足元には「コウノトリ」。
ただし、「コウノトリ」という漢字は「鸛」。「鴻」は、訓読みですと、「ひしくい」「おおとり」。この漢字は「大きい鳥」「大きい」を意味し、鳥では「オオハクチョウ」、あるいは「ヒシクイ(ガンの一種)」を指すようです。ということで、漢字からすると、「コウノトリ」を指してはいないようです。
鴻巣(こうのす)の地名の由来
「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心) こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。
※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)
6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されています。
(以上、「鴻神社」HPより)
「Wikipedia」によると、その他、
高台の砂地を「コウ(高)のス(洲)」と言い換えて、その言葉が由来となったと言う説があり、これは大宮台地上に位置する古来からの鴻巣郷(現在の鴻巣市南部から桶川市北東部にかけての地域)および他地域の同一地名の地域の地形的特徴と合致する。
という説があげられています。
右手に「鴻神社」。
中山道の左手には土蔵造りの建物が数軒あります。この辺りに「問屋場」があったらしい。
「田沼家の蔵」(明治初期の建造)。
神社脇の解説板。
「鴻巣宿」も見所満載です。
古い家屋も残っています。![]()
加美町。
江戸時代末期、土手外(宿場の上方入口に設けた木戸・土手の外側地域の通称、宿場の拡大に伴い木戸と土手は取り払われました。)に本宿(中心市街地)から家並みが伸びて形成された町です。本宿の上方よりも更に京都よりのため「大上町」と呼ばれましたが、近代になり上町→嘉美町→加美町と表記が変更されました。
(11:45)
「加美」の三叉路を左に進みます。
「中山道」の道しるべ。次は「熊谷宿」。
振り返って望む。
(11:55)「中山道」は、JR線を越えて進みます。
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「箕田氷川八幡神社」にある絵入り解説板。![]()
「ルーツに迫る 箕田(みだ)に残る歴史と昔話」
嵯峨天皇の流れを汲む源仕(みなもとのつこう)は、足立郡箕田郷に土着して箕田源氏の祖となりました。
仕の子の源宛(みなもとのあたる)は『今昔物語集』に平良文との合戦の説話が残されてます。
仕の孫であり宛の子である渡辺綱(わたなべのつな)はこの地で生まれ、摂津の国渡辺(大阪市渡辺)で養育されたことから、渡辺姓を名乗りました。
渡辺綱は武勇に優れ、源頼光に仕える四天王の筆頭と呼ばれ、鬼や妖怪退治にまつわる様々な説話が伝えられています。(注1)
渡辺綱が祖父と父を弔って建立したと伝えられる宝持寺には、全国から渡辺姓の皆さんが訪れています。(注2)
また、氷川八幡神社境内には宝暦9年(1759年)に建立された「箕田碑」があり、箕田源氏の伝承や渡辺綱の辞世などのほか、この地が武蔵武士発祥の地であることが記されています。
注1:渡辺綱が登場するものとしては丹後国(京都府)大江山に住む悪鬼「酒呑童子」を退治した話や京都堀川にかかる以上戻り橋で貴女の腕を切り落とした話などが知られています。
注2:「宝持寺」は「渡辺姓発祥の地」といわれ、境内には全国渡辺会が建立した顕彰碑があります。
「氷川八幡社と箕田源氏」。詳細な解説文。
そろそろ昼時。ですが、食べ物屋さんは見当たりません。コンビニで買っておいたおにぎりを食べながら休憩。東海道の時もそうでしたが、食事のタイミングがなかなか合いません。駅を降りたときに買っておいたおにぎりが昼飯になること、しばしば。
「箕田碑」。
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箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地を開発経営した。
源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(軒史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、?碩の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778)に刻まれた和文章体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら
を掲げ、次に芭蕉・馬酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでしる。
馬酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものと思われる。
昭和62年3月 鴻巣市教育委員会
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「武蔵用水」に架けられた「中宿橋」を渡ります。
(12:50)バス停「追分」。この先が「箕田追分」になります。![]()
中山道と忍・館林道との分岐点。右手に「中山道」碑と解説板。![]()
絵図「江戸時代の箕田追分周辺」。![]()
・・・
朝、江戸を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほぼ1里(約4キロメートル)ほど行くと、箕田村の追分あたりに着き、ひと休みすることもあります。追分からは、北に向かって三ツ木・川面を経て忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。
鴻巣宿から熊谷宿までは4里6丁40間(約16キロメートル)の長い距離があり、途中の箕田・吹上・久下村の三ヶ所には立場と称せられる休憩所がありました。立場は立場茶屋ともいい宿場と宿場との間にあって、そこで旅人がワラジを買い替えたり、お茶を飲みダンゴを食べるなど、休息するところです。箕田の追分には立場があったので、旅人休息はもちろん、近村から寺社参詣などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの別れを惜しんだのです。
・・・
忍(行田)、館林への道。
振り返って望む。
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「追分地蔵堂」。 「庚申塔」。
全景。
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「追分」付近の1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
ただし、「コウノトリ」という漢字は「鸛」。「鴻」は、訓読みですと、「ひしくい」「おおとり」。この漢字は「大きい鳥」「大きい」を意味し、鳥では「オオハクチョウ」、あるいは「ヒシクイ(ガンの一種)」を指すようです。ということで、漢字からすると、「コウノトリ」を指してはいないようです。
鴻巣(こうのす)の地名の由来
「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心) こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。
※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)
6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されています。
(以上、「鴻神社」HPより)
「Wikipedia」によると、その他、
高台の砂地を「コウ(高)のス(洲)」と言い換えて、その言葉が由来となったと言う説があり、これは大宮台地上に位置する古来からの鴻巣郷(現在の鴻巣市南部から桶川市北東部にかけての地域)および他地域の同一地名の地域の地形的特徴と合致する。
という説があげられています。

