3月8日(土)。
今回は、「静岡」まで新幹線。そこから在来線で「磐田駅」まで。帰りは、「舞阪駅」から在来線で戻ってきました。帰宅は、午後10時半過ぎ。現地での行動時間を確保するためにそうしましたが、・・・。
土曜、かつ天気も上々。同じように日本橋(東)から西(京都)へ、旧東海道を歩いている方が、二組(反対に西から東へ歩いているような方にも数人出会いました)。ご夫婦と若者3人組。
ご夫婦は、品川の方らしい。「天竜川」を渡って、「六所神社」のところでお会いしました。
早朝5時過ぎに家を出て、在来線で磐田まで。青春⑱切符を使って。帰りもそうするとのこと。確かにかなり安上がり。
「静岡まで新幹線ですか。これから先は時間的にも無理だし、二人分だし、ちょっと贅沢な趣味になりました(笑)。品川だからまだいいほうですね」「そうですか、舞阪。出来たら私達もそこまでは行こうと思っていますが、浜松までの可能性も。」
その先の金原明善の生家まで抜きつ抜かれつ、そこでお別れしました。
もう一組は、学生さんなのか、男性1人に、女性2人の組み合わせ。どういう関係? この人達とも「天竜川」を渡ったところでお会いしました。その後、金原明善の屋敷のところで再会。
「どこまで行きますか? 」「一応舞阪までと思っているのですが」「私もそのつもりですよ」「この時間ならだいじょうぶですよね」。
この方達とは途中、浜松宿の手前で休憩しているときに、追い抜かれてしまいました。その後は会うこともなく。ところが、何と! 「舞阪駅」手前の東海道で再び出会いました。
彼らはまだまだ元気そうで、会釈しただけでさっさと歩き去りました。後から考えると、5時過ぎに舞阪駅に着く電車に合わせようと、必死になっていたのかもしれません(結果的には、こちらも間に合いましたが)。
実は、今回は、ひたすらほぼ西に向かって延々と歩く、というコース。上り坂も下り坂もほとんどなく、車が激しく行きかう、さらに信号機付きの交差点も頻繁(ただ地元の方はこちらが横断歩道を渡ろうすると、必ず一時停止してくれる心遣い・マナーにはありがたかった)な舗装道路を歩く単調なコース。史跡もごく一部を除けば、「一里塚」跡など具体的なものはなく、ただ標識が立っているだけ。
「浜松」宿の賑わいに驚きました(ことによると、「静岡」よりも繁華街? )。
特に電車の中での話の内容からも、あくまでも感覚的ですが、静岡が東京などの東の文化圏内であるのに対して、浜松は名古屋などの西の文化圏に属しているのではないないか、と。浜松は、静岡と、いい意味で張り合っているような、・・・。これが今回の大きな収穫でした。
それ以外は、あまり見所もないままに距離を稼ぐという趣向。結果、通算「4万1千歩」を越える距離を歩きました。約25㎞?
品川からここまで。山あり、海あり、松並木あり、と毎回、けっこう見所もあって楽しめたのですが、・・・。これで、もっと炎天下だったら、ばててしまいそうな感じ。今回、そこまで行かなくても、途中いささかくたびれてしまいました。
そうして、最悪のアクシデントが! 携帯写真(SDカードに保存)からパソコンにコピーしている時、突然、SDカードをフォーマットしますか、という表示が(原因不明)、えっ、そんなはずは! 途中で残りのコピーができなくなった! 浜松宿の手前でした。興味があるところもなく、だんだん歩くのがイヤになっていた、そんな持ち主の気持ちを察したのかも知れません。でも、最悪!
ですから、今回の後半は、写真なし、ということで。写真がパーになったのはこれで2回目となります。
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「中泉公民館(中泉交流センター)」前の説明板。
磐田駅に9時半過ぎに着いて、いよいよ浜松に向かって進みます。駅から二つ目の信号を左折して、東海道。緩やかな下り、そして上りの道。
見付宿は、現在の「磐田駅」よりも北東の方角に位置。「中泉公民館」や磐田駅のある付近は、かつての宿場のはずれになります。地名から「泉水」(湧き水)があったようです。「磐田駅」も以前は「中泉駅」。「中泉軌道」という線路もありました。
「見附」は、律令時代以降、遠江国の国府・国分寺が置かれた古代の政治文化の中心都市でした。戦国時代から江戸時代にかけては、東海道宿場町である「見付宿」があった見付地区が発達。東海道本線敷設以後は駅が設置された中泉地区も発展。見付と中泉が合併した1942年以降、郡名に由来した磐田と呼ぶことになりました。
来た道を振り返る。
その後、道なりに進んで、「県道261号(旧国道一号線)」と合流します。左手に説明板が二つあります。
くろん坊様
黒坊大権現は、旧東海道で、現在地の西約百米(現 磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものといわれており、毎年十一月三日が縁日とされています。
磐田化学工業((株) 大松の会
大乗院坂界隈
旧東海道のこの坂を「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。そこに祀られていた地蔵菩薩像・阿弥陀如来像とも現存する。
大乗院北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開通した中泉駅のホームは、この地(現 千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。磐田の「煉瓦発祥の地」である。
