宿場と宿場の間の街道は、今では(昔も? )ひたすら歩く場合が多い。今回の「浜名旧街道」もしばらく単調な道筋。しかし、松並木が続き、周囲も視界が広がるなど、次の一里塚まで約1時間の道のりもそれほど苦ではありません。

「新居宿加宿」とあるので、このあたりも宿場町が形成されていたのでしょう。「国道1号線」をしばらく進み、「橋本西交差点」を右に入ります。

民家の前の植え込みにありました。表札に「疋田」。新居宿本陣の経営者の名前でもありました。このあたりには「疋田」姓が多いようです。

ここからが「浜名旧街道」。道の南側に松並木がつづきます。
この「旧東海道」、大正時代からは「国道1号線」として重要な道路として存在していました。しかし、江戸時代からあった松並木は、昭和50年代に発生した全国的な松くい虫の被害によって、この街道の松も全滅しました。そこで、昔の面影を再現すべく昭和62年に植栽・復元したものだそうです。

昭和50年代、「松食い虫」の被害は大きく、この地域でも4万本以上の松が枯れてしまったとか。全国でも、有名な古木などが次々と被害に遭って枯れたしまったことが大きなニュースにもなりました。
今も東海道を歩いていると、赤茶けた松の姿が時々見かけられます。伐採して他の松への被害を最小限にとどめるしか方法はないようです。




振り返って、松並木を望む。 左手には、田畑が広がる。
多くの車が通行する、現在の「国道1号線」と比べて、車の通りも少なく、自然なカーブの中で、のんびりと田園風景を楽しみながら歩くことができます。
大きな石碑。 藤原為家と阿佛尼の歌碑。


風わたる濱名の橋の夕しほに
さされてのぼる あまの釣舟 前大納言為家
わがためや浪もたかしの浜ならん
袖の湊の 浪はやすまで 阿佛尼
藤原為家(1198~1275)
鎌倉中期の歌人で定家の二男、初め朝廷に仕え、父の没後家系と学統を継いだ。承久の乱後、「千首和歌」で歌人として認められ、「続後撰和歌集」 「続古今和歌集」の勅撰集を始め、多くの私家集を編んだ。歌風は温和、平淡。この歌は「続古今和歌集」巻第十九に収められている。
阿佛尼(?~1283)
朝廷に仕えた後、藤原為家の継室となり、夫の没後出家し、鎌倉下向の折、「十六夜日記」をなした。この歌は同日記にあり、当時のこの辺りを豊かな感性でとらえている。
よって為家・阿佛尼の比翼の歌碑とした。
新居町教育委員会

松並木の先に立場跡。

立場跡
旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋を立場といって、江戸時代、東海道の各所に設けられていた。
この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家がつとめてきた。
立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯歌を詠んだという話しが残っている。
平成22年3月 湖西市教育委員会


現在の町並み。
右手に「秋葉山の常夜燈」と祠。


明治元年(1868)9月20日岩倉具視等を従え、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が、10月1日に豊橋から新居へ向かう際に休憩した所。
明治天皇はその夜、新居宿飯田本陣に宿泊、10月13日に東京に到着した。
「白須賀宿」の案内図。

「白須賀宿(しらすかしゅく、しらすかじゅく)」は、東海道五十三次の32番目の宿場。現在の静岡県湖西市白須賀。遠江国最西端で、静岡県最西端の宿場町でもあります。
元々は海岸近くにありましたが、宝永4年(1707年)に発生した宝永地震と津波により大きな被害を受けたため、その後「潮見坂」の上の高台に移されました。天保年間の記録では旅籠が27軒と、宿場としては中規模です。
宿場が廃止された後の1889年に白須賀町が成立、1955年に湖西町(現在の湖西市)に編入されました。
明治の東海道本線敷設では、東の新居宿(静岡県湖西市新居町)から白須賀宿へ至る潮見坂の勾配が蒸気機関車運転の障害となり、浜名湖沿岸の鷲津経由となったため、現在も当時の家並みや面影を残しています。
しばらく進むと右手の民家の前に、「一里塚」と「高札場」跡の石碑と説明板。ここが日本橋から70里目。


一里塚跡
一里塚は、徳川家康が最初に手掛けた東海道の整備事業のときに設けられたものです。慶長9年(1604)から江戸日本橋を基点に一里(約4キロメートル)ごとにつくられました。
塚は旅人の目印のためにつくられたもので、街道の両側に高さ二メートルほどの盛土をし、榎・しい・松などが植えられました。
この辺りでは、一里塚のことを一里山と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。
高札建場跡
幕府・大名が、法令や禁令・通達を板札に墨書した高札を掲示した場所を高札建場または、単に建場といい、宿場・渡船場・問屋場など、人の目につきやすい場所に設置されました。
白須賀宿には、ここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されたほか、加宿である境宿村にも一箇所、設置されていました。

いよいよ「潮見坂」に向かいます。

急坂をしばらく上って振り返ると、家並みの向こうに海が見えます。海(潮)が見えるから、「潮見坂」。ここからは遠州灘だけではなく、富士山も見えたそうです。


現在のようす。 大正期のようす(「知足美術館」HPより)。
けっこう急な上り坂。




「潮見坂」説明板。
潮見坂
潮見坂は、街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。
西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれます。
浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いています。
坂を登りきると左に無料休憩所、「おんやど白須賀」があります。「おんやど白須賀」は東海道宿駅開設400年を記念して
設置された施設で、史跡のパネルなどが展示されています。ここで、お茶を飲みながら昼食休憩。



さて、「白須賀宿」へ向かって出発です。潮見坂上には、いくつか石碑が立っています。
左手には潮見坂公園跡の碑。

潮見坂公園跡
明治天皇が江戸へ行幸する途中に休まれた潮見坂上は、かって織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、徳川家康が茶亭を新築し、信長をもてなした所でもあります。
大正13年4月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられました。
現在は、公園敷地に中学校が建てられていて、当時の面影をみることができませんが、明治天皇御聖跡の碑だけは残されています。


「明治天皇御聖跡記念碑」。
潮見坂上の石碑群
潮見坂上の石碑群
ここ潮見坂上には、明治天皇が明治元年10月1日にこの地で休憩されたのを記念に建てられた明治天皇御聖跡碑をはじめ、白須賀出身の国学者夏目甕麿(みかまろ)と息子の加納諸平(もろひら)、正直者の藤屋五平、義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が建てられています。
また、ここから旧道を東へ百メートルほどいった所に元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の文化振興の尽くした石川榮五郎らの石碑も建てられています。
眺望が開けて、遠州灘が遠くに。

安藤広重の絵もこの辺りからの眺望でしょうか?

東海道五十三次之内 白須賀 汐見阪図 / 歌川 広重
関西から下る人は汐見阪で初めて海を見るという。汐見阪を大名行列が通っている。画面の左右にバランスよく坂や松が描かれている。その間に藍をぼかした遠州灘を描くという見事な構図である。
(「知足美術館」HPより)

宿場への道筋。
