一日に4本しかない、JR「黒田原」駅から「芦野宿」の「芦野仲町」までのバス。それも、朝8:10発のバスではとうてい乗れそうもありません。
次の宿場・「白坂宿」の最寄り駅、JR「白坂」駅ならそのまま歩くことが出来ます。
そこで、今回はイレギュラーで、「白坂宿」から「芦野宿」まで順路とは反対に歩くことにしました。帰りは前回と同じく「芦野仲町」バス停15:58発のバスで「黒田原」駅へ。そして前回と同じく、黒磯で乗換え、快速ラビットで帰京ということに。
従って、これまでの右、左が反対になって、宇都宮に向かって右、左となりますので。
10月22日(土)。予報では晴れ間もありそう、とのことでしたが、厚い雲にほぼ一日中覆われ、風もあって肌寒い一日でした。
上野~宇都宮~黒磯~白坂。普通電車の旅。白坂駅に着いたのは、10時少し前。誰も降りず、駅も無人駅。トイレも何もありません。駅前も閑散として空き地に何台か車があるだけ。もちろん、コンビニなどの売店もありません。駅に降りてから食料、飲み水を調達しようしたら、大変な悲劇が訪れます。
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結局、芦野宿の手前にある「遊行庵」まで、開いているお店は一軒もありませんでした。
すでに上野駅でおにぎりや飲み物は確保した当方。今回は、それほど歩かないし、何しろ「芦野仲町」のバスは15:58なのですから。ゆっくり、のんびり。しかし、それまで時間をつぶせるのか、とむしろそんな心配が。
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しばらく進むと、左手に案内板。「アウシュビッツ平和博物館」と「原発災害情報センター」。無人駅・白坂駅の近くにこのような施設があるとはまったく知りませんでした。寄ることはしませんでしたが、不明を恥じ、紹介します。
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アウシュビッツ平和博物館
「新たな戦争の危機」に対し、私たちは何をすべきなのでしょうか?
「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀が終わり、平和への期待が高まった今世紀は、残念ながら、凄惨なテロで幕を開けました。
今、私たちは、「テロvs報復」といった暴力の連鎖による「新たな戦争」の危機に直面しています。
ひとたび戦争が起これば、常に最大の被害者となるのは、何の罪もない一般市民や子供たちです。大切な命を凄惨殺戮行為から救うために、今、私たちは何をすべきなのでしょうか?
地球上からあらゆる戦争を根絶して平和な社会を実現させるためには、過去の歴史的事実を正しく次世代に伝えていくことが不可欠です。
私たちの博物館では、ユネスコの世界遺産アウシュヴィッツ収容所跡を保存するポーランド国立オシフィエンチム博物館の協力のもと、「人間が人間に対して行った殺戮行為の極限」といえる「アウシュヴィッツ」の事実を語り継ぐ活動を通して、命の尊厳と平和の価値について、皆様と共に学んでゆきたいと願っています。
《常設展》
●アウシュヴィッツ
「人類が二度と繰り返してはならない20世紀の負の遺産」狂信的な全体主義や排他的な民族主義の結果、人類に暗黒の歴史を残しました。
収容所の成立・強制連行・ガス室・人体実験・抵抗運動・証拠隠滅・収容所の解放ほか
●アンネ・フランク
アウシュヴィッツは、人間がどこまで冷酷になれるかを実証した場でしたが、一方では、いかなる迫害にあっても最後まで人間の誇りを貫いた人たちもいました。
アンネフランク財団(アムステルダム)から版権を取得した関連写真150点の中から約20点を常設展示。
●レスキュアーズ
第二次世界大戦中、ナチスによって多くの人々が命を失いましたが、一方、他者を命がけで救った人々もいました。レスキュアーズの精神とは一体何なのでしょうか
「闇を照らすともし火」杉原千畝、コルベ神父、コルチャックについて
「いのちの救済者・勇気ある人びとの肖像」ナチスに立ち向かった市民たちの勇気と感動の記録。
● ビデオ室
「アウシュヴィッツ関連ビデオ」の上映
● 平和の広場
フラワー・ガーデン
(以上、
HP参照。)
原発災害情報センター
活動の内容
原発災害を心に刻み、生活の再生と原発におびえないで暮せる平和な社会が実現する日まで、この白河の地から全世界に向けて原発廃絶の願いを発信していきます。
