「国道20号線(現甲州街道)」に沿って歩きます。道路沿いには史跡やお堂などが出てきます。
「白水学校跡」。![]()
明治12年(1879)、水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。
忠蔵は、明治維新に東京市内から代々木村に移り住んだ教育家、これより6ヶ月前に白水学校の本校を和泉村(杉並区)に開校しています。
当時の白水分校には尋常科と簡易科があり、尋常科では主として漢文・数学・習字を教授し、簡易科では毎日通学できない児童のために、各科目を速習方法で教授しました。また、簡易科には、農閑期だけ通学する児童や、裁縫・礼儀作法を習うために通学する女児がたくさんいたのです。
明治15年(1882)2月、白水分校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し、同8年(1885)11月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転しました。
渋谷区教育委員会
「現渋谷区立幡代小学校」の前身です。どこかのお騒がせ小学校理事長よりも、はるかに教育者としての識見がありそうです。
案内図。首都高・高架下。
左手には暗渠になった「玉川上水」の緑地が続きます。![]()
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「子育地蔵尊」。
地蔵信仰は古くから行われていますが、地蔵は苦難のときに身代わりに現れるとか、冥界(みょうかい)と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくれるとか、いろいろと考えられていました。
この地蔵は子育地蔵と呼ばれており、このあたりの低地は昔から地蔵窪といっています。
この地蔵は江戸時代の貞享3年(1686)の造立で、もとはすぐ前にお堂がありましたが、甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人びとの浄財によって立派なお堂が作られました。
渋谷区教育委員会
古い解説碑。
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地下から地上に顔を出した「京王線」がすぐ脇を進んでいます。都営新宿線と直通運転する京王新線は京王線よりも地下深く通過し、「笹塚駅」手前で合流します(右の写真)。
(10:08)「幡ヶ谷駅」(京王新線・地下駅)を過ぎて、「中野通り」と交差する手前、左手に「道供養碑」「牛窪地蔵尊」があります。
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道供養碑
この道供養碑は、文化3年(1806)11月に造立されたことが、銘文からわかります。これにより、江戸時代の道供養信仰をある程度知ることができます。道祖神、地蔵尊などの交通安全、悪魔退散の呪術的信仰とはちがい、これは橋供養と同じように、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈ろうとする珍しい供養碑です。
中野通りの先は駒場道(鎌倉道)の一部で、この道供養碑はもとはそれに面してたてられていて、駒場道の供養碑であったことがわかります。
なお、中野通りに甲州街道が交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞い行事を行う場所、という言い伝えもあるようです。
渋谷区教育委員会
「笹塚駅」(地上駅)を過ぎていくと、「環七・大原交差点」。![]()
(10:27)「代田橋駅」近くで「玉川上水」が顔を出します。
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「代田橋」ホーム下を流れています。![]()
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1880年代のようす。
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現在のようす。右下が「京王線・代田橋駅」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
この付近は、「玉川上水」を水源から断続的に何日かかけて新宿まで歩いたときに紹介したことがあります。久々の再会。「玉川上水」は甲州街道を越えたあと、しばらく街道の北側を遡上し、次第に離れて北西の羽村方向へ上っていきます。
「沖縄タウン」。
「小さい沖縄、生まれタウン」。
沖縄タウン化計画とは
寂れた商店街を活性化させるために、商店街の強みである『個店の連なり』を最大限活かして街を再生させようとする、全国初の試みです。
杉並区は、『沖縄学の父』と呼ばれる『伊波普猷(いはふゆう)』や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいたこともあり、23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多いという背景に加え、昨今の物産ブームで商品力のある沖縄に着目し、街おこしのテーマを『沖縄』としました。
コンセプトは・・・都会の人が出会ったことのない沖縄の発見&体感できる街!!
沖縄を一過性のブームにしないために、沖縄の食材・文化を都会の人々の生活の中に当たり前に存在させていく、それが『沖縄タウン』の役割と考えています。
沖縄タウンは平成17年3月、甲州街道の歩道橋改装に合わせてオープンいたしました。
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和泉明店街のプロフィールをご紹介します
『ひとつ屋根の下』など、多くのテレビドラマのロケが行われた懐かしい街並みを残す商店街。 新宿から京王線で2駅、代田橋駅を降りて5分の立地。環7と甲州街道の交わる大原交差点のすぐ近くにあり、駅と住宅地の中間に位置するため、通勤・通学路になっています。また周辺には企業の進出が目立ち、人口は増加傾向にあります。
和泉明店街は、登録74店舗の商店街で、総延長380メートル。沖縄県那覇市の栄町市場と似た雰囲気の大都(だいと)市場を持つなど遊回性のある構造をしています。
(
HPより)
(10:31)「日本橋より13㎞」ポスト。
「白水学校跡」。

