
少し行くと、右手に大きな屋敷が見えてくる。



歴史の道 【境木立場跡】
立場茶屋
宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。
平成16年3月 保土ヶ谷区役所
「保土ケ谷 初代広重」、「『江戸名所図会・境木』を着色模写した「横浜往古絵巻」、「牡丹もち」の画が添えられている。正面の立派な門構えの屋敷が「若林家」。
境木立場跡のすぐ先に「境木地蔵」がある。



武蔵国と相模国の国境(現在は保土ヶ谷区と戸塚区の区境)になっている。
木柱の正面に『武相国境之木』、左面に『↑これより 武蔵国 保土ヶ谷 一里』、右面に『↓これより 相模国 戸塚宿 一里九丁』と書かれている。
台座には「日本橋九里九丁」、「京都百十七里」とあり、、台座の周りには、日本橋から三条大橋までの宿場名がずらり。





旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。
武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。
このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。


「焼餅坂」
焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160メートル)の坂道でした。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので、「焼餅坂と名づけられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。
戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。


焼餅坂を下りきり、小さな橋を渡ると上り坂となり、まもなく両側にこんもりした森が現れる。



右塚の手前から右の細道を登ると塚の裏側が「品農一里塚公園」になっていて、塚の頂上を見ることが出来る。

頂上には広場があり、特に解説等はなし。眼下は鬱蒼とした木々で覆われ、視界はよくなかったが。
もちろん、当時の旅人は塚の上に上って辺りを見回すなんてことは出来なかったはず。
「品農一里塚」
・・・一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
ここ品農の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品農村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていた ようです。
このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和41年に県の史跡に指定されました。
平成7年6月 横浜市教育委員会
「保土ケ谷2丁目」にある「一里塚」は、日本橋から8番目の「一里塚」だったので、距離にして約4?ということに。
日本橋を出て保土ケ谷までは海沿いのさほど急勾配の道はなかった。保土ケ谷宿からのこの道は、「権太坂」「焼餅坂」などの難所続き。さぞかし昔の旅人も苦労したに違いない。今でも「箱根駅伝」では、最初の難関の上り(もちろん、新道だが)。
10,11番目の「一里塚」の跡は、戸塚の宿にあるので、そこまでは行ってみよう。
しかし、足も疲れてきたので(理由は後ほど)、途中省略。戸塚宿の東のはずれ、「江戸方見附跡」から先を続けます。


