再び県道(「つた街道」)に合流。広い通りになって、道は南に向かいます。
「岡部宿」のはずれにあった誓願寺(現・「五智如来公園」)から「横内」境までの道の両側(約1㎞)には松並木がありましたが、旧国道1号線(現・県道208号「つた街道」)建設の際、東側の松並木が切り倒され、西側だけが残っています。


「岡部宿」(中央・右奥にあたる)の方向を望む。



「松並木」の南のはずれ。 「岡部宿」碑の向こうには「常夜燈」。
「国道1号線・藤枝バイパス」の下をくぐり、「横内」へ。

すぐ右手に「傍示杭」があります。


岩村藩領傍示杭
「従是西巖村領 横内」(是より西、岩村領横内)
この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。
駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。
横内歴史研究会

軒下に木製の荷車が立てかけてあります。

この街道筋の家々には、かつての屋号が掲げられています。

ところで、店先の幟の「ビワミン」って? 「ビワミン」はビワ葉エキス入りアルカリ健康ぶどう酢のようです。初めて知りました。
道標。


「惣平さん」のおうち。




「横内あげんだい」。
「夏祭り川原供養祭、盆の送り火法要あげんだい」。何本も立てて燃やす行事らしい。「あげんだい」とは、高さ5メートルほどの竿の上部に竹を割って籠をつくり、その中に燃えやすい松葉や麦わらなどを入れたもの。その中へたいまつを投げ入れる、たいまつによる玉いれのようなもの? いったんは廃れていたのを1999(平成11)年に復活させたそうだ。
「朝比奈川」に架かる「横内橋」から横内地区を望む。川岸のところに「横内あげんだい」が見える。けっこう目立つ!

街道筋らしい町並みが続く。



「歩道橋」から「横内」地区を望む。



「従是西田中領」。
従是西田中領
この傍示石は田中領と岩村領との境界傍示標である。弘化年中(1846年頃)幕府より諸侯領地の傍示標は総て石材に改むべしとの布令があったので、田中領主本多侯は、欧陽詢の書風よろしき、領内小土の藪崎彦八郎に命じ「従是西田中領」の文字を書かせた。又これを城下、長楽寺町の石材業某に命じ彫らせた。筆跡彫刻ともに街道中に比類なき作と称された。
斯くして、この碑を領地境に建立したが、やがて明治4年(1871年)、廃藩置県令が発布され、この傍示石を撤去することとなり、故あって水守の菊川晋一氏宅に在ること数十年、1950年頃田中城跡、現西益津中学校正門脇に建てられ今日に至っているが、この碑を本来あるべきこの地に復元しようと、ここに複製を建立し後世に伝えるものである。因みに碑文の題字は本碑の拓本に依るものである。


その手前のところに、朽ちた木柱。

そこには、「史跡 傍示石跡」と。もともとは、「従是西田中領」という傍示杭(石)は、ここにあったのではないでしょうか?
「国道1号線」に合流してすぐに左の道に入ります。旧道はほんの一部、国道に吸収されていたことになります。

しばらく進むと、左手の建物のところに標識。

「史跡 鬼島一里塚跡」。日本橋から49番目。

町並みがなくなると、田園風景に。
