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Channel: おやじのつぶやき
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掛川宿。清水銀行。十九首塚。大池橋。大池一里塚。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その1。)

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 なかなか機会がなくて、やっと3月18日(水)。掛川から磐田まで。

 一日がかりで、3万6千歩以上でした(家からの往復を入れると3万8千歩ほど)。天気はまあまあ、穏やかな日差しのもと、雨にもあわず、西風にも吹かれず、でした。行きは新幹線(時間の都合上)。帰りは在来線。帰りは、帰宅までには5時間くらい掛かりました。
 ほとんど舗装道路を歩いての旅、季節的には今頃が限界? これからは炎天下、車の行きかう舗装道路をひたすら歩くのは、ちとしんどくなるかも知れません。しかし、すれ違う地元の方との挨拶に励まされながらの旅は、いいものです。

 前回のところ(「掛川信用金庫連雀支店」の角)まで戻って西に進みます。この通りが、本陣通り。右手に屋台村の一角。ランチもやっているようで、仕込みが始まっていました。
     

商店街。静岡ではアーケード街が多いようです。

清水銀行掛川支店。
                            「中町」交差点。「掛信」の建物と並んで、宿場町らしい趣。

建物の横には「札差」の看板が懸かっている。

 札差(ふださし)

 元来、旗本・御家人たち蔵米取は、俸禄米支給日に自ら浅草のお蔵に出頭し、蔵米を受取り、米問屋に売却したものであるが、それらの面倒な手続き(蔵米の受け取りや換金といった作業)の代理を札差が代行してくれた。
 札差は蔵米支給日が近づくと、得意先の旗本・御家人の屋敷をまわって、それぞれ手形を預かっておき、御蔵から米が渡されると、当日の米相場で現金化し、手数料を差引いて、現金と屋敷で食べる分の米を各屋敷に届けてやるのである。
 札差が旗本・御家人の代りに俸禄米を受取る手数料を札差料といい、蔵米100俵につき金1分であった。またこれを米問屋に売却する手数料を、売側(うりかわ)といって、同じく100俵で金2分と定められていた。札差の本業たる手数料の儲けは、蔵米100俵の受領と売却につき合計金3分となる。
 そのうち蔵米の受け取りを代行するだけではなく、蔵米を抵当にして金を用立てるという金融業務が、札差の重要な役割となっていった。金に困った武士は、札差に次回支給される蔵米の受領・売却を依頼すると確約し、借金をする。札差は蔵米の支給日に、売却した現金から手数料と右の借金の元利を差引き、その残りを武家の屋敷に届ける。札差はこうして金融業者としても次第に力を持つようになっていった。
                                            (以上、「Wikipedia」参照)

通りに面したところに、「山内一豊、千代夫人」のレリーフ。



 由来

 天正18年 掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。
 若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が密かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。
 後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。
     清水銀行

 しばらく進むと、右手に「円満寺」の表門。
   

 掛川城蕗の門

 この門は掛川城の内堀(蓮池)ほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。
 廃城後の明治5年(1872)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。その時に、柱の下を2尺5寸(約76センチ)切り取って山門にしたといわれている。

   昭和35年5月31日指定  掛川市教育委員会

 しばらく行くと、正面が道路工事中。道なりに右に向かいます(「十九首塚方面」との標識あり)。


「十九首(じゅうくしゅ)塚」。右手の路地を入ったところ。

        

 承平5年(935年)、桓武帝の五代の孫である平将門は、関東一円を占拠して自ら新皇と称して律令国家に対向する国家を企てる叛乱を起こしたが、平貞盛、藤原秀郷らによって天慶3年(940年)に征伐された「天慶の乱」にまつわる首塚。

 十九首塚の由来
 
 ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。
 人皇61代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で相馬小太郎将門という武将がおりました。

・・・

 秀郷は将門をはじめ一門の家臣19人の首級を持って京に上る途中、掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣され、この地(十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。
 首実検の後、秀郷は「将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。」と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。
 この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた19人の詳細な名前が残されています。地名の由来も19人の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。
 町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と8月15日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。

