このところ断続的に富士宮に来る機会があって、そのついでに少しずつ西へ西へ、と。今回は、所用を済ませてからの午後から。そこで、富士川を越えて「蒲原宿」までは、と。
前回の「鶴芝の碑」から西へ進んで行きます。
「鶴芝の碑」方向を振り返る。
また道路を横断します。振り返ると、家の間から遠くに富士山の頭のところが少し見えます。だんだんと富士山が後ろの方に遠ざかって見えるようになります。
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しばらく行くと、「本市場一里塚」。![]()
日本橋から35番目。花壇の奥に、「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑が建てられているのみ。
そこから西の方向を望む。
特に気にしなければ、住宅や公共施設が並ぶ、何の変哲も無い道。この先は、富士駅前から続くアーケードの商店街を横切ります。
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その交差点にある案内碑。 旧東海道沿いの古い家屋。
道祖神。
道祖神のある角を200mほど南に行き、右折した所に平垣(へいがき)公園があり、芭蕉の句碑や、「野ざらし紀行」の一節が刻まれた新しい石碑がある、らしい。
旧道沿いの「フジホワイトホテル」の壁面には、「旧松永邸」跡というかなり大きな説明板。松永家は、駿河きっての大地主で、ここ平垣村にあって、領主に代わって年貢のとりまとめを行っていた、とか。その邸宅の跡地に建設されたホテルとのこと。
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説明板の下の方に、「吉原宿」を起点として《日本橋まで34里半8町(144.4㎞)》《京都三条まで90里30町(357.0㎞)》とあった。まだ3倍近くある計算。先は、長い、長い!
小さな川を渡った左にあるのが、
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大正5年に建てられた「札の辻跡」碑。
「札の辻」とは、高札場がある「辻」のことで、宿場町や街道など往来の多い場所に高札(を板に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法)を掲示した。
ここでは、それとはいくぶん異なっていて、下に刻まれた碑文には、この場所より遠く離れた西北の地にある「岩本山実相寺」に関連した説明がされている。
その昔、西の比叡山、東の実相寺とうたわれ、何百人という修行僧が勉学し、寮生活を送っていた。お寺の敷地も広く、一里四方(4㎞平方)現在の「札の辻」付近まであった、と。
実相寺
宗祖日蓮大聖人が、一切経を閲読し、『立正安国論』執筆の構想をねった寺である。もとは天台宗の寺で、久安元年(1145)鳥羽上皇が比叡山横川の智印法印に命じて創建した。円珍が唐から持ち帰った一切経が納められていた。宗祖当時は49院50坊を数えたという。
宗祖が鎌倉で法華経の弘通活動を初めてまもなくの頃、 異常気象や地震がおこり、疫病がはやって天地が乱れていたため、その原因と対策を究明するため当山の一切経蔵に入蔵して閲読し、災害から諸人を救済する方策を『立正安国論』にまとめあげた。
宗祖入蔵のおり、学頭智海法印が宗祖に帰依して日源の名を賜わり、全山あげて日蓮宗に転じた。また、この時、のちの六老僧、日興・日持はここで宗祖と師弟の縁を結んで、常時、宗祖に給仕した。(以上、「日蓮宗中部宗務所」HPより)
その先、右側にある「常夜燈」。
しばらく進むと、再び県道396号線(旧国道1号線)に合流して西へ。その先でJR身延線「柚木」駅に着く。
その付近からの富士山。![]()
見える富士山の姿も少しずつ変化。次第に西の山肌が見え始め、頂上の尖ったところが右にずれていく。こういう変化を実感するのも、富士山を見ながらの旅の面白さ。
「常夜燈と道標」。
通りの反対側(右手)に常夜燈と道標が見えたら、県道を横断して右に入る。
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説明板にもある通り、道標に「左東海道」とあるが、元々の位置から移設されたため、現在は「右」に進むことになる。
旧道をしばらく歩き、富士川の河川敷を囲む「雁堤」を正面奥に見てから左に曲がり、またさっきの県道に戻って右に行くと、いよいよ「富士川」。「富士川橋」の手前、右手に「水神社」の森。
「東海道 歴史の道」水神ノ森と富士川渡船場」。
東海道「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場
江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。
これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いことと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせ渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村との間で行われました。
東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居、中船居、下船居の三箇所があり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。 用いた船には定渡船、高瀬船、助役船があり通常の定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。
渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。 これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。
水神の森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、 溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤(かりがねづつみ)は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。
このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。
昭和60年1月10日 富士市教育委員会
この中に記された「雁堤」について。
富士川は、古くより山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに、日本三大急流の一つに数えられており、川沿いにあたる富士市は度重なる洪水による災害が多発していたが、1615年から古郡重高・重政・重年の父子3代が、1674年の完成まで50年以上の歳月を費やし、水田を富士川の洪水被害から守るため、「雁堤」と呼ばれる全長2.7kmに及ぶ堤防を完成させ、「加島五千石」と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成した。
雁堤の人柱「護所神社」
堤防工事終了の際、神仏加護のために人柱として葬ったという話が富士市には残っている。
堤防工事に莫大な費用と50年という歳月が掛かっているにもかかわらず、水害の解決には至っていなかった。そのため人々は、神仏のご加護に頼るしかないと考え、富士川を西岸の岩渕地域から渡ってくる1000人目を人柱にたてる計画をした。
とある秋のこと、夫婦で東国の霊場を巡礼中に富士川を渡ってきた老人の僧が1000人目にあたった。地元の人々が説明をしたところ、最初は驚かれたが「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々は涙した。 (人柱になった僧自身は999人目や1001人目で、1000人目が家族あるもので、それを見かね自ら人柱を志願したとも言われている。)
人柱は、堤防を何度築いても流されてしまう、雁堤の特徴ともい言える曲がり角に埋められることになった。 僧は埋められる事前に「鈴の音が止んだ時が自分が死んだ時である」と言い残して地中へ潜った。木製の箱に入れられ、人柱として土に埋められた後も、約21日間ほどに渡って空気坑から鈴の音は聞こえたという。
人柱が埋められた雁堤の曲がり角のり面(注:「雁公園」下)には人柱を祭神とした護所神社があり、現在も地域住民により毎年7月に祭礼が行われている。
現在
現在の富士川は、潤井川などの支流への水量調整や、日本軽金属蒲原製造所が自社水力発電の為に、雁堤よりも上流で水を採水し、そのまま駿河湾へ流しているため、昔のような水量ではなく、水敷からも距離があるが、現在も築堤として使用されており、河川区域として国土交通省が管理している。
広大な堤内地については、隣接する富士市立岩松中学校のサッカー場などのグラウンドの他、市民が利用できる多目的グラウンド、ゲートボール場などとして富士市などに占用許可が与えられている。またみかんやお茶などの畑としても利用されている。
秋になると長さ1km以上にも及ぶ沿道にコスモスが咲き乱れる。近隣の町内会ごとにエリアが分けられ、当番制で水遣りなどの他エリアに負けずと手間をかけて育てたコスモスはNHKなどの県内テレビニュースでも取り上げられるほど有名となっている。
毎年10月の第1土曜には、古郡親子3代の偉業と、築堤や氾濫での犠牲者、そして人柱となった僧を弔う「かりがね祭り」が催される。
「岩本山」からの雁堤。
(以上、「Wikipedia」より)
旧道を左折する時にちょっと見ただけだが、見上げるほどのがっしりしたつくりだ(「雁公園」付近)。写真では中央奥のところ。旧東海道はその左側を通り、中央付近を右折して渡船場に向かう。
左が「富士川渡船場跡」碑。右が「富士山道」碑。「渡船場跡」碑は、近年、建てられたもの。
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慶長6年(1601)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められ まもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生した またこの地から数十㍍南の旧東海道沿いに岩本村が管理した渡船場が存在したといわれる
これらのことを後代に伝えるため 東海道四百年記念事業の一つとしてこの碑を建立する
これによると、旧東海道は現在の富士川橋よりももう少し下流方向に進んで川を渡ったとされる。対岸(右岸)の旧道は「富士川橋」を渡って少し北寄りの方向に進むことから、富士川の渡船場は天下の急流を避けるために、上・下流といくどか変遷したようだ。
いよいよ「富士川橋」を渡って、岩淵に入ります。
1924年(大正13年)完成当時の親柱。
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ここからの富士山は次回に。
前回の「鶴芝の碑」から西へ進んで行きます。

