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Channel: おやじのつぶやき
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志村一里塚からさいたま副都心駅まで。その4。(旧中山道をゆく。第2日目。)

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 しだいに「浦和」宿(浦和駅西口)の繁華街に近づいていきます。人通りも多くなってきました。しばらく行くと、右手に古社・「調(つき)神社」境内の杜。「調」は律令時代の「租・庸・調」といわれた貢ぎ物のことです。相当古いいわれのある神社であることを感じます。

 社名を調(つき)神社と云い、地元では「つきのみや」と愛称されています。鳥居のない神社として有名で、狛犬ではなく兎が置かれているのも全国的に珍しいものです。
 「調宮縁起」によると、今からおよそ2,000年前の第10代崇神天皇の勅命により創建。伊勢神宮へ納める貢(調)物(みつぎもの)の初穂を納めた倉庫群の中に造営されたため、貢物搬出入の妨げになる鳥居がないと伝えられています。確かな文献では、平安時代中期の延喜5年(905)に醍醐天皇が編纂を命じた法典である「延喜式神名帳」に、武藏國四十四座のうちの一社と記載されています。
 また、調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、中世の月待信仰(月のもつ神秘に畏敬をなし、月の出を待って祈る信仰)の広がりと結びつき、江戸時代には月読社とも呼ばれていたようです。今も兎の石像や社殿に飾られた兎の彫物、兎の絵馬など所々に兎が配されています。
 南北朝時代の延元2年(1337)に、足利尊氏が一色範行に命じて荒廃した社殿を復興したと伝えられています。その後戦国時代末期の天正18年(1590)小田原兵乱で、再び焼失しましたが、徳川家康の関東入部後から江戸時代初期にかけて次第に再建されたようです。現在の社殿は、安政6年(1859)竣工で、総欅の権現造りです。一代前の本殿も、境内末社の稲荷社本殿として現存しており、こちらも総欅で一間社流造りという建築様式です。
 神域は約1万2千平方メートル、鬱蒼と生い茂った樹齢数百年のイチョウやケヤキ、ムクなどが見事な鎮守の杜を形成しており、江戸末期の建築にかかる権現造の社殿が、悠久の時を超えて静かに建っています。

(以上、HP参照)

    

何軒か古くて立派な建物が残っている。

まもなく「中山道 浦和宿」の石柱。

現在は、ビルが建ち並ぶ繁華街。

 かつての宿場の中心はもう少し北にあったようです。人通りの激しい、賑やか通りを進み、「玉蔵院」の門前を通ります。

その先に「浦和宿」の石柱。

 そこを過ぎて、「仲町」の交差点の先を左に入った「仲町公園」。そこに「本陣」跡がありました。

ビルの間のこじんまりとした空間。

    

さいたま市指定史跡 浦和宿本陣跡
 中山道は江戸と京都を135余りで結ぶ街道で、木曽の山間部を通るため、「木曾街道」「岐蘇路(きそじ)」などともいわれました。
 中山道の宿場は、本来板橋宿(東京都)から守山宿(滋賀県)までの67次ですが、東海道と宿場を共有している草津・大津宿を加えて69次とするのが一般的です。浦和宿は日本橋を出て3番目の宿駅になります。
 江戸時代後期の浦和宿には本陣1、脇本陣3、旅籠15があり、このあたり一帯が本陣の跡になります。本陣は大名などの宿泊や休憩にあてられる家で、浦和宿では星野権兵衛家が代々務めていました。
 敷地内には222坪(732.6㎡)の母屋や表門、高札場、問屋場などがありましたが、明治時代になってすべての建物が取り払われ、当時の姿をしのぶものは大熊家表門(市内緑区大間木に移築)のみになってしまいました。
 なお、明治元年及び3年の明治天皇による大宮氷川神社行幸の際して、ここが行在所となりました。

 平成19年3月22日    さいたま市教育委員会

 解説板の左には、大きな「明治天皇行在所址」碑。

 少し行くと、左手奥にある「常盤公園」への通りには「市場通り」との碑。その脇に野菜を売る農婦のブロンズ像があります。

    
                                      「常盤公園」側にも一体。

 「浦和宿」では「二」と「七」の日には市場が開かれ賑わっていました。すぐ先の「慈恵稲荷」の祠の前にその碑が建っています。

    

浦和宿二・七市場跡
 この場所では、中世から近世、近代にかけて、毎月6回、二と七のつく日に市が開かれ、農産物や布製品などが陳列されました。これが「二・七の市」です。天正18年(1590)に出された市に関する文書があるので、市の成立はこれより前ということがわかります。

 たまたま神社の参道の修復工事をしていた方が工事の手を休めて、スコップなどをどけてくれて撮影に協力してくれました。
 そしてぽつりと、「私が子どもの頃から市場が立って賑やかだった。今はもうなくなっちゃたけれど。駅が宿場の中心地から離れて、今は浦和駅の方が賑やかになった。・・・」と。
 本陣跡も賑やかな町並みからは人通りも少なくなったところにありました。かつてはこのあたりが宿場の中心だったのでしょうか。
 

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