相変わらず華やかで人通りの多い(といっても、外国人が目立ちますが)「銀座通り」を南に進みます。
「新橋」。
その昔、「銀座」は4丁目までしたが、今は8丁目まで。その銀座を過ぎて、ガードをくぐると港区に。かつての「新橋」の親柱が一本残されています。「京橋」同様、「新橋」も川は埋め立てられ、「首都高」が頭上を通っています。
![]()
![]()
![]()
![]()
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右下一帯は「新橋停車場」(現在の「汐留」)。
今でも、「土橋」「難波」「蓬莱」などの橋名は交差点名として残っています。
この付近は中国からの観光客のバス乗降場らしく、道ばたには、現中国の体制を批判する(?)ビラがべたべた掲示されています。
![]()
その先には「銀座の柳」碑。
「楽譜」付。
西条八十作
中山晋平曲
植えてうれしい銀座の柳
江戸の名残りのうすみどり
吹けよ春風紅傘日傘
けふもくるくる大通り
ついでに、二番以降も。
2 巴里のマロニエ 銀座の柳
西と東の 恋の宿
誰を待つやら あの子の肩を
撫でて やさしい 糸柳
3 恋はくれない 柳は緑
染める都の 春もよう
銀座うれしや 柳が招く
まねく昭和の 人通り
どうも「東京行進曲」の「昔なつかし銀座の柳・・・」の歌詞の方が印象深い。メロディーも「youtube」で視聴しましたが、「東京行進曲」とまったく違うものです。
ここに植えられている柳は二代目だそうです。![]()
新橋の交差点を左折すると、「旧新橋停車場」へ。![]()
![]()
旧新橋停車場 Old Shimbashi Station
この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置にできるだけ忠実に再現したものです。
新橋停車場駅舎は、アメリカ人 R・P・プリジェンスの設計により、 1871(明治4)年5月に着工、 同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。
1914(大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。
文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。
1986(昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立ち埋蔵文化財発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の地を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。
![]()
鉄道遺跡としてはかなり興味深いものが展示されているようですが、その報告は次回以降にして東海道(国道15号線)を品川に向かって急ぎます。
JRガード下から振り返る。![]()
品川方向を望む。![]()
大門交差点から「世界貿易センタービル」を望む。
しばらく進むとガード。その下が「金杉橋」。頭上は「首都高」。ここは下に川が流れています。「古川」(上流が「渋谷川」)。
![]()
この辺りが日本橋から4㎞ポスト。![]()
ということはこの辺りに東海道の「一里塚」があったはずですが、それを示すものはありません。
![]()
ただ「Wikipedia」などによると、江戸中期にはすでになかったらしく、当初からなかった可能性も高いようです。日本橋から2里目となる「一里塚」も江戸中期にはなかった、とも記されています。
「品川(まで)3㎞」の表示。
旧海岸通りとの交差点。左手にJR線とモノレール線。![]()
しばらく進み、「国道15号線」と「日比谷通り」の合流点にある「三菱自動車工業」本社ビルのところには、
「江戸城開城 西郷南洲・勝海舟會見之地」碑。
田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内」
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情話で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。
「日比谷通り」。
「札の辻」歩道橋から来た道を望む。![]()
しばらく進むと、左手にこんもりとした木々に覆われた石垣があります。これが「高輪大木戸跡」。歩道もここは迂回します。
がっしりした石積み。
![]()
史跡 高輪大木戸跡
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。
江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
天保2年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。
四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
平成5年3月31日 東京都教育委員会
全景。
しばらく行くと、右手に「泉岳寺」へ向かう坂道。
歩道を渡って西側に移ると、「高輪海岸石垣石」の解説板。
高輪海岸の石垣石
ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣にも意いられたものです。
平成7年(1995)、高輪2丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。 石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島中編で採石された安山岩が用いられました。
発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。・・・
平成13年(2001)5月 港区教育委員会
右に上がる坂が、
![]()
「桂坂」。
むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。
この坂は、以前、紹介済み。
「日本橋から7㎞」ポスト。まもなく「品川宿」。![]()
品川駅を過ぎて振り返る。右手に見えるのは「京急線」。![]()
京急線の踏切を渡った、向こうの道が旧東海道・品川宿。
![]()
←が旧東海道の道筋。
![]()
品川宿入口付近の広場には、東海道53次の宿場名が刻まれた石柱が並んでいます。
![]()
![]()
![]()
![]()
1880年代のようす。東海道は東京湾沿いに進みます。中央斜めの直線は新橋~横浜間の鉄道線路。停車場が現在の品川駅付近にあります。
これで何とか「日本橋」から46番目の「三重・亀山宿」までつながりました。

