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Channel: おやじのつぶやき
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読書「エッグ/MIWA 21世紀から20世紀を覗く戯曲集」(野田秀樹)新潮社

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 最近でもなく、ずっと以前から野田さんの芝居は高すぎて、人気がありすぎて(むしろ前者の理由でだが)近づきがたいものに。彼なりの計算があるのだろうけれど、はたしていかがなものか? キャスティングも含めて、どうも・・・。
 金持ちのひとときの慰めごとになってしまったら、せっかくの野田さんの意図も訴えも所詮、体制内の「世迷い言」、許容範囲になるだけ。しかし、最初から終わりまで、存分に言葉と肉体との関係性(自他)の魅力・魔力をちりばめながら、一気呵成に迫る、壮大なドラマは相変わらず野田さんらしい。
 細菌兵器開発のために「マルタ」を生体実験にしてきた、敗戦前後には一切の施設、資料を隠蔽・壊滅させ、一方で、アメリカ軍(GHQ)との取り引きの結果、一切、世に出なくなったあの「731部隊」を取り上げる、という大胆不敵な劇。
 それに「東京」オリンピック(1度実施、さらにまた計画されている「東京」オリンピック。こうして都合3回目。そのうち1回は中止になった)特に幻となった戦中のオリンピック、さらに唯一開催された東京オリンピックへの執拗な迫り方は、ただごとではない。そのこだわりの象徴はあの「悲劇の」マラソン・ランナーも登場させながらの「エッグ」。そして対戦国としての「中国」。一歩間違えば、危うい言動を軽やかに紡いでみせるのは、さすが。

 が、しかし。

 今のアベたちが言論弾圧を当然のごとくに行っていても何の抗議も発言もないままに、自粛していく日本国。そうした流れに「ごまめの歯ぎしり」すら出来得ない庶民にはお先真っ暗のご時世。
 万が一今の天皇の身に何か起こったら、かつての昭和天皇のときのようにまたしても(むしろそれ以上に)なるだろう。そうして国民に華やかな歌舞音曲を禁じる一方で、次期天皇候補の嫁さんのようす、また、皇太子自らの発言などに快く思っていない連中が騒ぎ出すに違いない。今の国の行く末は、気にくわなければ、天皇の首をすげ替えるのさえ、いとも簡単に行うだろう、というあらぬ危機感を持っている今日この頃。それほど遠い時期では無いと、ふと、思ってしまう。

 そういう焦りとあきらめの中で、「エッグ」を「読書」していると、たしかに心穏やかではなくなってくる。このままなし崩しのままの日本で(つまり、戦前回帰へひたすら「右向け、右」と号令をかけつつある)いいいのか、と。そんな斜に構えた人達はもうお呼びではないのかも知れない。

 TVで活躍している俳優・タレント(観劇すれば、たしかに出演する俳優達は野田さんの的確な指示もあってすばらしい才能の持ち主であることは実感できる、と思うが)が出演しているから、ではまったくもったいない感じがする。

 かつて無名ではあったがしゃかりににひたすら「舞台」に打ち込んでいた、大勢の若者達の「群像劇」はもう無いものねだりになってしまったか!



 そんなとき、『平田オリザ〈静かな演劇〉という方法』(松本和也)彩流社刊 を手にした。平田さんと「青年団」の芝居は、「ソウル市民」など、かつて、何本か観たことがある。また、平田さんが開いた「ワークショップ」に知人が参加し、その関係で何回か見学したことがあった。そんなことを思い出した。

 まさに開幕前(いや、すでに幕は上がっている)からの舞台の動き、それからいつしか舞台が始まる(いや始まっている)、・・・。かなりの緊張感を客席にもたらせながら、進んでいくのは、まさにリアリズムそのもの。「静か」な中に、舞台で「演じられる」人々の会話・仕草がじわじわと観ている側それぞれに与えるインパクトは様々。そこにこの方の作劇術があるのだろう(伏線を張り巡らせての)。小道具の一つひとつが、日常性の枠の中にありつつ、奥深い存在意味を持たせていく。

 余談だが、最近、少年時代まで満州で生活し、敗戦後、命がけで日本に戻って来た(帰ることが出来たのはまだマシだった)方の話を聞く機会があった。
 8月15日以降(ソ連参戦はそれ以前だが)の辛酸をなめ尽くした体験には、胸に迫るものがあったが、現地での生活(現地の中国人との関わりを含めて)を語ることはなかった。大方の引き揚げ者はそうだという。

 「ソウル市民」は、そういう意味できわめて「政治的」なメッセージ性を持つ芝居。植民地支配下のソウルに住む「在朝日本人」の家庭が舞台。芝居の内容は、台詞も含めて上記の書に詳しく解明されている。その一部。

 慎二は、「うちで使ってる朝鮮人」が「内心」を隠している可能性を考慮している。そのことにも明らかなように、「善意」に包まれた朝鮮人観の基底には、権力関係のヘゲモニー争いが見え隠れしている。つまり雇用/被雇用という表層の契約関係に重ねて隠された日本人/朝鮮人という、その実まったく根拠のない序列化とそれに基づく「無意識の差別」もまた、篠崎家をはじめとする劇中の日本人に通底する要素として、この家庭劇を構成している。(P91)

 ここでは、「まったく根拠のない序列化」とあるが、現実は日本人と朝鮮人を序列化するための「根拠」をそれがあやふやで覆されるかも知れない不安を持ちながらも強いて作り上げていったのではなかったのか。経済と政治と教育などによって、・・・。

 それを声高に(あるいは集団で、あるいは言葉で、肉体で)表現するのではないところに、平田さんの劇のすばらしさを感じた。もちろん、観客へに匕首はしっかり向けられていたが。

 改めて舞台芸術活動の多様性と可能性、ある意味では限界性をも感じた2冊でした。

 もちろん、芝居や映画は楽しければいい、いちいち考えされられたりするのじゃなくて、見終わった後の爽やかなのがいいのだ、というのが多くの観客だろう。こうして「脚本」を読んだり、「評論」を取り上げるのも無粋なものかもしれない。
 

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