(12:58) 「鍋掛十文字」交差点を渡ると、「鍋掛宿」の中心になります。その前に、角のコンビニで小休止。
「鍋掛交差点」を渡った所に清川地蔵尊があります。![]()
「清川地蔵」は子育て地蔵として地元民の信仰が厚く、毎年4月24日の祭礼には集落の女性全員が集まり、念仏を唱える行事が行われているそうです。
宿場らしい雰囲気はほとんどなく、ひっそりとした街並み。
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左手が小さな広場になっていて、解説板や芭蕉の句碑があります。奥は、八坂神社の祠。
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写真右の解説版には、「白澤宿」で見た「奥州街道白澤宿の会」と「奥州街道膝栗毛の会」による奥州街道の旅程表が掲載されています。
奥州街道 鍋掛宿より各宿の里程
江戸 江 四拾壱里八町参拾四間
宇都宮宿 江 拾壱里五町拾四間
・・・
鍋掛宿与利
越堀宿 江 八町四拾八間
芦野宿 江 弐里弐拾町参拾間半
白坂宿 江 五里弐拾五町五間半
白河宿 江 七里弐拾弐間五間半
奥州道中・白河宿より宇都宮宿迄、弐拾壱里(八拾六キロ)余りを膝栗毛によって踏破した記念に、この高札を掲げる。
平成参年(一九九一)拾壱月参日
句碑の説明板には「鍋掛宿」の解説と奥州道分間延絵図(鍋掛宿部分)も併せて記載されています。
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芭蕉の句碑
芭蕉が元禄2年(1689)3月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら4月16日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。
野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほとゝぎす
この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。
その昔行われていた那須野の狩りを想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
句碑の建立は、文化5年(1808)10月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと思われる。
平成5年(1993)3月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。
黒磯市教育委員会(注:黒磯市は現在、那須塩原市となっている)
鍋掛宿
鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。
江戸時代初期の正保3年(1646年)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。
本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸。鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり、川留めの時など、大いに賑わったという。
鍋掛宿は那珂川対岸の堀越と2宿で1宿の機能を果たしていました。
鍋掛の名の由来は、那珂川の川留めにより旅人が溢れ、宿住民が総出で鍋を出し、炊き出しを行なったことから、らしい。
那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインで、鍋掛は天領でした。
「初市神」。
八坂神社の隣にある正観寺の山門脇に樹齢250年とされる、大きなシダレザクラがあります。門前には蔵造りを模した「鍋掛消防小屋」があります。この建物が宿場をイメージした唯一のもののようです。
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かなり古そうな道標で、判読不能。![]()
ここで「鍋掛宿」もおしまい。
(13:08)右に入る道が旧道ですが、左折してすぐ県道に戻ることに。![]()
県道側から旧道を望む。
そのまま県道を突っ切ると、右手に大きな馬頭観音石碑や道祖神が並んでいます。この道が旧道らしく、川べりに下りて向こう側に渡ったようですが、現在は通行不能。
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(13:13)「那珂川」に架けられた「昭明橋」を渡ります。
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眼下は切り立ったようすで、天然の要塞という印象。![]()
「鍋掛交差点」を渡った所に清川地蔵尊があります。

「清川地蔵」は子育て地蔵として地元民の信仰が厚く、毎年4月24日の祭礼には集落の女性全員が集まり、念仏を唱える行事が行われているそうです。
宿場らしい雰囲気はほとんどなく、ひっそりとした街並み。


左手が小さな広場になっていて、解説板や芭蕉の句碑があります。奥は、八坂神社の祠。


写真右の解説版には、「白澤宿」で見た「奥州街道白澤宿の会」と「奥州街道膝栗毛の会」による奥州街道の旅程表が掲載されています。
奥州街道 鍋掛宿より各宿の里程
江戸 江 四拾壱里八町参拾四間
宇都宮宿 江 拾壱里五町拾四間
・・・
鍋掛宿与利
越堀宿 江 八町四拾八間
芦野宿 江 弐里弐拾町参拾間半
白坂宿 江 五里弐拾五町五間半
白河宿 江 七里弐拾弐間五間半
奥州道中・白河宿より宇都宮宿迄、弐拾壱里(八拾六キロ)余りを膝栗毛によって踏破した記念に、この高札を掲げる。
平成参年(一九九一)拾壱月参日
句碑の説明板には「鍋掛宿」の解説と奥州道分間延絵図(鍋掛宿部分)も併せて記載されています。


芭蕉の句碑
芭蕉が元禄2年(1689)3月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら4月16日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。
野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほとゝぎす
この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。
その昔行われていた那須野の狩りを想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。
句碑の建立は、文化5年(1808)10月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと思われる。
平成5年(1993)3月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。
黒磯市教育委員会(注:黒磯市は現在、那須塩原市となっている)
鍋掛宿
鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。
江戸時代初期の正保3年(1646年)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。
本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸。鍋掛宿は、奥州街道の難所の一つと言われた那珂川の手前にあり、川留めの時など、大いに賑わったという。
鍋掛宿は那珂川対岸の堀越と2宿で1宿の機能を果たしていました。
鍋掛の名の由来は、那珂川の川留めにより旅人が溢れ、宿住民が総出で鍋を出し、炊き出しを行なったことから、らしい。
那珂川は、幕府にとって天然の防御ラインで、鍋掛は天領でした。

八坂神社の隣にある正観寺の山門脇に樹齢250年とされる、大きなシダレザクラがあります。門前には蔵造りを模した「鍋掛消防小屋」があります。この建物が宿場をイメージした唯一のもののようです。

かなり古そうな道標で、判読不能。

ここで「鍋掛宿」もおしまい。
(13:08)右に入る道が旧道ですが、左折してすぐ県道に戻ることに。


そのまま県道を突っ切ると、右手に大きな馬頭観音石碑や道祖神が並んでいます。この道が旧道らしく、川べりに下りて向こう側に渡ったようですが、現在は通行不能。

(13:13)「那珂川」に架けられた「昭明橋」を渡ります。


眼下は切り立ったようすで、天然の要塞という印象。
