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Channel: おやじのつぶやき
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有松一里塚。鳴海宿。曲尺手(かねんて)。・・・(名鉄「豊明」駅~名城線「伝馬町」駅。その3。)

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二つ目の山車の倉庫。「唐子車山車庫」。

 これまでの道中では、一番宿場町らしい町並みに出会いました。

    

名古屋市有松町並み保存地区

 有松は、旧東海道と知立の宿の間に慶長13年(1608)に、間の宿として開かれた。尾張藩の症例により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞りは有松名産として、全国にその名が知られた。有松は絞りと共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起こり全村ほとんどが焼失した。
 村の復興に当たり、建物は従来の茅葺きを瓦葺きにし、壁は塗り籠め造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。
 商家の建物は、中2階建て切り妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞りの店頭販売の為に大きく開かれていたが、今は格子がついている。
 名古屋市は有松を町並み保存地区に指定し伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並み調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。

 平成7年3月31日  名古屋市教育委員会


 東から西まで約800㍍、徒歩で約10分の範囲。北は名鉄線、南は国道1号線に挟まれた区域。周囲は、(新興)住宅地となっています。現代と江戸が微妙に交差しつつ、江戸時代の雰囲気をそのまま残しています。

    

中舛竹田荘
 中舛(なかます)竹田家は、旧東海道の歴史的な町並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田書屋九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられています。
 老朽化が進み建物と町並みの保存が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ、所有者である竹田様と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で、「有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ外観は江戸期の様式を再現しました。

   平成22年10月26日竣工

 このような取り組みもなされています。

注:左の写真で道路上のマンホールの文様はミズスマシ? 有松絞りでこのような文様があるのでしょう、なかなか粋な計らいです。


 まだまだ見所が多いところですが、そろそろ西のはずれにさしかかります。

       
町並みの奥に見えるのは、「名古屋第二環状自動車道」の橋脚。            振り返って望む。

三つ目の山車の倉庫。神功皇后山車庫。

 有松には、『布袋車(ほていしゃ)』『唐子車(からこしゃ)』『神功皇后車(じんぐうこうごうしゃ)』の3輌の山車があります。これらは毎年10月第1日曜日に開催される「有松祭り(天満社祭礼)」に曳きだされます。そして、最近では6月に行われる「絞りまつり」にも展示されています。また、この3輌の山車は名古屋市が「有形民俗文化財」として指定しています。
 旧東海道の面影を残す町並みを3輌の山車が練り歩きます。山車のすれ違いや方向転換の際の迫力や、山車の上でくりひろげられるからくり人形の演技はこのまつりのみどころとなっています。
                   
布袋車   唐子車  神功皇后車

有松絞り山車まつり
 有松絞り山車まつり 毎年10月第1日曜日に行われる秋の大祭。東海道の町並みを背景に練り歩き、山車の上でくりひろげられる「からくり人形」の実演は、このまつりの見所です。

HPより。


右手には、梅屋鶴寿歌碑。

「あり松の 
  柳しぼりの 
    見世にこそ 
 しはしと人の
  立ちとまりけれ
             梅屋鶴寿
梅屋鶴壽
 幕末の狂歌師。享和元年(1801)江戸神田佐久間町に生まれる。姓は諸田、通称は初め佐吉、後、亦兵衛と称した。秣(まぐさ:馬や牛の飼料とする草のこと。馬草とも書く)をあきない、尾州家の御用を勤める。
 若い頃から狂歌を得意とし、始めは長屋姉子、又は松枝鶴壽とも号したが、後に長谷川町に待合を茶亭、梅の屋を出し梅屋鶴壽と言うようになった。狂歌人物誌に「花街戯場のことをよくうがちて季吟おほし本町側糸巻連の魁首にして其の名度四方に鳴る。老後は秣翁とも言うようになった。
 元治元年(1864)正月12日享年63歳で亡くなる。

 この人は、歌川(安藤)広重とは同年の生まれで、同じ頃に活動した浮世絵師「歌川国芳」のパトロンだったそうです。

国芳の作品はユニークなものが多い。(「Wikipedia」より)

 この歌碑を過ぎると、突然、現代に戻ります。頭上には、「名古屋第二環状自動車道」の高架道路。その橋脚の下には、「有松一里塚跡」碑。 
                               

    

有松一里塚

 一里塚は、慶長9年(1604年)、幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を基点に、道程一里(約4㎞)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。
 この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり、無くなりました。しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、平成24年、当地に復元されました。

「名古屋第二環状線自動車道」。

高速の下で、名鉄線の踏切を越えます。

 道なりに進み、途中にあったスーパーで昼飯のためのおにぎりなど買って小休止。その先の交差点のところに大きな「常夜燈」。

    

平部町常夜灯

 東海道品川より40番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。
 表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。
 文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除けなどを秋葉社(火防神)に祈願した。
 大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時をしのぶことができる。

 名古屋市教育委員会

ここが鳴海宿の入口になります。

電柱には解説板がくくりつけられている。

鳴海宿概要

 町並みは平部町東端の秋葉常夜灯から始まり、平部町から中島町までほぼ直線に東海道が走り、中島橋で扇川を渡ると相原町に入る。
 相原町と本町の境あたりに曲尺手(かねんて)があり、本町と根古屋町の境あたりに高札場が設置されている。根古屋町、作町まではほぼ東南から西北にまっすぐ東海道は通っている。相原町から作町は、北側に鳴海城(根古屋城ともいう)の丘陵地帯、南側に扇川があり、そのはさまれた細長い部分に宿場が発達している。平部町から作町の距離15町18間、作町からは直角に曲がり、山花町、花井町、北浦町、丹下町と山の西縁に家屋が並んでいる。山花町から丹下町まで距離1町半、宿場は表方と裏方に分けられ、表方は平部町より作町まで6町、裏方は山花町から丹下町までの4町を指す。 
 組頭は十町と枝郷の古鳴海、前之庵から1名ずつ計12名で運営されていた。
 宿場北の丘陵地帯の麓、山の手辺りは寺町で、(略:11の寺院名)・・・
 本陣は元和7年(1621)ごろ設置され、寛永10年(1633)ごろ根古屋町に移り、江戸時代末ごろまで代々西尾伊右衛門家が勤めていた。
 後に西尾家を引き継ぎ下郷次郎八本家の11代次郎八が勤め、東店家より本家の養子となった良之介が本陣職を継いで明治維新まで続いている。
 旅籠は本町、根古屋、作町に集中しており、名産としては鳴海絞りが名高い。

現在のようす。

    
 東海道をイメージした石碑。                  其の辺りから来た道を振り返る。

「扇川」を渡り、相原町に入ります。古い町並みが続きます。

 相原町と本町との境目付近に「曲尺手」。

     


 1880年頃のようす(「今昔マップ」より)。←が常夜灯の位置。○が「曲尺手」。道筋は現在と変化がない。宿場の西側、南側は水田地帯。


 現在のようす(「同」より9。「城跡公園」以外は宅地化され、かつての丘陵地帯、水田地帯との区別も明らかではないが、色合いの違いで高低が見て取れる。



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