方でもの申す人々に対してレッテル貼りをし(呪詛し)、・・・。

 それでもなお、「贈与」の価値観を訴える筆者だとしたら、騎士道物語を読んで妄想に陥ったの主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語の主人公のようではある。
 が、この物語をもとにした「ラマンチャの男」の主題歌が「インポシブル・ドリーム」(邦題が「叶わぬ夢」でなくして「見果てぬ夢」)であることにまさに筆者は価値ある「夢」を託しているのだろう、と。

 それにしても、アベをはじめ、自民党の大西発言といい、百田発言といい、言いたい放題の果てに何が生まれるだろうか? さらに、新幹線での事件といい、箱根山の噴火といい、人間界も自然界も「呪い」に左右される現実がますます濃厚になっているご時世ではある。「丑の刻参り」を精神的・言動的に「人に知られるように」、それぞれの立場で皆が行っているかのようだ。そこで、神がますます怒りをなす。

 この時にこそ、筆者が提唱する、荒ぶる神々に対して、「鎮め」・「鎮魂」という具体的な行いが重要なのかも知れない。

 しかし、「福島原発事故」と同様に、生身の人間(同時代に生を営む人々)のささやかな願い・思いをせせら笑うように、思いがけない事態を作り出す。

 車両内に放火すると死者やけが人が出ることは想像がつく。新潟青陵大の碓井真史教授(社会心理学)は「無関係の他人を巻き込んで自死する『拡大自殺』を試みた可能性は否めない」と指摘。常磐大大学院の藤本哲也教授(犯罪学)は男が焼身自殺を選んだことについて「焼身自殺の背景には、特定の個人や社会に対する抗議の表明であることが多い」と話す。(「産経新聞」より)

読書「未闘病記」(笙野頼子)講談社

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 「二〇代デビュー後持ち込み十年、論争積年の三冠ホルダー、大学院教授にして不屈の純文学さっか、そんな「私」をある日不意に襲う……(プ、女の一代記かよ、て、め、え)、難病、……。」(P5)

 「そう、難病である。難病になったのだ、難病、と判明した。純文学難解派、と分類される難解文学の書き手のこの私がね、それは。」(P6)

 記号論的にいえば(といっても「記号論」なるものへの一知半解の立場だが)、長年、心身を悩ませてきた自らの体調、否、むしろそれをバネとして文学を紡いできた作者が、その病名がはっきりと判明した(名づけられ、記号化した)ことにより対象化しえたことで、新たな文学的地平を切り開いた(プッ、実に通俗的な表現、)作品。   

 膠原病のひとつ、混合性結合組織病の患者となった「私」。言ってみれば、「私」の立場からものを書き、発言した矛先は「私」をつぶそうとする「組織」(文壇、既成の)との果てしなき闘いを挑んできた「私」がよりによって自身が「結合組織病」となった!  これまでの自らの身体性と内面性をどう「私」はとらえ直し、総括するか。読者の興味はそこにあり、作者の興味もそこにあるはず。
 老いて病がちな猫の世話と、看取り、さらに学生相手の仕事、・・・

 「病気と知ったのは最近でも、特徴的な症状は軽く、大昔からあった。」(P22)

 こうして、これまでの「私」の作品の背景(執筆時の心身風景)を解き明かすというサービス(笙野頼子になりかわって)が、とてもけなげな「おばさん」ぶりです。

 「結局、どんなに私小説から遠い作品を書いても、どんなに身の回りの「自分の事だけ」書いても、「他者がない」と言われても私にはこの病がちの肉体があった。どう出るか判らない他者としての持病。そんな中で想像の世界にも現実にも似た、私的虚構を書いた。
 そして、この他、私の書くべきものがあるだろうか?
・・・
 ひとりの人間がただ生きている。その内面はひとつの独立した宇宙である。不当な洗脳なしにこの自立性を変えることは難しい。つまり、その自立性に依って思考していれば、言葉を使っていれば、そしてその言葉に意味や芸術があれば、その人は孤独ではない。
・・・
身体性は私の社会性だから。」(P257)

 誰にでも当てはまる(同質の)「社会性」なるものは存在しない、と。さすが向かうところ敵ばかり(敵に仕立ててきた)「私」の面目躍如の心象風景。自らの中に巣くう「病」を自らのものであってしかも他者として突っ放す姿勢は敵にしたら恐い存在である(「混合性結合組織病」にとって)。そういって「私」は闘いを挑みつつある。病気との、否、そんなものとではない!

 病気そのものでは「死なない」病ではあるが、ステロイド剤の副作用(これは医師のコントロール下にあるかぎり、心配はなさそうそうだが)、あるいは他の合併症で命を奪われる危険性を併せ持つ病。それに留まるような狭い話ではないだろう。広く社会を覆う歪んだ「個」と「全体」との関係を突く、その本格的な闘いは始まっていない。

 作者は主人公の「私」を通して、個から、部分から全体を俯瞰する視野という究極の視点を獲得しようとしている。
 だが、路半ば、「闘い」は始まったばかり。だから、「未」闘病記なのであろうか。

 随所におさめられた猫の写真(時には筆者の指が入った)が「私」にとって、読者にとって励ましになっている。そうやすやすとはは老いさらばえぬ、という決意を込めて。

 アベが「日本の原風景を世界に」と伊勢でサミットを開催する、と。この決定に右はもちろん、左も賛成、賛成の声々・・・。
 さて、地元での開催に「神道左派」としての「私」(筆者自身)はどう対(決)するか? 猫神様は、どのようなご託宣を下すか? 