センターでは以下を中心に活動をしていきます。
1.福島原発事故の被害に係る資料、関連情報を収集し正確に発信する。機関誌の発行等。
2.過去―現在―未来をつなげる各種企画展示と集会の開催。
3.県内外の人々が自由に意見交換やおしゃべりし、復興へ向けて励ましあえる場を作る。
4.将来、原発事故が正確に検証された時点で、広島や長崎の原爆資料館と同じような役割を果せるように語り継ぐ施設を目指す。
運営は全国と地域のボランティア、専門家によるボランティアグループによって行ないます。
施設の概要
◾展示棟(約36坪=144㎡)
木造、耐火壁、平屋建て、カラー鉄板葺き、北側屋根/天窓、南側屋根/ソーラー発電パネル
(以上、
HPより)
その先を右折して上り坂を行くと、国道294号線との交差点へ出ます。ここを右折して、「芦野宿」へ向かいます。「国道294号線」を辿っていきますが、集落が左右にあり、そこでは旧道に入ります。
(10:22)
「白河宿」方向を望む。![]()
「観音寺」。![]()
(10:26)「白坂宿」の面影はありません。静かな街並みです。
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「泉岡」バス停。この付近が宿場の中心だったようです。![]()
白坂宿
奥州街道26番目の宿場。
小田原攻めの勝利を確信した豊臣秀吉が伊達政宗に小田原から会津の街道整備を命じた際に、芦野と白河間が長すぎるということで宿駅となったのが白坂宿の起こり。
江戸時代も宿場として整備され、文化年間(1804~1818年)には宿内人数 289人、宿内惣家数 71軒(本陣1、脇本陣1、旅籠27)。
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「いなりや 菊地」。 「中丁子屋」。
「かめや 亀山」。かつての旅籠。
この先辺りで「白坂宿」は終わり、栃木と福島の県境を越えて、「芦野宿」へ向かいます。
振り返って望む。(10:36)
古代から中世にかけての「白河の関」案内板。「6.5㎞」とあるので、諦めます。
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ここでいう「白河の関」は現在の旧奥州街道(国道294号線)に沿った関ではなく、ずっと東側を通る、県道76号線(伊王野白河線)にあった関を指しているようです。その道が律令時代に整備された官道・東山道(近畿から美濃→信濃→上野→下野→陸奥の各国府を結ぶ道路)だった、とか。
古関蹟(旗宿)(写真は「Wikipedia」より)。
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(10:39)民家が途切れる右手に常夜燈、祠などがいくつか建っています。その左手には、
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戊辰戦役旧大垣藩士
酒井元之丞戦死之跡
大垣藩士酒井元之丞重寛の戦死場所に立てられた碑である。明治39年(1906)に妹により建立された。墓は別に観音寺にある。
慶応4年(1868)5月26日白坂を警備していた大垣藩士らは奥羽越列藩同盟軍襲撃を受けた。酒井元之丞も応戦したが、胸に被弾して戦死した。
碑の右側面には妹が詠んだ
「進み出て 績を尽くしたこの神の いまは偲びてたつる石ふみ」の歌が刻まれている。
白河観光物産協会
右手の山沿いには「馬頭観音」などの石仏が並んで建っています。この地域は、特に馬頭観音碑が多いことに気づきます。
次の宿場・「白坂宿」の最寄り駅、JR「白坂」駅ならそのまま歩くことが出来ます。
そこで、今回はイレギュラーで、「白坂宿」から「芦野宿」まで順路とは反対に歩くことにしました。帰りは前回と同じく「芦野仲町」バス停15:58発のバスで「黒田原」駅へ。そして前回と同じく、黒磯で乗換え、快速ラビットで帰京ということに。
従って、これまでの右、左が反対になって、宇都宮に向かって右、左となりますので。
10月22日(土)。予報では晴れ間もありそう、とのことでしたが、厚い雲にほぼ一日中覆われ、風もあって肌寒い一日でした。
上野~宇都宮~黒磯~白坂。普通電車の旅。白坂駅に着いたのは、10時少し前。誰も降りず、駅も無人駅。トイレも何もありません。駅前も閑散として空き地に何台か車があるだけ。もちろん、コンビニなどの売店もありません。駅に降りてから食料、飲み水を調達しようしたら、大変な悲劇が訪れます。

