街道筋に古い土蔵、家屋が残っている「桶川宿」です。


国登録有形文化財 島村家住宅
桁行6間、梁間3間の木造3階建ての土蔵で、江戸時代後期の天保7年(1836)の建築と伝えられています。島村家は中山道桶川宿の本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家で、土蔵の屋根の両端にある鬼瓦には当時の屋号の一時を取った「木」の字が刻まれています。
また、この土蔵の建築工事は、天保の飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くに人が救われたことから、「お助け蔵」と呼ばれたとの伝承も残されています。
現在は、黒漆喰壁がトタンで覆われていますが、建築当時の島村家(木嶋屋)の勢いを感じさせる堂々とした土蔵です。
平成14年9月 桶川市教育委員会

「島村茶舗」は嘉永7年(1854)創業、現在も営業中のお店。


矢部家住宅店蔵
現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかります。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴です。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われています。
中山道に面した土蔵造りの店蔵は、矢部家第六代当主の五三郎氏(安政4年~大正9年)が明治38年に建立しました。桁行5間、梁間3間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には川越の「亀屋」建築などに係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶が名を連ねています。
桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとなりましたが、往時の桶川宿の繁栄と賑わいをしのぶことのできる貴重な建造物のひとつです。


国登録有形文化財 小林家住宅主屋
小林家住宅主屋は、江戸時代末期頃に旅籠(宿屋)として建てられました。発見された棟札から、「子三月吉日」に建てたことがわかります。この「子」の年がいつかは不明ですが、文政11年(1828)、天保11年(1840)、嘉永5年(1852)のいずれかの「子」の年と考えられています。
その後の当主となった小林家は材木商を営み、それに伴い大きく改修されましたが、外環は当時の姿をとどめています。旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、2階は中藤か敷きになっており、旅籠当時の部屋割りの名残と思われます。
構造の要となっているのは、2間半(1間=約1.8m)の幅で2本建てられた大黒柱です。屋根を支える小屋組は和小屋構造といわれる伝統的なもので、太く丈夫な部材を使用しています。建物正面の2階には6間にわたって出窓を出し、格子戸をはめこんでいます。宿場町当時の旅籠のたたずまいを今に伝える貴重な建築物です。
平成25年3月 桶川市教育委員会

その先の右手に「桶川宿本陣」。



桶川宿府川家本陣は、埼玉県内の中山道筋では、唯一現存する本陣です。
本陣は、公家や大名、幕府の役人などが宿泊・休憩するため江戸時代に設置された宿です。一般の旅籠と違い、門と式台のある玄関の設置および畳が一段高くなった「上段の間」を持つことが、格式として認められていました。
また、宿場の政治の中心的機能も担い、その補佐役として脇本陣が置かれていました。
本陣の宿泊は身分の高さによって勅使・院使・宮門跡・公家・大名・旗本などの優先順位があり、宿泊客が多い場合には脇本陣がかわりに使われました。
桶川宿に本陣が置かれたのは、寛永年間の上半期と伝えられています。本陣職は代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、問屋名主役として宿場の運営にもあたっていました。脇本陣は内田家と武笠家がそれぞれ勤めました。府川家は、本陣職のほかに問屋名主役(町村長)、代官補佐や寄場組合大総代(地域警察署長・簡易裁判官)を代々勤めました。桶川宿本陣は、江戸時代を通して町村自治の役所になっていました。
桶川宿本陣は宿内の大火による被害をたびたび受けてきましたが、絵図面などから、寛政12年(1800)当時の建物の広さは199坪、さらに天保14年(1843)には207坪に拡大されていることが分かっています。
現存する本陣は、かつての座敷構えの一部にあたり、「上段の間」・「入側」・「次の間」と、それに付帯する「御湯殿」・「御用所」からなります。「上段の間」は8畳で、正面の右に床・左に違い棚がもうけられています。「入側」は上段の間をL字型にとりまいた畳敷き13畳で、外側にはすべて障子引き違いで雨戸がもうけられています。「次の間」は14畳の一室になっています。「御湯殿」・「御用所」は、文久元年(1861)の和宮親子内親王(皇女和宮)下向のときに改築されました。
当本陣は、天保14年(1843)尾張・紀州・水戸の御三家の日光参拝や文久元年11月13日の皇女和宮の宿泊のほか、明治11年(1878)の明治天皇御巡幸の際の「行在所」となりました。
平成27年3月 桶川市教育委員会
(13:40)「中山道宿場館」のすぐ先に「ポケットパーク」。
石柱があり、正面に「中山道 桶川宿」、左面に「左 上尾宿 三十四町」、右面に「右 鴻巣宿 一里三十町」と刻まれています。「桶川宿絵図」と「桶川宿はこんなところ」という説明板があります。ここで、小休止。