出合之像。予科練の碑。尾崎一里塚。・・・(名鉄「矢作橋」駅から名城線「伝馬町」駅まで。その1。)

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 いよいよ今回は、「七里の渡し」跡まで。日程的にはちょっとゆとりのある行程のはず。かといって、一日では無理。そこで、今回も一泊。時々合流する「国道1号線」の標示ですと、《(日本橋から)330㎞ポスト付近から358㎞ポスト付近まで》。

 6月16日(火)、17日(水)の2日間。

 東海地方も梅雨入りしたので、事前にホテルを予約しても、当日、強い雨ならばちょっと面倒、と思いながら、予約。「刈谷」駅直結の「名鉄イン刈谷」。朝食付きで5,900円。
 「矢作橋」から行けるところまで進んで、泊まる先には戻る感じ(前回の岡崎とは異なって)。ただし、「東海道」の道筋からは少し離れる。天気の予想は、16日は曇り時々雨、17日は曇り。果たしてどうなることやら?

 16日早朝、自宅を出て「東京」駅6:33発の「こだま631号」で「豊橋」。そこで、名鉄線に乗り換えて「矢作橋」駅に9:28着。何となく天気は持ちそうな雰囲気ですが。
 駅を出て、「国道1号線」を「矢作橋」まで10分ほど戻り、ここからスタート。午前9時40分。

    
                            「出合之像」。

出合之像  太閤伝説・日吉丸と小六

 日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(今の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、八才のころから奉公にだされましたが、十二才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸が
あると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。
 日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。
 史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を物語として、今なお私たちの心に生き続け、乱世の時代劇を垣間みる挿話となっています。
 この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。

 実際には、矢作橋が架けられた1601年には豊臣秀吉は既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされていますが、この逸話を伝えるために矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられました。像の裏側には「平成元年十二月」とあります。
 「矢作橋」の掛け替え工事のため、一時、出合之像は撤去されたいましたが、工事終了後の2014年1月に元の場所に戻されました。

そこからの「矢作橋」。

         葛飾北斎「矢作橋」(「Wikipedia」より)

旧矢作橋の遺構。

 橋の付け替え工事・整備によりこの付近も変わってきたようです。土手を下り、左手の道に入ります。右手には「勝運寺」。
「旧東海道」。かつての家並みがところどころに残っています。

「東海道」の標示。


 その先の右手には、

    

誓願寺十王堂

 長徳3年3月(997年)、恵心僧都が、溺死した当時の住僧の慶念の冥福祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。
 時代は下り、寿永3年(1138年)3月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。

 〈十王とは・・・、以下「十王」のいわれを記した部分は省略(注:「十王堂」の「十王」とは、冥土にいて亡者の罪を裁く10人の判官をいう。〉


 この堂内には、これらの十王の極彩色の像が安置してあり、壁には、地獄・極楽の有り様が描かれている。

 寄贈・文責 ボーイスカウト岡崎第五団

まもなく国道1号線と合流、振り返って望む。

「(日本橋から)330㎞」ポスト。

 しばらく国道沿いに進みます。「安城市」に入ってまもなく「尾東」の信号のところで、国道から離れてY字路を右に進むと、松並木になります。

分岐点正面は「マック」。

    

 松並木を過ぎると、右手の「熊野神社」には、「予科練の碑」「第一岡崎海軍航空隊由来」などの記念碑が並んでいます。

    
                             「予科練の碑」。
此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて
予科練習生揺籃の地なり

 自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり
 生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦
 爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである

 昭和48年5月15日 元第一岡崎海軍航空隊 若桜会



第一岡崎海軍航空隊の由来

 第二次世界大戦が熾烈を極め、戦局必ずしもわれに利あらず、戦略上一大転機に直面し、戦力の画期的増強が急務となった昭和19年2月、若き精鋭を鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、当初河和海軍航空隊岡崎分遣隊として発足したが、急據訓練を開始することとなり名称も昭和19年4月1日岡崎海軍航空隊となり、作戦機能も独立して同年5月より本格的訓練が開始され、その後昭和20年2月第一岡崎海軍航空隊と改称された。
 本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、昭和19年五5月入隊の一期生より毎月続々と入隊、十二月入隊の八期までその数およそ六千名と記録されている。入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、全国各地の実践航空隊へ実務練習生として巣立って行った。しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和20年8月15日ポツタム宣言を無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。
 広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され元の美田に戻り大いにその成果を挙げてきたが、その後のわが国の驚異的な経済成長に伴い本跡地も著しく変貌し、戦後四十年を経た今日、最早往時を偲ぶ痕跡すらなく幻の如く人々の脳裡から消え去らんとしている。
 こゝにわれ等相い集い保存資料に基づき、史実を後世に伝えるため、この由来を記録しておくものである。

 昭和61年5月18日

 左には、その広大な敷地のようすが図解されています。

現在のようす。

「予科練の歴史」

 1929年(昭和4年)12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。
 当初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、1939年(昭和14年)3月、予科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。翌年同基地内に新設された土浦海軍航空隊に担当が変更された。
 1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成の為、予科練入隊者は大幅に増員された。養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され、土浦航空隊の他に岩国海軍航空隊・三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えた。
 1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。
 戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になっている。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核としても、多くが命を落としている。
 昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。
 1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった。

(以上「Wikipedia」参照)

 以前茨城県の阿見町に出かけたことがあります。かつての霞ヶ浦海軍航空隊が設置されていた町です。戦後、その跡地は一部を除いて農地として開拓され、その後、整然とした町並みになっています。コンクリートの滑走路などを掘り返しての農地開拓の歴史を調べるためでした。その時に記念館に立ち寄りました。以下は「阿見町」HPより。

