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Channel: おやじのつぶやき
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古東海道(旧古町橋)〜JR「保土ケ谷」駅西口(保土ケ谷宿。その3。)

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安藤広重保土ケ谷宿・「新町橋」付近。(神明社HPより)

 もっと昔の東海道はもう少し西寄りの山側をとっていたという。「古東海道」。
「旧古町橋」跡。帷子川に架かっていた橋。今の相鉄天王町駅南にある旧「帷子橋」は、「新町橋」とも言われていた。街並みを古町から少し東に移し、新町へと東海道の道筋を変化させた、と思われる。

歴史の道【旧古町橋跡】
《江戸時代初期の東海道》
 現在知られている「旧東海道」は、慶長6年(1601)に保土ヶ谷宿が成立した当時のものではなく、慶安元年(1648)に竣工されたもので、それまでは追分(宮田町1丁目)から上方方面の東海道はここを通っていました。 現在、追分から神明社あたりまでの道筋は判明していますが、そこから境木までの道筋には諸説あります。
《古町通》
 このあたりには江戸初期まで屋敷や寺が多くありましたが、新道の造成に伴い屋敷は新道沿いに移され、新しい街並みを形成しました。ここから追分へ至る道は「新町」(現:岩間町、帷子町)に対比して「古町通」と呼ばれ、元禄年間の書物には「古町通屋敷跡」の字(あざ)が見られます。
《旧古町橋》
 この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して、「新町橋」と呼ばれていました。また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年(1963)に決定され、帷子川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年(1966)に、ここから約120メートル北に架設されています。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

この絵図では、すでに東海道は現在の通りの道筋になっていて、「古町橋」は、「神明社」の参道になっているようだ。

その付近から古東海道の南方向を望む。南に「神明社」の大きな敷地がある。

「帷子川」旧流路跡。旧帷子橋(新町橋)から西の道路。

「古東海道」右奥が「神明社」。正面遠くに小さな祠。

祠の脇にある道標「古東海道」と記されて、交差する道の道標には「相州道」とある。




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「古町橋」。赤い直線が「東海道」。その東にある川が「今井川」。


「環状1号」線が旧東海道。しばらくJR「保土ケ谷駅」付近までは広い道路に沿って進む。宿場としておそらく多くの店などが並んでいたと思われるが、道路の拡幅などによって現在はその面影はない。

「大門通り」交差点。西の山側は、一帯が寺町になっている。

今井川。東海道(現・「環状1号」)に沿って南西に向かう。1880年代の頃の水路とほとんど変わらない。

街道筋で見かけた古い面影を残す家屋。表通りには、この一軒くらいしか残ってないか?

旧中橋跡。

歴史の道【旧中橋跡】
《今井川の改修》
 かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することになりましたが、なかなか改善されませんでした。
 しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官に陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。
《保土ヶ谷宿と品川台場建設》
 今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申出、3000立坪(約18,000m3)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

 

「環状1号」をしばらく進むと、右の道が旧東海道保土ケ谷宿の中心部へ。左は、「保土ヶ谷駅」西口方向。

来た道を振り返る。

品川宿や川崎宿で見てきたとほぼ同じ道幅の旧東海道。


1880年代のようす(「同」より)。

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