いよいよ宿場の中心部。道路沿いに「藤沢宿」に関する写真や標識などがある。駅前の雑踏に比べてのんびりと散策できる。
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古く重厚な家屋が残っている。
入口正面に「紙」
と。
国登録有形文化財(建造物)
答申年月日:平成25年(2013年)7月19日
• 店蔵 明治44年(1911年)
• 主屋 明治44年頃、昭和初期増築
• 文庫蔵 文久元年(1861年)、大正14年(1925年)改修
桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。本社は横浜に移転したが、現在も、店蔵は藤沢支店として使用されている。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えている。
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株式会社 内田商店は、江戸時代末期の万延年間ころ藤沢宿出で初代 内田専吉が指物商(現在の家具類)として内田商店を創業し、明治3年に現在地に移転した。
次いで明治38年に至り、鉄鋼二次製品を主体とする金物販売を行う。戦後昭和28年6月に個人経営より組織変更し、法人として株式会社内田商店と改名し、現在6代目が事業を継承する。
(
HPより)
かつての宿場・街並み。
復元図。
ラーメン屋さんの前、「蒔田本陣跡」。この奥に行ったところに「藤沢御殿」があった。
「妙善寺」入口。街道沿いにはたくさんのお寺がある。
「伝・源義経首洗井戸」への案内板。
義経の首は首実検ののち片瀬の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼり、この辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた、と。
時間がなくて訪問せず。
「白旗交差点」手前にある「案内図」。上が現在の絵地図、下が宿場の絵地図。
「いせやまばし(伊勢山橋)」。小田急を越す跨線橋。「藤沢本町」駅は、すぐそば。
振り返って見たところ。
「引地橋」までの区間に「上方見附」跡の標識があるはずだが、見落としてしまった。
「引地橋」。
旧東海道は橋の手前で「ラーメン屋さん」近く、斜めの細い道に入り、再び広い道に合流して橋を渡ることになる。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い線が現在の道(↑)
「引地川」上流を望む。
橋の先は茅ヶ崎方面。ここからバスに乗って藤沢駅まで戻ってきた。




と。
国登録有形文化財(建造物)
答申年月日:平成25年(2013年)7月19日
• 店蔵 明治44年(1911年)
• 主屋 明治44年頃、昭和初期増築
• 文庫蔵 文久元年(1861年)、大正14年(1925年)改修
桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。本社は横浜に移転したが、現在も、店蔵は藤沢支店として使用されている。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えている。

株式会社 内田商店は、江戸時代末期の万延年間ころ藤沢宿出で初代 内田専吉が指物商(現在の家具類)として内田商店を創業し、明治3年に現在地に移転した。
次いで明治38年に至り、鉄鋼二次製品を主体とする金物販売を行う。戦後昭和28年6月に個人経営より組織変更し、法人として株式会社内田商店と改名し、現在6代目が事業を継承する。
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義経の首は首実検ののち片瀬の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼり、この辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた、と。
時間がなくて訪問せず。



「引地橋」までの区間に「上方見附」跡の標識があるはずだが、見落としてしまった。

旧東海道は橋の手前で「ラーメン屋さん」近く、斜めの細い道に入り、再び広い道に合流して橋を渡ることになる。



橋の先は茅ヶ崎方面。ここからバスに乗って藤沢駅まで戻ってきた。