この北側の道(細江線)は開通した中泉駅より豊田町池田までの「中泉軌道」跡である。
昭和25年5月19日の「空襲」によりこの坂の南北に4発の被爆があり、8名の死者をだした。
現在地の東二十米の位置に推定樹齢約二百年、樹高二十三米、目通周三.六五米の黒松の「大松」があったが、昭和二十七年に伐採された。
大松の会
上でいう「御林」「細江線」跡か?
そのまま、県道を西に進みます。
「一言橋」。![]()
武田信玄との「一言坂の合戦」のとき敗色濃厚だった徳川家康が、当地にある一生に一度、一言だけ願いを聞き届ける観音様(「一言観音」)に戦勝を願ったところ、急に戦況が有利になったとの伝承がある、らしい。「一言観音」は、この少し北側に位置します。
「一言坂合戦」の史跡等は、国道一号線・「一言」付近にあるようです。
しばらく行くと、右手にあるのが、「宮之一色一里塚」跡。
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東海道 宮之一色一里塚
江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。
一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。
当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。
ちらほら松が見え始めて、少し進むと、左手に「秋葉常夜燈」。
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宮之一色秋葉山常夜燈
この常夜燈(灯篭)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政11年【1828年】に建てられたものと分かりました。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ数ある灯篭の中でも大変貴重なものです。風よけに灯篭の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。
毎年自治体の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」お札をこの灯篭に奉納しています。
地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇拝されています。
旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯篭のある宮之一色へようこそ。よい日、よい旅を・・・。
平成15年10月 宮之一色自治会
こうした案内碑を随所で見かけます。
しかし、「東海道松並木」も「並木」というほどにはいかず、道路沿いに足元をアスファルトで固められた「松」がポツンポツンとあるだけです。
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「森下」で旧東海道は県道から分かれて、左へ進みます。住宅街の静かな道となります。
振り返って望む。
しばらく進むと、先ほどの案内碑。![]()
曲がり方が旧道らしい。
右手に「長森立場」と「長森かうやく」の説明板。
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長森立場(たてば)
江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村―あいのむら―)には、立場(たてば)という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。
明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。 ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。 立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。
長森かうやく
「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。
山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は、高さ1.4メートル、幅73センチメートル、厚さ3.5センチメートルという立派なもので、これには「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。
こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたと伝えられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。
昔の歌に
「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」
と詠まれています。
平成18年3月 磐田市教育委員会
振り返って望む。
