旧「若柴宿」は、台地上にある街並み。坂道が右にも左にも。豪農が多いような印象で、りっぱなおうちが目立ちます。


細道の奥にもお屋敷。

(12:10)大坂を上った右側には「八坂神社」。そのところに「若柴宿案内図」。街道はここで左に折れます。



「会所坂」。


「薬師寺跡」。

「仲宿坂(東屋坂)」。


「足袋屋坂」。

それぞれ雰囲気が異なっていて、けっこう急坂になっています。
若柴宿
水戸街道千住宿から7つ目の宿場町。現在の茨城県龍ケ崎市若柴町付近。
水戸街道が小貝川や牛久沼流域の低湿地を横切って北上した台地上にある。宿場は両端に屈曲のあるクランク状の直線部にあり、江戸側(南東側)と水戸側(北西側)の約500メートルの範囲。南東側屈曲部には八坂神社、北西側屈曲部には金竜寺がある。藤代宿・牛久宿と近いことから、本陣は置かれていなかった。
明治以降の火災によって江戸時代の建築の大半は失われているが、明治時代級の古建築はそこそこ多い。

車も人も通らず、先ほどの強風が嘘のように静かで、のんびりと周囲の眺めながら散策できます。旧街道の街並みらしい雰囲気を味わえます。
樹齢200年といわれる椿の木。

広い屋敷と門構えのすばらしいおうちが目立ちます。


(12:20)街道は突き当たりを右に直角に曲がりますが、正面には「金龍寺」。新田氏の菩提寺となっています。この付近までが「旧若柴宿」だったようです。
元享元(1321)年に新田義貞によって上州(群馬県)太田に創建され、義貞の死後、新田氏の流れを汲む岩松氏が義貞の菩提を弔って諸堂を修営し、寺域を整えたとされています。天正18(1590)年、義貞の子孫由良国繁が太田金山城から牛久に国替えになったとき、寺も一緒に移ってきました。天保年間(1830-1843)に火災に遭い、安政5年(1858)に再建されたものが、現在の本堂。
真向かいにお蕎麦屋さん「田舎庵」。現在は営業をしていないようです。

来た道を振り返って望む。

まだしばらく立派な門構えのおうちが続きます。

左手奥には「星宮神社」。社前に「八坂神社」にあった「若柴宿案内図」が設置されています。


「若柴宿」方向を振り返って望む。

すてきな街並みです。




1880年代のようす。牛久沼・湿地帯の東の高台に街並みが形成されています。




現在のようす。牛久沼南部付近が様変わり。中央下に常磐線・佐貫駅。田んぼは相変わらず健在。
この先、県道を横断して「牛久宿」方面へ進みます。