また道路を横断します。振り返ると、家の間から遠くに富士山の頭のところが少し見えます。だんだんと富士山が後ろの方に遠ざかって見えるようになります。

しばらく行くと、「本市場一里塚」。

日本橋から35番目。花壇の奥に、「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑が建てられているのみ。

特に気にしなければ、住宅や公共施設が並ぶ、何の変哲も無い道。この先は、富士駅前から続くアーケードの商店街を横切ります。


その交差点にある案内碑。 旧東海道沿いの古い家屋。

道祖神のある角を200mほど南に行き、右折した所に平垣(へいがき)公園があり、芭蕉の句碑や、「野ざらし紀行」の一節が刻まれた新しい石碑がある、らしい。
旧道沿いの「フジホワイトホテル」の壁面には、「旧松永邸」跡というかなり大きな説明板。松永家は、駿河きっての大地主で、ここ平垣村にあって、領主に代わって年貢のとりまとめを行っていた、とか。その邸宅の跡地に建設されたホテルとのこと。

説明板の下の方に、「吉原宿」を起点として《日本橋まで34里半8町(144.4㎞)》《京都三条まで90里30町(357.0㎞)》とあった。まだ3倍近くある計算。先は、長い、長い!
小さな川を渡った左にあるのが、


大正5年に建てられた「札の辻跡」碑。
「札の辻」とは、高札場がある「辻」のことで、宿場町や街道など往来の多い場所に高札(を板に記して往来などに掲示して民衆に周知させる方法)を掲示した。
ここでは、それとはいくぶん異なっていて、下に刻まれた碑文には、この場所より遠く離れた西北の地にある「岩本山実相寺」に関連した説明がされている。
その昔、西の比叡山、東の実相寺とうたわれ、何百人という修行僧が勉学し、寮生活を送っていた。お寺の敷地も広く、一里四方(4㎞平方)現在の「札の辻」付近まであった、と。
実相寺
宗祖日蓮大聖人が、一切経を閲読し、『立正安国論』執筆の構想をねった寺である。もとは天台宗の寺で、久安元年(1145)鳥羽上皇が比叡山横川の智印法印に命じて創建した。円珍が唐から持ち帰った一切経が納められていた。宗祖当時は49院50坊を数えたという。
宗祖が鎌倉で法華経の弘通活動を初めてまもなくの頃、 異常気象や地震がおこり、疫病がはやって天地が乱れていたため、その原因と対策を究明するため当山の一切経蔵に入蔵して閲読し、災害から諸人を救済する方策を『立正安国論』にまとめあげた。
宗祖入蔵のおり、学頭智海法印が宗祖に帰依して日源の名を賜わり、全山あげて日蓮宗に転じた。また、この時、のちの六老僧、日興・日持はここで宗祖と師弟の縁を結んで、常時、宗祖に給仕した。(以上、「日蓮宗中部宗務所」HPより)

しばらく進むと、再び県道396号線(旧国道1号線)に合流して西へ。その先でJR身延線「柚木」駅に着く。
その付近からの富士山。

見える富士山の姿も少しずつ変化。次第に西の山肌が見え始め、頂上の尖ったところが右にずれていく。こういう変化を実感するのも、富士山を見ながらの旅の面白さ。

通りの反対側(右手)に常夜燈と道標が見えたら、県道を横断して右に入る。


説明板にもある通り、道標に「左東海道」とあるが、元々の位置から移設されたため、現在は「右」に進むことになる。
旧道をしばらく歩き、富士川の河川敷を囲む「雁堤」を正面奥に見てから左に曲がり、またさっきの県道に戻って右に行くと、いよいよ「富士川」。「富士川橋」の手前、右手に「水神社」の森。