 「予科練」は、「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練を行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始しました。
 14歳半から17歳までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習課程を経て戦地へと赴きました。
 阿見町は、大正時代末期に東洋一の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊が設置されて以来、昭和14年には飛行予科練習部いわゆる「予科練」が神奈川県横須賀から移転し、翌年には予科練教育を専門におこなう土浦海軍航空隊が設置され、終戦まで全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を担うこことなりました。
 このように長く海軍の町としての歴史を歩んできた阿見町は、日本の近代史の中でも特別な時代を過ごし、戦争と平和を考えるうえで、忘れることのできない多くの事柄をその風土と歴史の中に刻み込んでいます。
 阿見町では、この貴重な予科練の歴史や町の戦史の記録を保存・展示する「予科練平和記念館」を開設しています。

HPより

 「予科練」生存者は、戦友への複雑かつ感傷的な感慨もより深いでしょう。記念碑、遺品などでそうした想いを感じます。
 一方で、前途ある多くの青少年を「特攻」に駆り立てていったことへの反省・評価があいまいなままに、またしても対外戦争への積極的な法制化が仕組まれている今日こそ、その総括にきちんと取り組まなければならないと思います。
 こうした「戦跡」をどのように平和教育に生かしていくかが問われてもいます。

 さらにその並びには鎌倉街道の説明板が設置されています。


鎌倉街道跡

 1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヵ所が設置された。
 尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印しの松」が残されている。

 昭和54年10月1日  安城市教育委員会

「目印の松」。

その下には一里塚跡碑。日本橋から83里目「尾一里塚」。     

「明治用水」。松並木。「かきつばた」。・・・(名鉄「矢作橋」駅から名城線「伝馬町」駅まで。その2。)

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少し進むと、「宇頭(うとう)茶屋」というバス停。

 そこから10分ほどで、右手に「永安寺の雲竜の松」。

    

県指定天然記念物 永安寺の雲竜の松

 永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。
 助太夫は1677年(延宝5)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。
 この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は300年くらいと推定されます。 この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。
  樹 高  4.5メートル
  幹の囲  3.7メートル
  枝張り  東西 17メートル 南北 24メートル

              安城市教育委員会

 そこからしばらく進むと、「県道76号線」との交差点には、「明治用水」にちなんだ大きな石碑があります。

    

「明治用水」
 愛知県豊田市にて矢作川から取水し、安城市、豊田市、岡崎市、西尾市、碧南市、高浜市、刈谷市、知立市に水を供給しています。本流、西井筋、中井筋、東井筋の幹線と支線から成り、幹線は88km、支線は342kmある。灌漑面積は約7000ヘクタール。


明治用水の歴史

荒寥たる草野

 明治用水開発以前の安城市付近は広大な大地が広がる、「安城が原」「五ヶ野が原」と呼ばれるやせ地でした。わずかに流れる小河川沿いに小規模な水田が開発されていましたが、水に恵まれない地での農業は苦しいものでした。そのため、早くからため池が開発されましたが、台地上の耕地の半分以上がこれらのため池に依存していました。水が足りず、農民同士で争いが起こることもしばしばでした。

都築弥厚らの活躍

 この草野に用水開削が計画されたのは江戸時代末期のことでした。和泉村(現在の安城市和泉町)の豪農、都築弥厚(つづきやこう)は、矢作川上流の越戸村(現在の豊田市)から水を引き、30キロメートルにも及ぶ水路による用水の開削を計画しました。高棚村(現在の安城市高棚町)の数学者、石川喜平の協力を得て測量を始めましたが、水害や入会地の減少を心配する農民たちに妨害され、作業がなかなか進みませんでした。やがて、5年もの歳月をかけ測量図が完成し、幕府から一部の開発許可が下りたものの、長年の激務がたたったのか、弥厚は病没してしました。

悲願の開削工事

 弥厚の死後、明治時代に石井新田(現在の安城市石井町)の岡本兵松によって弥厚の計画は蘇りましたが、明治維新の影響もあり、出願された用水計画は一向に日の目を見ませんでした。明治5年に愛知県が成立し、同時期に矢作川右岸低地の排水と台地のかんがい計画を出願していた伊豫田与八郎(いよだよはちろう)の計画と一本化することでようやく許可を得ることができました。そして明治13年、ついに「明治用水」が完成しました。

日本デンマーク

 明治用水完成後の農業の発展は目ざましいもので、約2000ヘクタールだった水田面積が明治40年には8000ヘクタールを超す一大穀倉地帯へと画期的な転身を遂げました。台地という立地条件のため、秋になり水門が閉じられると水田は干し上がり畑になります。これを利用して冬期には麦や野菜、菜種、れんげなどが栽培され、耕地の高度利用が図られました。安城農林学校長だった山崎延吉の助けもあり、生産物は米作、養鶏、養蚕や果樹と多方面に渡り、多角形農業と呼ばれ普及していきました。こうしてこの地は「日本デンマーク」と呼ばれる、優良農業地帯になりました。

HPより)

 現在は、暗渠化の工事が進み、自転車専用道路などになっています。

    

昭和47年(1972)のようす。

 写真左側が明治川神社と鳥居で、奥の橋が東海道(旧国道1号線)。神社と明治本流との間には、県道豊田安城線があります。

HPより)

 交差点にある「明治川神社」には都築、伊豫田、岡本ら明治用水建設の功労者が祀られています。

 交差点を越えると、松並木が断続的に続きます。道なりに西へ向かいます。
    

 今にも雨が降り出しそうな空模様ですが、蒸し暑くなく、炎天下を歩くよりはかえって楽です。

    「東海道の松並木を守ろう」という標柱。

    
            安城市の「松並木」保存への取り組みを感じます。



市指定天然記念物 東海道のマツ並木

 1601年(慶長6)家康は、東海道に宿駅を定め、つづいて1604年(慶長9)には、街道に一里塚を設置して、道の両側に並木を植えさせた。さらに、1612年(慶長17)道路・堤などの補修、道幅・並木敷地等の定めをして、街道を直接管理した。こうして、街道の松並木は、旅人に風情を添え、夏は緑の陰をつくり、冬は風雪を防ぐに役立った幕府は、その保護補植に力をそそぎ、沿道・近郷の農民たちの、往還掃除丁場という出役によって、その清掃整備が維持されてきた。明治以後も重要幹線国道として維持管理がつづけられ、四世紀にわたる日本の歴史の大きな役割の一部を、担ってきた。近年、風害や公害等のために、その数を減じているが、この松並木のうち大きいもので、樹齢200年から250年ぐらいと推定される。

