「目白通り」を左折し、「和敬塾」と「目白台運動公園」の間の坂を下ります。「目白通り」をはさんで、この付近をかつては「高田老松町」といいました。

旧高田老松町 (昭和41年までの町名)
明治5年、高田四ッ谷町の内と高田四ッ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩・6万石)、小笠原信濃守(播磨安志藩・1万石)、細川越中守(肥後熊本藩・54万石)の下屋敷と武家地を合併した。そして、町名を高田老松町とした。
旧高田老松町76番地の細川邸の門前に、昔、2株のの老松があり、鶴亀松といった。左手の松は見上げるように高くて鶴の松といい、右手の松はやや低く平なのを亀の松と呼んだ。
町名は、この縁起のよい老松からとったといわれる。鶴の方は明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年に枯れた。
両側を高い壁で囲まれた坂道。「幽霊坂」。


細い坂道。 坂下から見上げる。
「幽霊坂」はこの地域には2つありますが、そのうちの一つ。「目白台運動公園」と「和敬塾」との間にあります。昼でも暗く、おそらく幽霊でも出そうだということで付けられたのでしょう。(「和敬塾」の寮生達が名付けたのかも知れません。)
この坂は、戦後、細川家で整備した私道だそうで、「新江戸川公園」(旧細川邸・庭園)へ通じる坂。
新江戸川公園。

公園は回遊式泉水庭園で、園内にある湧水や背後の台地の起伏を生かしたつくりで、都会の喧噪を忘れさせる情緒があります。

公園の角を右折して、文京区と豊島区の区界になっている通りを西に向かいます。


左手が文京区、右手が豊島区。この付近では、豊島区が切っ先のように入り込んでいる地域。
「目白台保育園」の二つ先の道を右に入ると、「豊坂」への道。



豊坂(とよさか)
坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。
「目白台に上がれば、女子大学校」程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素掘りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。
文京区教育委員会 平成12年3月

急角度で左に曲がり、すぐ右に折れながら上って行きます。



坂の上から望む。この急坂をタクシーなどが下ってくるので、要注意。上がると、右手に日本女子大附属幼稚園。
「目白通り」に出て、左折し、「日本女子大附属豊明小学校」の先を左折すると、「小布施坂」にさしかかります。


小布施坂(こぶせざか)
江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。
坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。
文京区教育委員会 昭和63年3月


けっこう長い坂を下りきって突き当たりを右折、さらに一本目の細い道を右折して、住宅の間を上って行くと、「日無坂」。
この細い道が文京区と豊島区との区界となっています。

道はますます細くなって、上りの石段になります。


坂上から望む。右が「豊島区」、左が「文京区」。
明治時代には、この道を境にして、西が豊多摩郡(東京市外)でした。この付近の「不忍通り」の北側地域で、豊島区と文京区の区界がかなり入り組んでいるのも、その時の名残り(市内と市外の区分け)です。
坂上で、「富士見坂」と合流します。



「富士見坂」との合流地点から見るとなかなか趣のある風情の和風つくりの家と遠くまで直線で下る坂の向こうには、新宿の高層ビル街。なかなか見事な景観をつくりだしています。「富士見坂」からは富士山は見えないそうですが。

上からA「富士見坂」、B「日無坂」、C「小布施坂」、D「豊坂」、E「幽霊坂」、F「胸突坂」。