東海道「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場
江戸時代、東海道を東西し富士川を渡るには渡船を利用しました。
これは富士川が天下に聞こえた急流であり、水量も多いことと、幕府を開いた徳川家康の交通政策によるものでした。街道の宿駅整備にあわせ渡船の制度を定め、渡船は岩渕村と岩本村との間で行われました。
東岸の渡船場は松岡地内の一番出しから川下二十町の間で、上船居、中船居、下船居の三箇所があり、川瀬の状況で使い分け、そこから上、中、下の往還が通じていました。今でも当時のなごりとして、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいます。 用いた船には定渡船、高瀬船、助役船があり通常の定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ、船頭が五人つきました。
渡船の業務は岩渕村で担当していましたが、寛永十年(1633)以後、船役の三分の一を岩本村が分担しました。 これは交通量の増加に伴って業務が拡大したためで、岩本村が渡船に重要な役割をにないました。
水神の森には安全を祈願し水神社を祀り、著名な「東海道名所図会」にも記され、 溶岩の露頭は地盤堅固であり、古郡氏父子の巨大な雁堤(かりがねづつみ)は、ここから岩本山々裾にかけて構築されています。
このほか、境内には富士登山道標や帰郷堤の石碑が建っています。
昭和60年1月10日 富士市教育委員会
この中に記された「雁堤」について。
富士川は、古くより山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに、日本三大急流の一つに数えられており、川沿いにあたる富士市は度重なる洪水による災害が多発していたが、1615年から古郡重高・重政・重年の父子3代が、1674年の完成まで50年以上の歳月を費やし、水田を富士川の洪水被害から守るため、「雁堤」と呼ばれる全長2.7kmに及ぶ堤防を完成させ、「加島五千石」と呼ばれる水田を加島平野(現在のJR富士駅周辺の一帯)に造成した。
雁堤の人柱「護所神社」
堤防工事終了の際、神仏加護のために人柱として葬ったという話が富士市には残っている。
堤防工事に莫大な費用と50年という歳月が掛かっているにもかかわらず、水害の解決には至っていなかった。そのため人々は、神仏のご加護に頼るしかないと考え、富士川を西岸の岩渕地域から渡ってくる1000人目を人柱にたてる計画をした。
とある秋のこと、夫婦で東国の霊場を巡礼中に富士川を渡ってきた老人の僧が1000人目にあたった。地元の人々が説明をしたところ、最初は驚かれたが「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々は涙した。 (人柱になった僧自身は999人目や1001人目で、1000人目が家族あるもので、それを見かね自ら人柱を志願したとも言われている。)
人柱は、堤防を何度築いても流されてしまう、雁堤の特徴ともい言える曲がり角に埋められることになった。 僧は埋められる事前に「鈴の音が止んだ時が自分が死んだ時である」と言い残して地中へ潜った。木製の箱に入れられ、人柱として土に埋められた後も、約21日間ほどに渡って空気坑から鈴の音は聞こえたという。
人柱が埋められた雁堤の曲がり角のり面(注:「雁公園」下)には人柱を祭神とした護所神社があり、現在も地域住民により毎年7月に祭礼が行われている。
現在
現在の富士川は、潤井川などの支流への水量調整や、日本軽金属蒲原製造所が自社水力発電の為に、雁堤よりも上流で水を採水し、そのまま駿河湾へ流しているため、昔のような水量ではなく、水敷からも距離があるが、現在も築堤として使用されており、河川区域として国土交通省が管理している。
広大な堤内地については、隣接する富士市立岩松中学校のサッカー場などのグラウンドの他、市民が利用できる多目的グラウンド、ゲートボール場などとして富士市などに占用許可が与えられている。またみかんやお茶などの畑としても利用されている。
秋になると長さ1km以上にも及ぶ沿道にコスモスが咲き乱れる。近隣の町内会ごとにエリアが分けられ、当番制で水遣りなどの他エリアに負けずと手間をかけて育てたコスモスはNHKなどの県内テレビニュースでも取り上げられるほど有名となっている。
毎年10月の第1土曜には、古郡親子3代の偉業と、築堤や氾濫での犠牲者、そして人柱となった僧を弔う「かりがね祭り」が催される。

(以上、「Wikipedia」より)
旧道を左折する時にちょっと見ただけだが、見上げるほどのがっしりしたつくりだ(「雁公園」付近)。写真では中央奥のところ。旧東海道はその左側を通り、中央付近を右折して渡船場に向かう。


慶長6年(1601)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められ まもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生した またこの地から数十㍍南の旧東海道沿いに岩本村が管理した渡船場が存在したといわれる
これらのことを後代に伝えるため 東海道四百年記念事業の一つとしてこの碑を建立する
これによると、旧東海道は現在の富士川橋よりももう少し下流方向に進んで川を渡ったとされる。対岸(右岸)の旧道は「富士川橋」を渡って少し北寄りの方向に進むことから、富士川の渡船場は天下の急流を避けるために、上・下流といくどか変遷したようだ。
いよいよ「富士川橋」を渡って、岩淵に入ります。


ここからの富士山は次回に。