  安城市教育委員会



右手に「常夜燈」。

向こうに見えるのは、「御鍬神社」の杜。

「猿渡川」を越えて、知立市へ。

 橋を渡ると、左は「来迎寺公園」。そこには案内図があります。
 「東海道見て歩きマップ」。

            
       「なりひらくん」。             「かきつ姫ちゃん」。  

 東京・墨田には「在原業平」にまつわる伝承や地名などが残されています。「言問橋(ことといばし)」「業平橋(なりひらばし)」・・・、東武鉄道の「業平橋」駅は「東京スカイツリー」駅になってしまいましたが。ここで、業平さんにお会いするとは不思議なご縁です。ここは、「かきつばた」関連でいきましょう。

東京の「おしなり」くん。(「おしなり商店街振興組合 oshinari.jp」HPより) 

 すぐ先の交差点には、「元禄の道標」が建っています。
    

元禄の道標

 道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた標示物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸処にこの様な道標が建てられていた。
 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 
 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白
と記されており、これは、元禄9年(1696)に、在り原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ五百メートルの牛田町西端にも、「東海道名所図会」に記されている元禄12年の道標が残されている。

  知立市教育委員会   

横断歩道を渡った西側にもあります。

分岐点を望む。左右に通じる通りが東海道。

 片道10分くらいの道のりです。ぜひとも「かきつばた」の地に行こうと、ここで右折して「八橋・無量寿寺」へ向かいます。時刻は、ちょうど12時。
 ほとんど人通りのない、新しい住宅が建ち並ぶ道を北へ。すでに時季外れではあります。

「八橋𦾔跡」。 


 案の定、誰もいない境内。庭園の方に回ったところ、このような有様。ガッカリ!
    


   

                     

史跡八橋かきつばたまつり
 八橋のかきつばたは、平安の歌人“在原業平”が、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と、句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように伊勢物語の昔から知られるかきつばたの名勝地です。
 庭園の面積約13,000平方メートル、16の池(5,000平方メートル)に約3万本の「かきつばた」が植えられています。
 かきつばたまつりは、歴史も古く約60年前から行われており、期間は4月27日から5月26日までで、全国から約12万人程の観光客が訪れます。
 愛知県の花、また知立市の花が「かきつばた」でもおわかりのように、知立市において、このお祭りが最も大きなイベントになっています。
 まつり期間中には、「史跡八橋かきつばたを写す会」をはじめ「茶会」「俳句会」「短歌大会」などさまざまなイベントが催されます。
 期間中は、いつでもかきつばたを観賞することができますが、特に一番花が咲きそろう5月の10日前後が1番の見頃です。

(以上、写真も含めて「」HPより)  

 一ヶ月以上遅いのですから仕方がありません。よく見ると、一本咲いています。「名残のかきつばた」。
                       

庭園の奥にモニュメント。

    
   
 八橋の蜘蛛手に流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いているのを見て、かきつばたの五文字を句の上にすえて、都に残してきた妻や子を偲び
 から衣きつつなれにしつましあれば
 はるばるきぬるたびをしぞおもう
と、詠まれました。
 この和歌は平安時代前期の代表的な歌人、在原業平作として勅撰和歌集の古今集に撰ばれまています。また、伊勢物語の九段東下りにも採り入れられ、八橋の地が永く語り継がれ親しまれてきました。

う~ん。以下は、原文。

 三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
といひければよめる。

から衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

とよめりければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。 


 このような作句(歌)上の技巧を「折句」といいます。

 『古今集』には「をみなへし(女郎花)」を折句にした、

小倉山峰立ちならし鳴く鹿の
 経にけむ秋を知る人ぞなき 紀貫之

をぐらやま みねたちならし なくしかの へにけむあきを しるひとぞなき

小倉山の峰を歩いて鳴く鹿が過ごしてきたであろう秋を分かる人もいない。

という歌もあります。

 なお、
  HPには、古代から近世までの例を挙げて詳細に説明してあり、とても興味深い話が載せられています。

                        「業平像」。
       

在原業平。芭蕉句碑。来迎寺一里塚。・・・(名鉄「矢作橋」駅から名城線「伝馬町」駅まで。その3。)

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 想像していたよりも手狭な「無量寿寺」境内。また「かきつばた」はほとんど刈り取られていましたが、芭蕉句碑などもあって、静かな散策を楽しめるところでした。

「謡曲『杜若』と業平の和歌」。

 謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて
 「唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」
と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠に作曲されたものである。
 東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、威勢物語の誇示を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平を歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという情趣豊かな名曲である。

謡曲史跡保存会

 ところで、在原業平と『伊勢物語』の東下りについて。

 「東下り」は、第7段の「むかし、をとこ、ありけり。京にありわびて、あづまにいきけるに」から第8段、第9段の「むかし、をとこ、ありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ。あづまの方に」以下をさします。
 その前にはと昔男(在原業平に想定される)が藤原高子(後の二条の后)との恋に破れた話に続く構成となっていて、「芥川」の段には、高子を略取しましたが、発覚して取り返されてしまうという話があります。
 段の構成から東下りはこうした業平と高子の破局がひきがねとなって、「東下り」となるというつながりになっています。
 上の解説文で、謡曲「杜若」にはそのことをほのめかす内容になっていることが分かります。