明治12年(1879)、水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。
忠蔵は、明治維新に東京市内から代々木村に移り住んだ教育家、これより6ヶ月前に白水学校の本校を和泉村(杉並区)に開校しています。
当時の白水分校には尋常科と簡易科があり、尋常科では主として漢文・数学・習字を教授し、簡易科では毎日通学できない児童のために、各科目を速習方法で教授しました。また、簡易科には、農閑期だけ通学する児童や、裁縫・礼儀作法を習うために通学する女児がたくさんいたのです。
明治15年(1882)2月、白水分校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し、同8年(1885)11月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転しました。
渋谷区教育委員会
「現渋谷区立幡代小学校」の前身です。どこかのお騒がせ小学校理事長よりも、はるかに教育者としての識見がありそうです。

左手には暗渠になった「玉川上水」の緑地が続きます。



「子育地蔵尊」。
地蔵信仰は古くから行われていますが、地蔵は苦難のときに身代わりに現れるとか、冥界(みょうかい)と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくれるとか、いろいろと考えられていました。
この地蔵は子育地蔵と呼ばれており、このあたりの低地は昔から地蔵窪といっています。
この地蔵は江戸時代の貞享3年(1686)の造立で、もとはすぐ前にお堂がありましたが、甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人びとの浄財によって立派なお堂が作られました。
渋谷区教育委員会



地下から地上に顔を出した「京王線」がすぐ脇を進んでいます。都営新宿線と直通運転する京王新線は京王線よりも地下深く通過し、「笹塚駅」手前で合流します(右の写真)。
(10:08)「幡ヶ谷駅」(京王新線・地下駅)を過ぎて、「中野通り」と交差する手前、左手に「道供養碑」「牛窪地蔵尊」があります。




道供養碑
この道供養碑は、文化3年(1806)11月に造立されたことが、銘文からわかります。これにより、江戸時代の道供養信仰をある程度知ることができます。道祖神、地蔵尊などの交通安全、悪魔退散の呪術的信仰とはちがい、これは橋供養と同じように、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈ろうとする珍しい供養碑です。
中野通りの先は駒場道(鎌倉道)の一部で、この道供養碑はもとはそれに面してたてられていて、駒場道の供養碑であったことがわかります。
なお、中野通りに甲州街道が交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞い行事を行う場所、という言い伝えもあるようです。
渋谷区教育委員会
「笹塚駅」(地上駅)を過ぎていくと、「環七・大原交差点」。

(10:27)「代田橋駅」近くで「玉川上水」が顔を出します。


「代田橋」ホーム下を流れています。



1880年代のようす。


現在のようす。右下が「京王線・代田橋駅」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
この付近は、「玉川上水」を水源から断続的に何日かかけて新宿まで歩いたときに紹介したことがあります。久々の再会。「玉川上水」は甲州街道を越えたあと、しばらく街道の北側を遡上し、次第に離れて北西の羽村方向へ上っていきます。
「沖縄タウン」。

沖縄タウン化計画とは
寂れた商店街を活性化させるために、商店街の強みである『個店の連なり』を最大限活かして街を再生させようとする、全国初の試みです。
杉並区は、『沖縄学の父』と呼ばれる『伊波普猷(いはふゆう)』や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいたこともあり、23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多いという背景に加え、昨今の物産ブームで商品力のある沖縄に着目し、街おこしのテーマを『沖縄』としました。
コンセプトは・・・都会の人が出会ったことのない沖縄の発見&体感できる街!!
沖縄を一過性のブームにしないために、沖縄の食材・文化を都会の人々の生活の中に当たり前に存在させていく、それが『沖縄タウン』の役割と考えています。
沖縄タウンは平成17年3月、甲州街道の歩道橋改装に合わせてオープンいたしました。

和泉明店街のプロフィールをご紹介します
『ひとつ屋根の下』など、多くのテレビドラマのロケが行われた懐かしい街並みを残す商店街。 新宿から京王線で2駅、代田橋駅を降りて5分の立地。環7と甲州街道の交わる大原交差点のすぐ近くにあり、駅と住宅地の中間に位置するため、通勤・通学路になっています。また周辺には企業の進出が目立ち、人口は増加傾向にあります。
和泉明店街は、登録74店舗の商店街で、総延長380メートル。沖縄県那覇市の栄町市場と似た雰囲気の大都(だいと)市場を持つなど遊回性のある構造をしています。
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