結局、芦野宿の手前にある「遊行庵」まで、開いているお店は一軒もありませんでした。
すでに上野駅でおにぎりや飲み物は確保した当方。今回は、それほど歩かないし、何しろ「芦野仲町」のバスは15:58なのですから。ゆっくり、のんびり。しかし、それまで時間をつぶせるのか、とむしろそんな心配が。


しばらく進むと、左手に案内板。「アウシュビッツ平和博物館」と「原発災害情報センター」。無人駅・白坂駅の近くにこのような施設があるとはまったく知りませんでした。寄ることはしませんでしたが、不明を恥じ、紹介します。

アウシュビッツ平和博物館
「新たな戦争の危機」に対し、私たちは何をすべきなのでしょうか?
「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀が終わり、平和への期待が高まった今世紀は、残念ながら、凄惨なテロで幕を開けました。
今、私たちは、「テロvs報復」といった暴力の連鎖による「新たな戦争」の危機に直面しています。
ひとたび戦争が起これば、常に最大の被害者となるのは、何の罪もない一般市民や子供たちです。大切な命を凄惨殺戮行為から救うために、今、私たちは何をすべきなのでしょうか?
地球上からあらゆる戦争を根絶して平和な社会を実現させるためには、過去の歴史的事実を正しく次世代に伝えていくことが不可欠です。
私たちの博物館では、ユネスコの世界遺産アウシュヴィッツ収容所跡を保存するポーランド国立オシフィエンチム博物館の協力のもと、「人間が人間に対して行った殺戮行為の極限」といえる「アウシュヴィッツ」の事実を語り継ぐ活動を通して、命の尊厳と平和の価値について、皆様と共に学んでゆきたいと願っています。
《常設展》
●アウシュヴィッツ
「人類が二度と繰り返してはならない20世紀の負の遺産」狂信的な全体主義や排他的な民族主義の結果、人類に暗黒の歴史を残しました。
収容所の成立・強制連行・ガス室・人体実験・抵抗運動・証拠隠滅・収容所の解放ほか
●アンネ・フランク
アウシュヴィッツは、人間がどこまで冷酷になれるかを実証した場でしたが、一方では、いかなる迫害にあっても最後まで人間の誇りを貫いた人たちもいました。
アンネフランク財団(アムステルダム)から版権を取得した関連写真150点の中から約20点を常設展示。
●レスキュアーズ
第二次世界大戦中、ナチスによって多くの人々が命を失いましたが、一方、他者を命がけで救った人々もいました。レスキュアーズの精神とは一体何なのでしょうか
「闇を照らすともし火」杉原千畝、コルベ神父、コルチャックについて
「いのちの救済者・勇気ある人びとの肖像」ナチスに立ち向かった市民たちの勇気と感動の記録。
● ビデオ室
「アウシュヴィッツ関連ビデオ」の上映
● 平和の広場
フラワー・ガーデン
(以上、

原発災害情報センター

活動の内容
原発災害を心に刻み、生活の再生と原発におびえないで暮せる平和な社会が実現する日まで、この白河の地から全世界に向けて原発廃絶の願いを発信していきます。
センターでは以下を中心に活動をしていきます。
1.福島原発事故の被害に係る資料、関連情報を収集し正確に発信する。機関誌の発行等。
2.過去―現在―未来をつなげる各種企画展示と集会の開催。
3.県内外の人々が自由に意見交換やおしゃべりし、復興へ向けて励ましあえる場を作る。
4.将来、原発事故が正確に検証された時点で、広島や長崎の原爆資料館と同じような役割を果せるように語り継ぐ施設を目指す。
運営は全国と地域のボランティア、専門家によるボランティアグループによって行ないます。
施設の概要
◾展示棟(約36坪=144㎡)
木造、耐火壁、平屋建て、カラー鉄板葺き、北側屋根/天窓、南側屋根/ソーラー発電パネル
(以上、

その先を右折して上り坂を行くと、国道294号線との交差点へ出ます。ここを右折して、「芦野宿」へ向かいます。「国道294号線」を辿っていきますが、集落が左右にあり、そこでは旧道に入ります。

「白河宿」方向を望む。

「観音寺」。

(10:26)「白坂宿」の面影はありません。静かな街並みです。


「泉岡」バス停。この付近が宿場の中心だったようです。

白坂宿
奥州街道26番目の宿場。
小田原攻めの勝利を確信した豊臣秀吉が伊達政宗に小田原から会津の街道整備を命じた際に、芦野と白河間が長すぎるということで宿駅となったのが白坂宿の起こり。
江戸時代も宿場として整備され、文化年間(1804~1818年)には宿内人数 289人、宿内惣家数 71軒(本陣1、脇本陣1、旅籠27)。


「いなりや 菊地」。 「中丁子屋」。

この先辺りで「白坂宿」は終わり、栃木と福島の県境を越えて、「芦野宿」へ向かいます。

古代から中世にかけての「白河の関」案内板。「6.5㎞」とあるので、諦めます。

ここでいう「白河の関」は現在の旧奥州街道(国道294号線)に沿った関ではなく、ずっと東側を通る、県道76号線(伊王野白河線)にあった関を指しているようです。その道が律令時代に整備された官道・東山道(近畿から美濃→信濃→上野→下野→陸奥の各国府を結ぶ道路)だった、とか。


(10:39)民家が途切れる右手に常夜燈、祠などがいくつか建っています。その左手には、


戊辰戦役旧大垣藩士
酒井元之丞戦死之跡
大垣藩士酒井元之丞重寛の戦死場所に立てられた碑である。明治39年(1906)に妹により建立された。墓は別に観音寺にある。
慶応4年(1868)5月26日白坂を警備していた大垣藩士らは奥羽越列藩同盟軍襲撃を受けた。酒井元之丞も応戦したが、胸に被弾して戦死した。
碑の右側面には妹が詠んだ
「進み出て 績を尽くしたこの神の いまは偲びてたつる石ふみ」の歌が刻まれている。
白河観光物産協会
右手の山沿いには「馬頭観音」などの石仏が並んで建っています。この地域は、特に馬頭観音碑が多いことに気づきます。