 その在原 業平(ありわら の なりひら)ですが、

 9世紀半ばにいた人物で、平安時代初期の貴族・歌人。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将(それほど高い位ではなかったので、高子との恋が成就しなかったともいえます)。
 六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによります。
 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきました。

(以下は、「Wikipedia」参照)

 業平は父方をたどれば平城天皇の孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。
 仁明天皇の蔵人となり、849年(嘉祥2年)従五位下に叙爵されるが、文徳天皇の代になると全く昇進が止まり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、862年(貞観4年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、873年(貞観15年)には従四位下に昇叙される。陽成朝でも順調に昇進し、877年(元慶元年)従四位上、879年(元慶3年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどしている。 880年7月9日(元慶4年5月28日)卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
 業平は『日本三代実録』の卒伝(元慶4年5月28日条)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞のようにいわれる。この後に「略無才学 善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。
 早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。
 代表的な歌は、

・ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。
・世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』撰歌。
・忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは — 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。
・から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ — 『古今和歌集』撰歌。
・名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと — 『古今和歌集』撰歌。
・月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして —『古今和歌集』巻十五、恋歌五。

 「ちはやふる」は、落語が面白い。相撲取りの「竜田川」が遊女に振られるお話。
 「名にし負はば」は、東京・墨田の「言問橋」の由来。
などとけっこう有名な歌があります。



「業平竹」。

 植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述が見られる。
 一節には竹「男竹」であるが笹「女竹」のように一筋から多くの枝を出すため、色男と云われる在原業平に見立てたともいわれる。
 男女竹と称え、縁結びの竹として俗に信仰されている。

「芭蕉連句碑」。

 かきつばた 我に発句の 
         おもひあり   芭蕉

 麦穂なみよる 潤ひの里     知足

 芭蕉が貞享元年(1684)に「野ざらし紀行」を終え、翌年4月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊まり俳筵を開いた時の作といわれる。
 芭蕉は知足の案内でこの旧蹟八橋に遊んで懐古にふけったのであろうか。
 碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とあり、三河に残る芭蕉句碑の代表的なものとされている。

 知立市教育委員会 

 ところで、京都のお土産で有名な「八ッ橋」。この和菓子にも触れていきましょう。

起源・由来

 江戸中期にあたる1689年(元禄2年)に、聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道の茶店にて供されたのが始まりとされる。
 八橋の名の由来は定かではなく、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説と、『伊勢物語』第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説がある。

特徴

 生八ツ橋(ニッキ風味)
米粉・砂糖・ニッキ(肉桂、シナモン)を混ぜて蒸し、薄く伸ばした生地を焼き上げた堅焼き煎餅の一種で、形は箏を模しており(聖護院八ツ橋総本店による。別に橋の形を模しているという説もある)、長軸方向が凸になった湾曲した長方形をしている。
 蒸し終えて薄く伸ばした生地を焼き上げずに一定サイズに切り出したものは「生八ツ橋」と呼び、1960年代に発売を開始した。純粋に生地だけのものと、正方形の生地を二つ折りにして餡を包んだものがある。とくに後者はメーカーにより多種多様な種類が作られている。生地は通常のニッキのほか抹茶やごまを混ぜたものがあり、餡も通常のつぶあんのほかに果物やチョコレートの餡を用いるものもある。
 明治時代、京都駅で販売されたことがきっかけとなり、認知されるようになり、人気が出て行った[6]。昭和期にはいるとよりやわらかい質の「生八ツ橋」が考案され、現代ではこちらの方が人気がある。
 抹茶味、イチゴ味、チョコレート入りの八ツ橋も作られており、バリエーションが増えている。

八ツ橋の主な製造販売企業について

・聖護院八ツ橋総本店 (玄鶴堂)、「聖(ひじり)」「旬菓(しゅんか)」 1689年(元禄2年)に聖護院の森の茶店として創業し、八ツ橋の製造販売を開始。
・本家西尾八ッ橋、「あんなま」 元禄年間に聖護院の森の黒谷参道に八ッ橋屋梅林茶店として創業し、1689年(元禄2年)に八ツ橋の原型が誕生。文政七年に熊野神社に奉納された絵馬には「八ッ橋屋為治郎」の名が残る。
・聖光堂八ツ橋總本舗、「なまやつ」 1850年(嘉永3年)の創業と同時に八ツ橋の製造販売を開始。
・おたべ(株式会社美十) 1957年(昭和32年)から八ツ橋製造を始めた。餡入り八ツ橋「おたべ」は1966年(昭和44年)から製造を開始し、新顔ながら一大勢力となる。
・八ツ橋屋西尾為忠商店(元祖八ツ橋) 本家西尾八ツ橋と分かれてできた銘柄。完全手作業製造・梱包、添加物無添加で、3軒の直営店だけでの販売を行う。餡入り八ツ橋が4角形で、通年販売は一般的な餡入りと抹茶餡入りだけであることも特徴。
・井筒八ッ橋本舗 1805年(文化2年)創業。井筒八ツ橋や餡入り八ツ橋「夕子」で知られる。

かつてはこれが主流でしたが、

いまはこちらが売れているようです。「生八ッ橋」。

 こうして一通り見学したあと、再び「東海道」へ。時刻は午後1時近く。食事をとるお店もない、出るときにコンビニで買ったおにぎりをどこかで食べようかと歩いていると、「明治用水」の説明板がありました。「水路」は遊歩道になっています。

    