その昔、「銀座」は4丁目までしたが、今は8丁目まで。その銀座を過ぎて、ガードをくぐると港区に。かつての「新橋」の親柱が一本残されています。「京橋」同様、「新橋」も川は埋め立てられ、「首都高」が頭上を通っています。




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右下一帯は「新橋停車場」(現在の「汐留」)。
今でも、「土橋」「難波」「蓬莱」などの橋名は交差点名として残っています。
この付近は中国からの観光客のバス乗降場らしく、道ばたには、現中国の体制を批判する(?)ビラがべたべた掲示されています。

その先には「銀座の柳」碑。

西条八十作
中山晋平曲
植えてうれしい銀座の柳
江戸の名残りのうすみどり
吹けよ春風紅傘日傘
けふもくるくる大通り
ついでに、二番以降も。
2 巴里のマロニエ 銀座の柳
西と東の 恋の宿
誰を待つやら あの子の肩を
撫でて やさしい 糸柳
3 恋はくれない 柳は緑
染める都の 春もよう
銀座うれしや 柳が招く
まねく昭和の 人通り
どうも「東京行進曲」の「昔なつかし銀座の柳・・・」の歌詞の方が印象深い。メロディーも「youtube」で視聴しましたが、「東京行進曲」とまったく違うものです。
ここに植えられている柳は二代目だそうです。

新橋の交差点を左折すると、「旧新橋停車場」へ。



旧新橋停車場 Old Shimbashi Station
この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置にできるだけ忠実に再現したものです。
新橋停車場駅舎は、アメリカ人 R・P・プリジェンスの設計により、 1871(明治4)年5月に着工、 同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。
1914(大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。
文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。
1986(昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立ち埋蔵文化財発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の地を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。

鉄道遺跡としてはかなり興味深いものが展示されているようですが、その報告は次回以降にして東海道(国道15号線)を品川に向かって急ぎます。
JRガード下から振り返る。

品川方向を望む。


しばらく進むとガード。その下が「金杉橋」。頭上は「首都高」。ここは下に川が流れています。「古川」(上流が「渋谷川」)。

この辺りが日本橋から4㎞ポスト。

ということはこの辺りに東海道の「一里塚」があったはずですが、それを示すものはありません。

ただ「Wikipedia」などによると、江戸中期にはすでになかったらしく、当初からなかった可能性も高いようです。日本橋から2里目となる「一里塚」も江戸中期にはなかった、とも記されています。

旧海岸通りとの交差点。左手にJR線とモノレール線。

しばらく進み、「国道15号線」と「日比谷通り」の合流点にある「三菱自動車工業」本社ビルのところには、

田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内」
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情話で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

「札の辻」歩道橋から来た道を望む。

しばらく進むと、左手にこんもりとした木々に覆われた石垣があります。これが「高輪大木戸跡」。歩道もここは迂回します。



史跡 高輪大木戸跡
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。
江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
天保2年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。
四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
平成5年3月31日 東京都教育委員会

しばらく行くと、右手に「泉岳寺」へ向かう坂道。

歩道を渡って西側に移ると、「高輪海岸石垣石」の解説板。


高輪海岸の石垣石
ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣にも意いられたものです。
平成7年(1995)、高輪2丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。 石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島中編で採石された安山岩が用いられました。
発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。・・・
平成13年(2001)5月 港区教育委員会
右に上がる坂が、


「桂坂」。
むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。
この坂は、以前、紹介済み。
「日本橋から7㎞」ポスト。まもなく「品川宿」。

品川駅を過ぎて振り返る。右手に見えるのは「京急線」。

京急線の踏切を渡った、向こうの道が旧東海道・品川宿。





品川宿入口付近の広場には、東海道53次の宿場名が刻まれた石柱が並んでいます。




1880年代のようす。東海道は東京湾沿いに進みます。中央斜めの直線は新橋~横浜間の鉄道線路。停車場が現在の品川駅付近にあります。
これで何とか「日本橋」から46番目の「三重・亀山宿」までつながりました。