この説明板のすぐ先の信号を右に曲がります。左手に天竜川の土手が見え隠れしてきます。そのまま進んで、さっきの県道にぶつかったら、左に。
但し、旧東海道の道筋を徹底して歩くなら、県道・国道一号線を越えて北側の池田地区へ向かうのが当時のルートになるはずです(渡し場はいったん北上して行ったところにあり、そこで対岸に渡り、再び南下して浜松方向へ向かっていました。幕府の政治的な意図があったようです)。
広重の見附宿は、天竜川の図でした。
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東海道五十三次之内 見附 天竜川図 / 歌川 広重
東海道の中間地点である。見附の西、天竜川の急流を舟で渡る風景である。手前の舟の大きさと中洲の向こうの小さく描いた舟、さらに霞にけむる遠影の拭きぼかしの技巧によって空間の広さが描かれている。たばこをくわえて立つ船頭、そしてしゃがんで客待ちしている船頭の浅瀬に立てた竿が構図を引き締めている。
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大正期の見附「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より
(「知足美術館」HPより)
現在の天竜川(「天竜川橋」下流)。
大正期の写真には遠方に山並みが見えるので、現在の写真の撮影位置とは異なっているようです。但し、見附側(磐田側)から対岸遠くに山(丘)がこのように見えるためには、本来の渡し場付近(現在の国道一号線北側・池田地区)よりもさらに上流に行かないと無理のような気がします。あるいは、浜松駅付近にビルが建ち並び、こうした地形の高低が写真では不確実になったのかもしれません。
隷書東海道五十三次見附。
行書版。
狂歌入り。
いずれも天竜川の船渡しが画の対象になっています。
(
HPより)
今回は、「静岡」まで新幹線。そこから在来線で「磐田駅」まで。帰りは、「舞阪駅」から在来線で戻ってきました。帰宅は、午後10時半過ぎ。現地での行動時間を確保するためにそうしましたが、・・・。
土曜、かつ天気も上々。同じように日本橋(東)から西(京都)へ、旧東海道を歩いている方が、二組(反対に西から東へ歩いているような方にも数人出会いました)。ご夫婦と若者3人組。
ご夫婦は、品川の方らしい。「天竜川」を渡って、「六所神社」のところでお会いしました。
早朝5時過ぎに家を出て、在来線で磐田まで。青春⑱切符を使って。帰りもそうするとのこと。確かにかなり安上がり。
「静岡まで新幹線ですか。これから先は時間的にも無理だし、二人分だし、ちょっと贅沢な趣味になりました(笑)。品川だからまだいいほうですね」「そうですか、舞阪。出来たら私達もそこまでは行こうと思っていますが、浜松までの可能性も。」
その先の金原明善の生家まで抜きつ抜かれつ、そこでお別れしました。
もう一組は、学生さんなのか、男性1人に、女性2人の組み合わせ。どういう関係? この人達とも「天竜川」を渡ったところでお会いしました。その後、金原明善の屋敷のところで再会。
「どこまで行きますか? 」「一応舞阪までと思っているのですが」「私もそのつもりですよ」「この時間ならだいじょうぶですよね」。
この方達とは途中、浜松宿の手前で休憩しているときに、追い抜かれてしまいました。その後は会うこともなく。ところが、何と! 「舞阪駅」手前の東海道で再び出会いました。
彼らはまだまだ元気そうで、会釈しただけでさっさと歩き去りました。後から考えると、5時過ぎに舞阪駅に着く電車に合わせようと、必死になっていたのかもしれません(結果的には、こちらも間に合いましたが)。
実は、今回は、ひたすらほぼ西に向かって延々と歩く、というコース。上り坂も下り坂もほとんどなく、車が激しく行きかう、さらに信号機付きの交差点も頻繁(ただ地元の方はこちらが横断歩道を渡ろうすると、必ず一時停止してくれる心遣い・マナーにはありがたかった)な舗装道路を歩く単調なコース。史跡もごく一部を除けば、「一里塚」跡など具体的なものはなく、ただ標識が立っているだけ。
「浜松」宿の賑わいに驚きました(ことによると、「静岡」よりも繁華街? )。
特に電車の中での話の内容からも、あくまでも感覚的ですが、静岡が東京などの東の文化圏内であるのに対して、浜松は名古屋などの西の文化圏に属しているのではないないか、と。浜松は、静岡と、いい意味で張り合っているような、・・・。これが今回の大きな収穫でした。
それ以外は、あまり見所もないままに距離を稼ぐという趣向。結果、通算「4万1千歩」を越える距離を歩きました。約25㎞?
品川からここまで。山あり、海あり、松並木あり、と毎回、けっこう見所もあって楽しめたのですが、・・・。これで、もっと炎天下だったら、ばててしまいそうな感じ。今回、そこまで行かなくても、途中いささかくたびれてしまいました。
そうして、最悪のアクシデントが! 携帯写真(SDカードに保存)からパソコンにコピーしている時、突然、SDカードをフォーマットしますか、という表示が(原因不明)、えっ、そんなはずは! 途中で残りのコピーができなくなった! 浜松宿の手前でした。興味があるところもなく、だんだん歩くのがイヤになっていた、そんな持ち主の気持ちを察したのかも知れません。でも、最悪!
ですから、今回の後半は、写真なし、ということで。写真がパーになったのはこれで2回目となります。