       平成14年3月

 しばらく進んで左からの道と合わせ、「逆川」を越えます。その先の「二瀬川交差点」で、国道1号線と合流して左に進みます。
                    「(日本橋から)230㎞」ポスト。

    
 古い商家。                                  新築もかつてのイメージを大切にしている。

 しばらく行くと、「倉真川」に架かる「大池橋」。 

      

橋の右手を望む。

橋を渡ってすぐ左手にある「説明板」。

 大池橋と秋葉街道

 大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ29間(約52m)余り、幅3間1尺(約5.8m)余りの土橋と記されています。
 東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ通じる街道の入口であることを示していました。秋葉山へは、ここから9里(約35㎞)余りの道のりです。
 常夜灯は、明和6年(1769)に、鳥居は安永9年(1780)に建てられたものです。この鳥居と常夜灯は、嘉永7年(1854)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯も建て替えられ、鳥居も木造で建て替えられました。
 東海道は、鳥居の手前で左に折れます。


 『広重 東海道五十三次 掛川』

 掛川の宿のはずれには橋がある。凧が画面からはずれるほど高く上がっている。遠景には険しい秋葉山がある。手前に描かれた御神灯は防火の信仰の秋葉山への入口を示す。供を連れた僧侶が渡ってくる。老婆とその連れの男。そして凧の糸が切れて叫びながら追いかける童子。田植えの農夫を描き、季節を表現している。

注: 一般に凧揚げは、正月行事としてありますが、掛川近辺では伝統的に4月下旬から5月にかけての行事としてあります。上の絵でも、凧とともに、ちょうど田植えの季節なので田植えをする農夫も描かれています。

 (遠州)横須賀凧の歴史は古く、戦国時代、武田方と徳川方による高天神合戦の際に、敵の陣地の測量や通信手段などに利用されたのが、その始まりといわれています。
 いっぽう横須賀凧が祝凧として多彩になったのは江戸時代になってからです。元禄年間(1688~1703年)、時の城主西尾隠岐守忠尚公の加増を祝って、家臣たちが凧を揚げたことに由来すると伝えられています。
 正徳年間(1711~1715年)には、広く城下町の庶民の間でも凧を揚げるようになりました。そして凧揚げはますます盛んになり、しばしば凧に関する城役からの注意書(うなりのついた凧や大凧の禁止令)が発布されたほどです。このように人々が競い凧揚げを重ねた結果、様々な意匠のものが誕生しました。このため凧の種類は多く、20種類以上にもなるといわれています。
 やがて、凧揚げは4月20日過ぎから5月までという期限が定められ季節がら男児の節句祝品として用いられるようになり、今日に継承されています。 (「掛川観光協会」HPより)

    

 左の写真は、大正期のようす。(「知足美術館」HPより)。橋のすぐ向こうに鳥居が見えている。     
 右の写真が現在のようす。大きな鳥居はなく、右手奥に小さくなった木造の鳥居となっている。鳥居の南側にあった家屋は現在もそのまま残っているようす。

右手奥に鳥居と秋葉神社がある。

                         

 「大池橋」を左折し、そのまま県道253号線を進むと、「鳥居町」の交差点、その先は、天竜浜名湖鉄道「西掛川駅」。
        

 ホームに上がってみました。
    
              掛川駅方向。                      下り方向。

 道なりに進むと、交差点先の左手に、
「大池一里塚跡」(日本橋から59番目)。説明板などはありませんでした。隣は、お寺。

    
 振り返って来た道を望む。                          西側を望む。松並木が見えてきます。

                       

 大きくカーブする道の右側にある酒屋さん。
    

 その先の沢田IC交差点で、国道一号線のバイパスをくぐり、突き当たりを左に曲がって最初の道を右へ進みます。
旧東海道。のどかな道筋。 

 「東名高速」のガードをくぐると、右側に川の流れ。黄色のひょうたんが棒の先にくくりつけてありました。 
中央奥が「東名」。
    
 

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