中山道の左手には土蔵造りの建物が数軒あります。この辺りに「問屋場」があったらしい。

神社脇の解説板。

古い家屋も残っています。


江戸時代末期、土手外(宿場の上方入口に設けた木戸・土手の外側地域の通称、宿場の拡大に伴い木戸と土手は取り払われました。)に本宿(中心市街地)から家並みが伸びて形成された町です。本宿の上方よりも更に京都よりのため「大上町」と呼ばれましたが、近代になり上町→嘉美町→加美町と表記が変更されました。
(11:45)




(11:55)「中山道」は、JR線を越えて進みます。


「箕田氷川八幡神社」にある絵入り解説板。

「ルーツに迫る 箕田(みだ)に残る歴史と昔話」
嵯峨天皇の流れを汲む源仕(みなもとのつこう)は、足立郡箕田郷に土着して箕田源氏の祖となりました。
仕の子の源宛(みなもとのあたる)は『今昔物語集』に平良文との合戦の説話が残されてます。
仕の孫であり宛の子である渡辺綱(わたなべのつな)はこの地で生まれ、摂津の国渡辺(大阪市渡辺)で養育されたことから、渡辺姓を名乗りました。
渡辺綱は武勇に優れ、源頼光に仕える四天王の筆頭と呼ばれ、鬼や妖怪退治にまつわる様々な説話が伝えられています。(注1)
渡辺綱が祖父と父を弔って建立したと伝えられる宝持寺には、全国から渡辺姓の皆さんが訪れています。(注2)
また、氷川八幡神社境内には宝暦9年(1759年)に建立された「箕田碑」があり、箕田源氏の伝承や渡辺綱の辞世などのほか、この地が武蔵武士発祥の地であることが記されています。
注1:渡辺綱が登場するものとしては丹後国(京都府)大江山に住む悪鬼「酒呑童子」を退治した話や京都堀川にかかる以上戻り橋で貴女の腕を切り落とした話などが知られています。
注2:「宝持寺」は「渡辺姓発祥の地」といわれ、境内には全国渡辺会が建立した顕彰碑があります。

そろそろ昼時。ですが、食べ物屋さんは見当たりません。コンビニで買っておいたおにぎりを食べながら休憩。東海道の時もそうでしたが、食事のタイミングがなかなか合いません。駅を降りたときに買っておいたおにぎりが昼飯になること、しばしば。
「箕田碑」。


箕田は武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地を開発経営した。
源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(軒史跡)。源仕(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。
箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、?碩の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778)に刻まれた和文章体の碑文である。
初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら
を掲げ、次に芭蕉・馬酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでしる。
馬酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものと思われる。
昭和62年3月 鴻巣市教育委員会




「武蔵用水」に架けられた「中宿橋」を渡ります。
(12:50)バス停「追分」。この先が「箕田追分」になります。

中山道と忍・館林道との分岐点。右手に「中山道」碑と解説板。

絵図「江戸時代の箕田追分周辺」。

・・・
朝、江戸を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほぼ1里(約4キロメートル)ほど行くと、箕田村の追分あたりに着き、ひと休みすることもあります。追分からは、北に向かって三ツ木・川面を経て忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。
鴻巣宿から熊谷宿までは4里6丁40間(約16キロメートル)の長い距離があり、途中の箕田・吹上・久下村の三ヶ所には立場と称せられる休憩所がありました。立場は立場茶屋ともいい宿場と宿場との間にあって、そこで旅人がワラジを買い替えたり、お茶を飲みダンゴを食べるなど、休息するところです。箕田の追分には立場があったので、旅人休息はもちろん、近村から寺社参詣などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの別れを惜しんだのです。
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「追分地蔵堂」。 「庚申塔」。