「中泉公民館(中泉交流センター)」前の説明板。
磐田駅に9時半過ぎに着いて、いよいよ浜松に向かって進みます。駅から二つ目の信号を左折して、東海道。緩やかな下り、そして上りの道。
見付宿は、現在の「磐田駅」よりも北東の方角に位置。「中泉公民館」や磐田駅のある付近は、かつての宿場のはずれになります。地名から「泉水」(湧き水)があったようです。「磐田駅」も以前は「中泉駅」。「中泉軌道」という線路もありました。
「見附」は、律令時代以降、遠江国の国府・国分寺が置かれた古代の政治文化の中心都市でした。戦国時代から江戸時代にかけては、東海道宿場町である「見付宿」があった見付地区が発達。東海道本線敷設以後は駅が設置された中泉地区も発展。見付と中泉が合併した1942年以降、郡名に由来した磐田と呼ぶことになりました。



その後、道なりに進んで、「県道261号(旧国道一号線)」と合流します。左手に説明板が二つあります。


くろん坊様
黒坊大権現は、旧東海道で、現在地の西約百米(現 磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移したもので、咳や熱病の神様とされています。インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったものといわれており、毎年十一月三日が縁日とされています。
磐田化学工業((株) 大松の会
大乗院坂界隈
旧東海道のこの坂を「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。そこに祀られていた地蔵菩薩像・阿弥陀如来像とも現存する。
大乗院北の台地一帯は「御林」と呼ばれ、明治22年に開通した中泉駅のホームは、この地(現 千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。磐田の「煉瓦発祥の地」である。
この北側の道(細江線)は開通した中泉駅より豊田町池田までの「中泉軌道」跡である。
昭和25年5月19日の「空襲」によりこの坂の南北に4発の被爆があり、8名の死者をだした。
現在地の東二十米の位置に推定樹齢約二百年、樹高二十三米、目通周三.六五米の黒松の「大松」があったが、昭和二十七年に伐採された。
大松の会

そのまま、県道を西に進みます。
「一言橋」。

武田信玄との「一言坂の合戦」のとき敗色濃厚だった徳川家康が、当地にある一生に一度、一言だけ願いを聞き届ける観音様(「一言観音」)に戦勝を願ったところ、急に戦況が有利になったとの伝承がある、らしい。「一言観音」は、この少し北側に位置します。
「一言坂合戦」の史跡等は、国道一号線・「一言」付近にあるようです。
しばらく行くと、右手にあるのが、「宮之一色一里塚」跡。



東海道 宮之一色一里塚
江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。
一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には、榎や松などが植えられ、その木蔭は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ宮之一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東京都)日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。
当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。
ちらほら松が見え始めて、少し進むと、左手に「秋葉常夜燈」。


宮之一色秋葉山常夜燈
この常夜燈(灯篭)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政11年【1828年】に建てられたものと分かりました。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ数ある灯篭の中でも大変貴重なものです。風よけに灯篭の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。
毎年自治体の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」お札をこの灯篭に奉納しています。
地域の安全と火防の守り神として多くの人々から慕われ崇拝されています。
旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯篭のある宮之一色へようこそ。よい日、よい旅を・・・。
平成15年10月 宮之一色自治会

しかし、「東海道松並木」も「並木」というほどにはいかず、道路沿いに足元をアスファルトで固められた「松」がポツンポツンとあるだけです。

「森下」で旧東海道は県道から分かれて、左へ進みます。住宅街の静かな道となります。

しばらく進むと、先ほどの案内碑。


右手に「長森立場」と「長森かうやく」の説明板。


長森立場(たてば)
江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村―あいのむら―)には、立場(たてば)という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。
明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。 ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。 立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちはお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。
長森かうやく
「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。
山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は、高さ1.4メートル、幅73センチメートル、厚さ3.5センチメートルという立派なもので、これには「御免 御むそう 長もりかうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。
こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたと伝えられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。
昔の歌に
「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」
と詠まれています。
平成18年3月 磐田市教育委員会

この説明板のすぐ先の信号を右に曲がります。左手に天竜川の土手が見え隠れしてきます。そのまま進んで、さっきの県道にぶつかったら、左に。
但し、旧東海道の道筋を徹底して歩くなら、県道・国道一号線を越えて北側の池田地区へ向かうのが当時のルートになるはずです(渡し場はいったん北上して行ったところにあり、そこで対岸に渡り、再び南下して浜松方向へ向かっていました。幕府の政治的な意図があったようです)。
広重の見附宿は、天竜川の図でした。

東海道五十三次之内 見附 天竜川図 / 歌川 広重
東海道の中間地点である。見附の西、天竜川の急流を舟で渡る風景である。手前の舟の大きさと中洲の向こうの小さく描いた舟、さらに霞にけむる遠影の拭きぼかしの技巧によって空間の広さが描かれている。たばこをくわえて立つ船頭、そしてしゃがんで客待ちしている船頭の浅瀬に立てた竿が構図を引き締めている。

大正期の見附「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より
(「知足美術館」HPより)

大正期の写真には遠方に山並みが見えるので、現在の写真の撮影位置とは異なっているようです。但し、見附側(磐田側)から対岸遠くに山(丘)がこのように見えるためには、本来の渡し場付近(現在の国道一号線北側・池田地区)よりもさらに上流に行かないと無理のような気がします。あるいは、浜松駅付近にビルが建ち並び、こうした地形の高低が写真では不確実になったのかもしれません。



いずれも天竜川の船渡しが画の対象になっています。
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