 四阿風の休憩施設が見えたので、そこに立ち寄って、昼食休憩。なんと目の前に「芭蕉句碑」がありました。



 杜若 語るも 旅のひとつかな 

 この句は、芭蕉の紀行『笈の小文』に収められたもの。元禄元年(1688年)4月、大阪の保川一笑宅において作った句である。杜若を眼前にして、『伊勢物語』で有名な三河八橋の杜若を話題にしたのであろう。芭蕉はそれまでに東海道を少なくとも2往復半しているが、杜若を見たと思われるのは、延宝4年(1676年)夏、郷里へ赴いた折であった。『伊勢物語』の業平が望郷の思いに涙したという八橋の杜若は、久しぶりに郷里に赴く芭蕉にもさまざまな感慨を起こさせ、いつまでも心に残ったのであろう。一笑宅の杜若も見事だが、10年以上も前に見た八橋の杜若は、今も忘れられないというのである。なお、この句の芭蕉自筆のものが伝わらないので、この碑は乙州編の『笈の小文』によった。

(監修 愛知教育大学教授 岡本 勝)

 平成7年11月、知立市市制25周年記念に建立されたもののようです。作句の場所は異なりますが、今の心境に絶妙なタイミングです。さすが、芭蕉翁。意を強くして、午後の行動です。

一面の田園風景。

 再び「東海道」を西へ進みます。まもなく「来迎寺一里塚」。

    

来迎寺一里塚 県指定文化財(史跡)

 1603年(慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。この時一里(約4キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。
 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。
 塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松といわれる。この大きさは直径約11メートル、高さ約3メートルに土を盛り、街道の両側に造られている。
 この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。
 県下ではほかに豊明市の阿野一里塚などがある。

 知立市教育委員会

    
 南側。                                  北側。

    道の向こう側、奥に北側の一里塚。日本橋から84里目。

しばらく道なりに進みます。「東海道」の標示。

「元禄12年の道標」。

まもなくすると、「国道419号」の向こうに松並木が見え始めます。

知立松並木。引馬野。天竺豆。池鯉鮒宿。・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その4。)

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 いよいよ「知立」(池鯉鮒)の「松並木」に到着です。

    
 歩道橋から望む。                         来た道(東)を望む。

    
                       暗渠になった「明治用水」が松並木の左側の緑道となっている。

東海道松並木

 徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、禁裏にある京都と江戸間の交通を重視し、東海道を整備したのは慶長9年(1604年)のことである。当時幅2~4間(3.6~7.2メートル)の道は随分の大道であったに違いない。やがて参勤交代が始まり、逐年交通量は増えてきた。そのため寒暑風雨から旅人を守るため、中国の古例にならい両側に松木を植えたものである。
 知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1キロ続いていたが、住宅が次々と建てられて今では450メートル程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60~70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を補植し、以後毎年松食虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめています。

小林一茶の句碑。はつ雪や ちりふの市の銭叺(ぜにかます)

 1813年(文化10年)に木綿市の繁昌を詠んだもの。銭叺(ぜにかます)=わら製の銭入れ

    

知立松並木 市指定文化財(名勝)

 慶長9年(1604)江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅7m、約500mにわたり凡そ170本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。
 また、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(701)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに)長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。

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 万葉歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾(引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに) - 長忌寸奥麻呂」 702年(大宝2年)の持統天皇の三河行幸の際の捧呈歌。

途中には馬の像。

 池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく・旧仮名遣いでは「ちりふ」)は、東海道五十三次の39番目の宿場。日本橋から約330kmで、当時でおよそ10日間かかったといわれています(当方は、その倍以上もかかっています)。
 馬市が立ったことで知られており、 毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていた。 また三河地方の特産品であった木綿市も開かれていました。
 街道沿いの松並木は、馬をつなぐためにも使われていました。
 明治時代に馬市は松並木から慈眼寺(山町桜馬場)へと移動、牛市・鯖市に移り変りましたが、昭和初期に終了しました。


   東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市 / 歌川 広重

 池鯉鮒は珍しい地名である。鯉と鮒が沢山いた池があったという。毎年4月25日から5月5日に馬市が開かれる。400から500頭の馬が集まり、馬喰や馬主が来た。大きな松は談合松と呼ばれていた。この時期には遊女や役者まで集まってきて賑わったそうである。初夏の爽やかな風景である。

 (「知足美術館」HPより)

※「首夏」=初夏の頃。旧暦で4月の異名。

    
   「万葉歌碑」。                     「馬市之址」碑。

説明板。 

  馬市句碑

かきつばた 名に八ッ橋のなつかしく
 蝶つばめ 馬市たてしあととめて

 俳人麦人は、和田英作を訪ねてこの地を訪れたことがある。

  万葉の歌碑

引馬野に
  にほふはりはら
     いりみだれ
 衣にほほせ たびのしるしに

 この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。
   
    
   大正期の池鯉鮒(「同」より)                  現在のようす。

 なお、「知足美術館」」では、7月2日から恒例の「歌川広重 東海道五拾三次(保永堂版)」展を開催中です。

                

    
 広重の「池鯉鮒宿・ 馬市」。                 左の通りは「国道一号線」。

 保永堂版『 東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市』歌川広重 天保三~4年(1832~1833)頃

 歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。鎌倉時代の初期に書かれた『海道記』に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる。また、江戸時代の浅井了意の『東海道名所記』、梅月堂宣阿『富士一覧記』、井原西鶴『一目玉鉾』、秋里籬島『東海道名所図会』等にに馬市の盛大な様子が述べられている。これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。馬を売買する人はもよよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。

 松並木が終わると、「御林」の交差点。「国道1号線」を地下道で向こう側に横断します。

「地下道」内の「東海道」という標示。

地下道を上がると、「池鯉鮒宿」という標示。

 しばらくして名鉄三河線の線路を越えます。
    

    
                             街道沿いの古い家並み。

中にこんな看板が。「天竺豆買います」。「天竺豆」??

