「晴耕雨読」もままならない。最近は、やっと梅雨らしい空模様。変化の激しすぎるのが気になります。さらに、蒸し暑さも加わって久々に寝苦しい夜。そして、こういう日中はときにゆっくりと読書でも・・・。といっても今日は暑すぎ! ついついクーラーの効く部屋で・・・。 バルト著作集・全10巻より「第7巻」。
この作品は、『表徴の帝国』宗左近訳(「ちくま学芸文庫」1996年)が先行する既訳としてある。
「舟木一夫」。能面のような顔立ちと口元の微妙さに何を感じるか。。
江戸の町。中央に江戸城。今も変わらぬ中央に空虚で広大な存在を中心にした東京の「地図」から何を読み取るか。
写真が多く載せられ、そのキャプションも端的。「日本文化」論として読むと、日本人から見ても、ある意味、初めて接したことによってなされた、いわばありきたりの異国文化(東洋文化)の紹介、ということにもなりかねず、そこを批判することもできる。
しかし、バルトには文化論というくくりではなく、日本でのさまざまな出会い(とりわけ風物とそれを切り取った写真など)をもとに、「エクリチュール」論をより具体的に、思想的に深化・展開している。
そのきっかけは「俳句」との遭遇。わずか17字で世界を(事象を)切り、体験化、過去化する表現する技法への深い関心と興味から、自らへの表現方法への(例えば「わたし」という主語から始まる語りかけ)転換を意識するようになる。バルト自身の、俳句の魅力へかなり惹かれた様子が見られる。
西洋の伝統的な散文詩と日本の定型詩との表現上の相違。シニフィアン、シニフィエ。二項対立をもとに、ソシュールの言語論の依拠しつつそれぞれの内実を明かしていきながら、言語論にとどまらない実践的論考によっては読者を巻き込んでいく。
パチンコ店内、学生運動、子供の顔(眼)、古びた能面・・・、多彩な写真が示す(しえない)世界を読み取るというバルトの「快楽」の世界。
テクストは、写真を「解説」しているのではない。写真はテクストを「図解」しているのではない。わたしにとっては、それぞれの写真から視覚的な揺らぎのようなものが始まったというだけのことであり、おそらくその揺らぎは、禅が悟りとよぶあの「意味の喪失」にも似ているだろう。テクストと写真は交錯しながら、身体、顔、エクリチュールといったシニフィアンの循環や交換を確かなものとしてゆき、そこに記号の後退を読み取ろうとしているのである。
(冒頭の二枚の写真のキャプションは、筆者のものではなくこちらが勝手につけたもの。)
この作品は、『表徴の帝国』宗左近訳(「ちくま学芸文庫」1996年)が先行する既訳としてある。


写真が多く載せられ、そのキャプションも端的。「日本文化」論として読むと、日本人から見ても、ある意味、初めて接したことによってなされた、いわばありきたりの異国文化(東洋文化)の紹介、ということにもなりかねず、そこを批判することもできる。
しかし、バルトには文化論というくくりではなく、日本でのさまざまな出会い(とりわけ風物とそれを切り取った写真など)をもとに、「エクリチュール」論をより具体的に、思想的に深化・展開している。
そのきっかけは「俳句」との遭遇。わずか17字で世界を(事象を)切り、体験化、過去化する表現する技法への深い関心と興味から、自らへの表現方法への(例えば「わたし」という主語から始まる語りかけ)転換を意識するようになる。バルト自身の、俳句の魅力へかなり惹かれた様子が見られる。
西洋の伝統的な散文詩と日本の定型詩との表現上の相違。シニフィアン、シニフィエ。二項対立をもとに、ソシュールの言語論の依拠しつつそれぞれの内実を明かしていきながら、言語論にとどまらない実践的論考によっては読者を巻き込んでいく。
パチンコ店内、学生運動、子供の顔(眼)、古びた能面・・・、多彩な写真が示す(しえない)世界を読み取るというバルトの「快楽」の世界。
テクストは、写真を「解説」しているのではない。写真はテクストを「図解」しているのではない。わたしにとっては、それぞれの写真から視覚的な揺らぎのようなものが始まったというだけのことであり、おそらくその揺らぎは、禅が悟りとよぶあの「意味の喪失」にも似ているだろう。テクストと写真は交錯しながら、身体、顔、エクリチュールといったシニフィアンの循環や交換を確かなものとしてゆき、そこに記号の後退を読み取ろうとしているのである。
(冒頭の二枚の写真のキャプションは、筆者のものではなくこちらが勝手につけたもの。)