●どこに
桶川宿は、日本橋から10里余り、江戸から6番目の宿として開かれました。この距離は、現代のフルマラソンの距離とほぼ同じで、健脚であった江戸時代の人々のほぼ1日の行程にあたります。
●街の生い立ち
中山道は、徳川家康が天正18年(1590)に江戸に本拠を置いた後、五街道の一つとして整備が進められました。やがて、関ケ原の合戦を経て、江戸幕府による全国支配の確立の中で街道と伝馬制度が整えられ、三代将軍家光によって参勤交代の制度が確立した寛永12年(1635)ころには、ここ桶川宿もすでに成立していたと考えられます。
宿場の開設当初に近い寛永14年に58軒であった宿場の戸数は、紅花が取り引きされるようになった寛政12年(1800)には247軒に達し、桶川宿も「町」としての姿を示すようになったようです。
その後、桶川宿は、「中山道もの」といわれた麦や、紅花の集散地として栄え、幕末に近い天保年間(1840年ころ)には、家数347軒に達しています。中山道桶川宿は、明治に至り、明治18年(1885)の高崎線桶川駅の開業とともに、宿場としての役割を終えますが、以降、近代をとおして、埼玉県中央部における麦の集散地として、その繁栄は続きます。
●出来事 ―皇女和宮のお泊り―
桶川宿は、加賀百万石前田家をはじめとする参勤交代の大名を迎え、15代将軍徳川慶喜の父君である水戸烈公徳川斉昭もこの地に足跡を残しています。
文久元年(1861)には、近世中山道の最後を飾る大通行として知られる皇女和宮の江戸下向のときに、ここ桶川宿は、―行の宿泊と人馬の継ぎ立てに大きな役割をはたしています。11月13日、和宮を迎える桶川宿には、3万人を超える人々が行列の通行のために集められたと記録されています。
●中山道67次
東海道をはじめとする五街道の一つとして、江戸幕府によってその道筋が整えられた中山道。その道程は、近江国(滋賀県)草津宿で東海道から分かれ、守山宿から板橋宿までの67次の宿場を経て、江戸日本橋に至ります。また京までの草津宿と大津宿を加え木曽街道69次とも呼びならわされてもいました。
山岳地帯を通るこの道は、和田峠、碓氷峠などの難所をもちます。しかし、夏には涼しく、大きな川を渡ることもなかったため、多くの旅人に利用されました。
●中山道データ
草津宿~日本橋の距離/129里8町(約507Km)
桶川宿~日本橋の距離/10里14町(約41Km)
中山道・桶川宿は旧東海道では「戸塚宿」に相当しそうです。「戸塚宿」江戸・日本橋から10里半(約42㎞)で、「桶川宿」と同じように宿場町として繁盛していました。
しかし、「戸塚宿」。天保14年(1843)の記録で「人口2,906人、家数613軒、旅籠75軒、本陣2軒」となっています。規模の上では「桶川宿」は、「戸塚宿」より小規模のようです。
トイレの前に顕彰碑。


「滋味 みちよ」。
平成25年度協働推進提案事業の一環として、桶川地域文化研究会と協力して、豊橋市にあった顕彰碑を桶川市の中山道のポケットパーク脇に移設いたしました。
この顕彰碑は、辻村博士の姪・中野韶子(よしこ)様が、伯母である博士を深く敬愛して、博士の「生涯を懸けた仕事」が忘れ去られぬ事を願い、博士が教鞭をとったお茶の水女子大学、実践女子大学の教え子たちと諮り豊橋市のご自宅内に建立されたもので、石碑正面の「滋味」は博士が豊橋市の中野家を訪れた際に式紙へ揮毫されたため、中野韶子様はこの石碑を「式紙塚顕彰碑」と名付けました。
移設にあたって、ご親族をはじめ関係者が集まり、除幕式を行いました。(平成25 年11 月30 日・寿1丁目地内)
今後は、多くの市民の方に辻村みちよ博士について、知っていただけるよう、学校、観光協会のほか、観光ボランテイア、桶川地域文化研究会など市民の皆さんの協力のもと、辻村博士の情報を発信していきます。(以上、「桶川市」広報より)
辻村 みちよ(つじむら みちよ、1888年9月17日 - 1969年6月1日)さんは、日本の農学者で、日本初の女性農学博士となった。茶カテキンを初めて分離するなど、緑茶の化学成分に関する研究で知られ、女性科学者のパイオニア的存在。
「女郎買い地蔵」で有名な「大雲寺」を左手に見て、進むと歩道橋にくくりつけられた「一里塚」跡解説板。
桶川の宿に飯盛女(めしもりおんな)が大勢いて、女色に溺れる男たちを飯盛旅籠に引き入れていた。そのような町で、土地のお地蔵さまが女を買いに出掛けているらしいとの噂が立った。 それを耳にした寺の住職は困り果てたが一計を案じ、件(くだん)の地蔵の背に鎹(かすがい)を打ち付け、鎖で縛って動けなくしてしまったとのことである。さても不思議な話ではあるが、実のところは、一人の飯盛女に熱を上げ、通い詰めた若い僧にまつわる小さな事件の顛末(てんまつ)であったらしい。坊主頭を布で隠して人目を忍ぶ様子のこの若者を怪しんでいたある人が、その後をつけてみたところ、最後に大雲寺の中へ帰っていったというのである。このことを知らされた住職は、必ず見つけ出して仕置きすると約束をした。すると、次の日になって、鎹と鎖で動きを封じられたお地蔵さまが立っていたのである。 住職は煩悩多き若い僧に、その罪を地蔵菩薩に被っていただくゆえ、以後は心を入れ替えて精進するよう諭し、一件を落着させたのに違いない。地蔵の背には、今も鎹が残っている。
(以上、「Wikipedia」参照)

一里塚は江戸日本橋を起点として、1里(約4㎞)ごとに塚を築き、旅の道しるべとしたものです。
桶川宿の一里塚は、この付近の中山道の両側にあり、塚の上には杉が植えられ、その根元には石の妙見菩薩が祀られていました。
この一里塚は明治9年(1876年)に取り壊されました。
平成21年12月 桶川市教育委員会
江戸・日本橋から10里目。


「旧跡 木戸址」。「上の木戸址 京方の宿場の出入り口」にあたり、朝夕定時に開閉されました。