 「天竺豆」とは、「ソラマメ」の異名。

 天竺(てんじく)とは、インドの旧名。『西遊記』において玄奘三蔵一行が目指した地とされます。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではないようです。
 かつては唐土(中国)・天竺(印度)・日本(倭国)を三国と呼んでいました。「ソラマメ」は、インド原産の植物? 

「ソラマメ」

 紀元前3000年以降中国に伝播、日本へは8世紀ごろ渡来したといわれている。インド僧・菩提仙那が渡日し、行基に贈ったのが始まりともいう。 古くから世界各地で栽培され、食用にされている。現在は南米、北米、ウガンダ、スーダンなどで栽培されている他、中華人民共和国河北省張家口で最高級品が栽培されている。
 高さ50cmほど。秋に播種する。花期は3−4月で直径3cmほどで薄い紫の花弁に黒色の斑紋のある白い花を咲かせる。収穫は5月頃から。長さ10−30cmほどのサヤには3−4個の種が含まれている。
 和名の由来は、豆果(さや)が空に向かってつくため「空豆」、または蚕を飼う初夏に食べ、さやの形が蚕に似ていることから「蚕豆」という字があてられた。酒処では「天豆」と表示している場合も多い。(以上、「Wikipedia」参照)

 「天豆」という表記は、「天竺豆」とも関連ありそうな、・・・。

先に進みます。「常夜燈」。

池鯉鮒宿本陣。いずれあやめか、・・・(名鉄「矢作橋」駅から「豊明」駅まで。その5。)

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中町の六叉路。正面の細い路に入ります。


    
                          この辻の角には趣のある建物があります。

来た道を振り返る。右手の電柱に「東海道」の標示。

右手にある「食品館・美松」の駐車場に「池鯉鮒宿問屋場之跡」。

 「国道419号線」を渡ります。その右手に案内図。

 その案内図をもとに本陣跡へ。東海道から少し南に入ったところにあります。

    

 池鯉鮒宿本陣跡

 本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。
 東海道39番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣(本陣だけでは対応できない時の予備の宿)が各一軒置かれていた。本陣宿は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文2年(1662)からは永田家によって引き継がれた。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治8年(1875)に取り壊され、二百年近く続いた永田本陣も、時代の変化とともにその使命を終えた。

 知立市教育委員会

車止めなのか、古タイヤが置かれている。裏手の石碑は「明治天皇行在所聖蹟」記念碑。

 しばらく進むと、左手に山車を収納する大きな蔵があります。

         「本町山車蔵」。

 その先の突き当たりを右に曲がります。正面に道標があります。右に折れると、正面奥には「了運寺」の山門。

        

 左手には、「知立古城跡」絵図。

「了運寺」のところを左に曲がります。曲がり角には「知立大明神」の「常夜燈」。

この道を通る先達が必ず?カメラにおさめる画像。そろばん塾のマスコット。 お腹の大穴にもめげず、まだまだ健在です。

 「国道155号線」の横断は、地下道を利用します。地下道の入口に総持寺跡の大イチョウの説明板。



総持寺跡大イチョウ 市指定文化財(天然記念物)
 イチョウ科の落葉喬木。雌雄異株。このイチョウは雌木で、秋には多くのギンナンが採れる。イチョウの木は、病害虫が少なく、火にも強いため、神社・寺院に植えられて巨木となって残る例が多いが、この木もその一つである。樹齢二百余年を経た今も樹勢未だ衰えていない。
 元和2年(1616)ここに玉泉坊を創建、貞享3年(1686)総持寺と改称、明治5年(18722)廃寺となり境内は民間の手に移った。総持寺はその後大正15年(1926)に西町新川に再建され、現在に至っている。

 奥にある大木がこのイチョウだと思いますが、近づけず。

国道をくぐり抜けて振り返る。

 しばらく進み、右折して行くと、左手に「知立公園」。園内には、花菖蒲が咲き誇っています。ちょうど「知立花しょうぶ祭」を開催中。

    

 「かきつばた」を見ることができなかったので、ここでしばし休憩しつつ観賞。東京・葛飾区にある「堀切菖蒲園」も見事な花しょうぶが咲きます。

 次の3枚は「堀切菖蒲園」の写真(2014年6月15日撮影)。

        

        

 この知立公園もなかなか見事でした。休憩所で地元・知立名物の「大あんまき」を。

        

 薄く細長いホットケーキ生地で餡を巻いたもの。1890年創業の小松家本家が元祖であり、藤田屋など知立市内には他にも何店舗かあるようです。「黒餡(小豆餡)」と「抹茶餡(白餡)」を買いました。写真は、黒餡。なかなかのもの。


 ところで、『菖蒲(あやめ)・菖蒲(しょうぶ)・杜若(かきつばた)の『違い』は?

 (以下HPより。)

 5月から6月にかけて、これからはあやめやしょうぶやかきつばたのシーズンですね。各地のXX菖蒲園など菖蒲の名所が賑わいます。東京では堀切菖蒲園や水元公園など有名ですね。

 皆さんも「いずれあやめか、かきつばた」という言葉を聞いたことありますね。
あやめとかきつばたはよく似ていて見分けにくいところから来た言葉のようです。そこであやめとかきつばたの違いは? を調べようと思って調べているとさらに面白いことを見つけました。

 あやめとしょうぶはどちらも漢字で書くと「菖蒲」なんですね。でも漢字は同じでも菖蒲(アヤメ)と菖蒲(ショウブ)は別物。

 菖蒲(ショウブ)と菖蒲園などで見る花菖蒲(ハナショウブ)も別物。だからアヤメとショウブとハナショウブは別物。それに「いずれがあやめ、かきつばた」の杜若(カキツバタ)が加わって4つ巴のぐちゃぐちゃ。

