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Channel: おやじのつぶやき
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新宿~高井戸~布田五ヶ宿~府中。その4。(「甲州街道」をゆく。第1日目)

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 旧道らしい道。沿道はすっかり変わっていますが、道筋はかつてのまま。
    

 南烏山から給田へとつづくこの道はかつての甲州街道です。昔の街道筋を偲ばせる風景はほとんど残っていませんが、、この道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません。道の由来を知れば、その時代、時代の道筋の風景を脳裏に浮かべることもできます。(「せたがや百景」)
 「烏山」には「下宿」「中宿」「上宿」という地名が残っています。間の宿だったのでしょうか?

ゆるい上り坂を行くと再び「国道20号線」へ合流。

(12:02)その手前、右手に「新一里塚」。
里程標(新一里塚)
 銘文( 
 (正面)内藤新宿より三里 品川県
 (左右側面も同じ銘文)
 (背面)明治三庚午年八月 武蔵国多摩郡給田村
 伝承
 甲州道中には、江戸時代日本橋を基点とした一里塚が、4キロメートルごとに築かれていた。
 この里程標は明治3年に内藤新宿(現新宿御苑内にあった高遠藩内藤家下屋敷)を基点とした甲州街道に建立された一里塚で、記録によれば芝生に覆われた3メートル位の塚の上に建てられてあったという。
 この標石は、上馬1丁目の前川鉄郎氏によって保管されたのち、昭和51年12月、同氏から世田谷区区立郷土資料館に寄贈された。その後、同59年2月、元位置に近い現在地に復元した。・・・

                                  昭和60年3月  世田谷区教育委員会

 この碑にある「品川県」は、1869年(明治2年)に武蔵国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県で、おおむね現在の東京都練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・世田谷区および、いわゆる多摩地区の東部・南部、さらに埼玉県・神奈川県の一部を管轄した。
 1871年「明治4年)、廃藩置県を経た第1次府県統合において廃止され、品川県の管轄した区域は主に入間県と東京府が占めることとされ、翌年、 多摩郡全域は神奈川県が占めることとされ、1872年(明治5年)には、多摩郡のうち、東京府に移管された区域が神奈川県に編入された。

    

 (12:10)「仙川」を越します。
    

仙川(せんかわ)
 多摩川水系野川の支流である。「せんがわ」と称されることが多いが正式名称は「せんかわ」。
 現在の上流部は人工的に作られたもので、狭い幅・浅い深さ・枯れ川に等しい水量・曲がり角が蛇行でなく直角であるなどにその証拠を残す。
 東京都小金井市貫井北町三丁目の新小金井街道直下が「上端」と定められ、東京都による立札が設置されている。
 現在、仙川の源流は消滅している。コンクリート垂直三面張りの改修が施された流路の大半も、すでに20年以上にわたって常時水のない状態が続いている。
 源流域からおおむね東に向かい、公務員住宅の横を流れ、市街地(北大通り北側歩道と重複する箇所は暗渠)を曲がりながら武蔵野市に入る。亜細亜大学や桜堤団地の近くを流れ、南に向きを変え、武蔵境駅の少し東でJR中央本線の下をくぐり、市街地(一部暗渠)を曲がりながら抜けてゆく。このあたりでもふだん水のない状態は変わらない。やがて三鷹市に入る。
 三鷹市をしばらく行くと野川宿橋の所から川幅が広がり、流れも自然な蛇行となる。ここで地下から汲み上げた水を放流する。ここが21世紀現在確立された最初の水源である。少しずつ蛇行しながらおおむね南東方向に流れてゆき、調布市に入る。
 少し下流で再び三鷹市の境界に触れるが、そこで三鷹市東部下水処理場の高度処理水が放流される。水量もある程度のものになったところで、住宅地の広がる緑ヶ丘や仙川町を抜け、国道20号や旧甲州街道と交差し、世田谷区に入る。
 京王電鉄京王線と交差し、両岸に祖師谷公園を見て通り抜け、成城に達して成城学園の横を流れる。小田急小田原線をくぐり、成城の東を流れ、世田谷通りと交差して大蔵住宅の横を流れ東名高速と交差する。世田谷区鎌田で北西から流れ来る野川に合流する。
(以上、「WIkipedia」参照)

注:現在の上流(上端)部分は、かつて探索したことがあります。

「国道20号線」を進みます。

 (12:22)「仙川駅東」交差点の右手、「セブンイレブン」脇に「一里塚」の案内碑があります。日本橋より20㎞地点。
    

市旧跡 仙川一里塚跡
 この地は、仙川一里塚の跡である。江戸日本橋を起点にして5里(約二十キロメートル)の距離にあり、甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。この塚は、徳川家康が天下を平定してから主要街道に一里塚の制度ができ、慶長7年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれたものである。
 一里塚は、街道を行く旅人が、正確な里程を知る目じるしとして築かれた。塚は、普通5間(約9㍍)四方、高さ1丈(3㍍)の規模で、エノキが植えられたが、地方によってはマツやケヤキを植えたところもある。旅人にとっては空腹をいやしたり、木陰のもとで疲れをとる場所でもあった。
 この手前の一里塚は上北沢で、次が小島一里塚となる。現在、昔のおもかげはまったくみられないが、土地の人は今でもこのあたりを塚とよんでおり、地名に当時の名残りをとどめている。

 平成6年3月吉日        調布市教育委員会    


右手にある大きなおうち。

下り坂にさしかかります。

(12:37)その先、右手に「瀧坂旧道」碑。側面に「馬宿 川口屋」。
    
 甲州街道が武蔵野段丘崖を上下する坂で、その高低差は15m。市内の同街道で最も高低差があるところであり、平野部を走る江戸~八王子間でもやはり有数の坂で、東上する通行の人々や物資の輸送に当たる馬方等に難所の一つとして数えられたものらしい。特に登りは人を乗せ、荷を着けた馬・車にとっては大変で、車の場合は下りも楽ではなかった。また、この坂の名は、大雨の時雨水が路上を滝のように流れ下ったから付いたと言われる。

一気に急坂を下るようす。

坂上の石仏(薬師如来坐像)付近。 

振り返って望む。

道沿いには「滝坂」の名を持つ工場。

旧道らしい道筋。

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