 混乱の元は4つあります。漢字が同じだったり葉っぱや花が似てたり・・・。

整理すると(1)菖蒲湯に入れる「菖蒲」(2)「花菖蒲」(3)「あやめ」(漢字で書くと菖蒲)(4)「かきつばた」(杜若)の4つが似ているが、実は違うのです。

・・・

 菖蒲湯の菖蒲は花菖蒲・あやめ・杜若の3つとは別物・・・これはすぐに判明
 植物学的には(2)「花菖蒲」(3)「あやめ」(4)「かきつばた」はすべてアヤメ科アヤメ属だから皆同じ仲間で極めて近い関係。
 ところが(1)菖蒲湯の菖蒲はサトイモ科で別物。葉っぱがにているだけ。花も咲くことは咲くけどきれいな花ではなく、蒲(がま)の穂みたいな黄色い花である。
 5月5日端午の節句の菖蒲湯に入れるあの菖蒲に花が咲くと、菖蒲園なんかに咲いている菖蒲(花菖蒲)なのかな(つまり、菖蒲の花=花菖蒲)と思っていたらこれが全く違うんですね。

 《名前の由来》

・はなしょうぶ(花菖蒲)
葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるから。

・あやめ(菖蒲)
剣状の細い葉が縦に並んでいる様子が文目(あやめ)模様。花基部の網目模様からの説もあり。

・かきつばた(杜若)
かきつばたの色(青紫)を染み出させ布などに書き付けた、つまり衣の染料に使われたことから「書付花」と呼ばれていたのがなまったもの。

 では「花菖蒲」、「あやめ」、「かきつばた」の違いは?
 これがなかなか難しい。3つとも“アヤメ科”アヤメ属に属しています。だからとてもよく似ていて見分けにくいことは確か。
以下それぞれの特徴から見分ける方法を探る。

 《違いのポイント①》 咲く場所

・あやめは畑のような乾燥地で栽培するのに適し、
・かきつばたは水辺などの湿地帯に適し、
・花菖蒲はその中間で畑地でも湿地でも栽培できる

 《違いのポイント②》 背丈

 背のたけはあやめが一番背が低い(30~60cm)、杜若が中間(50~70cm)、花菖蒲は背が高い(80~100cm)。

 《違いのポイント③》 花の大きさ

 花の大きさは花菖蒲が大輪、あやめが小輪、杜若が中輪。

 畑に咲いてる奴で背が高くて(80~100cm)花がでかいのが花菖蒲、背が低くて(30~60cm)花が小さいのがあやめ。(これは大と小だから差が大きく判別しやすい)
 水辺に咲いてる奴は杜若か花菖蒲で、大輪の花で背が高い(80~100cm)のが花菖蒲。中輪で少し背が低い(50~70cm)のが杜若。

・・・

 《やっと見つけた1発でわかる方法! 》

・花菖蒲は花の種類は多く紫系統の他に黄色や白、絞り等、多彩であるがどれも「花弁の根元のところに黄色い目の形の模様」がある。
・杜若はあまり種類は多くないが、「花弁の弁の元に白い目型の模様」があるのが特徴。
・あやめも花の種類は多くないが「花弁の元のところに網目状の模様」がある。

 《結論》

 花弁の元を見よ!花菖蒲が黄色の目型模様、あやめが網目模様、杜若が白の目型模様。これで完璧。目的達成!

余談:「いずれあやめかかきつばた」について
 元々は、いずれ劣らぬ美人が二人いるときに使っていましたが、最近はいずれも優劣がつけ難いほど素晴らしいものを例えて使う言葉になっています。
 ただ、単にどちらもよく似ていて見分けにくいものを言うわけではありません、美しい(素晴らしい)という前提条件が必要です。

 《咲く時期》

・かきつばた(5月中旬)
・あやめ(5月中旬~下旬)
・花菖蒲(5月下旬~6月下旬)ハナショウブが遅くまで咲いている(種類が多いからね)。

 花菖蒲は日本産でかなり後から生まれた。花菖蒲は江戸時代の中頃より、各地に自生するノハナショウブの変わり咲きをもとに改良され、発達してきた日本が世界に誇れる伝統園芸植物です。だから種類も多い。
 万葉の頃はかきつばたが読まれ、菖蒲というと葉菖蒲のこと。花菖蒲が文献に出てくるのは江戸時代から。

(当方で、少し編集しました。今年はいずれも花期を過ぎましたので、また来年、ということで。識別方法を忘れてしまいそうですが)

 
園内には芭蕉の句碑があります。

芭蕉句碑

 不断堂川 池鯉鮒の宿農 
          木綿市  芭蕉翁

 元禄5年(1692)秋9月、江戸深川で詠まれた芭蕉の句である。
 木綿市についての資料は乏しいが、江戸で「池付白」と呼ばれて好評な三河木綿の集散地であった賑わいがうかがわれるようである。
 池鯉鮒蕉門の俳人井村祖風が、寛政5年(1793)この句が作られて百年目に当たったのを記念し、同好の士十五名に働きかけて建立されたもので、その名は碑陰に刻まれている。

 知立市教育委員会

 この句、「ふだんたつ ちりふのしゅくの もめんいち」と読ませていますが、『芭蕉俳句全集』(www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm)には掲載されていません。他の句集も調べましたが、なし。句趣もそれほどいいとは思えませんが。果たして誰の作? (「藤川宿」の句碑に続いて真偽不明の芭蕉句碑の二つ目。)

    
 明治19年建築の洋風建築「養正館」。長年、各種の学校の校舎として使用されたのち、この地に移築されたもののようです。
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