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Channel: おやじのつぶやき
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自衛隊十条駐屯地。北区立中央図書館。(JR東十条駅下車。その2。)

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 戦前から戦後へと。そして、旧日本軍から米軍へと引き継がれた軍事施設。今も残る(保存されている)建物などを探索。自衛隊補給本部とその周辺。
正門。京浜東北線・東十条駅からはけっこう歩きます。最寄り駅は埼京線・十条駅。

「陸上自衛隊補給統制本部・海上自衛隊補給本部・航空自衛隊補給本部・航空自衛隊第二補給処十条支処・北関東防衛局調達部」。
 背後の赤煉瓦塀は、工場の壁面に使用されていたものを再利用したもの。奥に見えるのは、デジタル通信基地網の一環として建てられた通信塔。

 明治38年初冬、東京砲兵工廠銃包製造所が小石川からこの十条台へ移転し、その後、東京第一陸軍造兵廠等逐次名前を変更し、旧陸軍兵站の中枢として重要な役割を果たしてきました。
 戦後は米軍の使用を経て、昭和34年に自衛隊に移管され、武器補給処十条支処を主体に使用されました。
 平成9年度、防衛庁本庁庁舎移転計画により、海上自衛隊、航空自衛隊及び調達実施本部が十条駐屯地に再配置されるとともに、平成10年3月陸上自衛隊補給統制本部が新編され、陸上・海上・航空・契約本部が共存する全国でもまれにみる駐屯地・基地となりました。
 十条駐屯地には、全国の自衛隊が国防、災害派遣、国際貢献等の任務を達成するために必要不可欠な物(装備品等)の調達、保管、補給または整備及びこれらに関する調査研究等の事務処理を行う部隊が所在しています。
HPより)

 「集団自衛権」・「解釈改憲」路線をめざす今の政治情勢では、ここも慌ただしくなるのでしょうか? たんなる「防衛省」事務方の施設ではなく、制服組・実働部隊も配備されているので。今後の動向が気になる場所ではあります。

遠くにあるのは、赤煉瓦のモニュメント。施設内のため近づけませんでした。
左奥に建物群。

パネルが設置されているので、事前に許可をとれば間近に見ることができるはずです。

 赤煉瓦づくりの建物「東京砲兵工廠銃砲製造所275号棟(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)」を生かした北区立中央図書館。


 次の資料は、2002(平成14)年、当時の北区長に対して「社団法人日本建築学会」より提出された保存・活用要望書の一部。
                           
旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟についての見解  社団法人日本建築学会・建築歴史・意匠委員会委員長 高橋 康夫

1、建築物としての見解
 陸上自衛隊十条駐屯地の歴史は、東京砲兵工廠が小石川から十条の地に移ってきた明治38(1905)年に始まる。十条駐屯地には、明治から昭和戦前期にかけていくつもの建物が建設されたが、現在は旧275号棟が残るのみである。
 これら、旧陸上自衛隊十条駐屯地の建物の設計は陸軍省による。当時の陸軍省は優秀な技術者を数多くかかえており、質的にも高度な建物を建設していた。十条駐屯地の建物は、そのような高度な技術を持った技術者によって建設された例としても、重要な存在といえる。
 旧275号棟の建物は、弾丸鉛身場の建物として大正8年に建設された。建物の規模は桁行方向が54.00メートルで、梁間方向が26.94メートルの大きさをもつ。梁間方向の中央部に鉄骨の柱をもち、鉄骨で作られた二つのトラスからなる2連棟の形式をもっている。軒高は5.45メートルで、外壁は1.5枚厚の煉瓦造平屋建の建物である。
 現在は失われてしまった建物をも含めて、陸上自衛隊十条駐屯地に建設された主要な煉瓦造の建物をみると、その構造形式が同じ煉瓦造であっても、明治期には「木骨煉瓦造」の建物が多く、大正期には「煉瓦造」の建物が多くなっている。明治から大正にかけて、日本の主要な建物は煉瓦造で建設されており、また煉瓦造の建築技術も、地震に対する対応など大きく発展しつつあった。旧陸上自衛隊十条駐屯地の建物について関東大震災による被害をみると、明治期建設の「木骨煉瓦造」よりも大正期建設の「煉瓦造」のほうがはるかに少なくなっている。このことは、十条駐屯地の建物をみても、明治から大正にかけて日本の耐震構造技術が進歩していたことがわかる。大正期に建設された275号棟の煉瓦造の建物は、技術的にある程度完成されたものであると評価することもできる。文化財としても、東京に残された数少ない煉瓦造建物の一つであり、重要な存在といえよう。

2、地域としての価値
 陸上自衛隊十条駐屯地の煉瓦造の建物には、北区内の小さな煉瓦工場で焼かれた煉瓦が用いられており、北区の郷土史的な視点から見ても重要な存在であることがわかる。
 明治以降、多くの煉瓦造の建築物が建てられていったが、建設に使用した煉瓦の生産についてみると、ホフマン窯などをつくり、西欧の技術をそのまま受け入れていた点もあるが、その一方で、それまで瓦を焼いていた伝統的な職人たちが、瓦と一緒に煉瓦を焼いた事例も明らかにされている。またその煉瓦は、伝統技術を受け継ぐ左官職人によって積まれた。町場の小さな煉瓦工場で焼かれた煉瓦は、当初は窯の火力が低く、建物の構造として使用するだけの強度をもった丈夫な煉瓦を焼くことは出来なかったが、やがて登り窯をつくるなど改良を重ねていくことで、十分な強度を持った煉瓦も焼けるようになっている。たとえば、銀座煉瓦街を建設した明治初期には、隅田川(旧荒川)流域で瓦を焼いていた業者が煉瓦を焼くことを試みている。このような業者は、明治35年には旧東京府内に19軒あり、王子周辺にもいくつかの工場が確認されている。
 煉瓦のなかには、煉瓦を焼いた工場の刻印が押されているものがあり、この刻印によって、どこで焼かれた煉瓦であるかがわかる。調査の結果、十条駐屯地内の煉瓦造の建物にも、王子周辺などの工場で焼かれた煉瓦が使われていることが確認されている。旧275号棟の建物にも、王子周辺の工場で焼かれた煉瓦の刻印を確認することが出来る。このように、旧275号棟の建物は、北区の近代史を考えるうえで重要な存在であり、かけがえのない建築物である。しかも現在は、十条駐屯地の建物の建て替えがすすんでおり、建設時の姿をうかがうことのできる建物は、旧275号棟だけである。
 北区内の煉瓦工場で焼かれた煉瓦を使用して建設された旧275号棟の建物は、日本の近代を支えてきた「近代化遺産」「産業遺跡」としても注目される。そして、旧275号棟の建物に使われている鉄骨材からは、「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印も発見されている。当時の建築に使われた鉄骨材の多くは外国製によるものであるが、ここでは、国産の材料である八幡製鉄所でつくられた鉄骨が使用されているのである。建物に使われた鉄骨そのものも、日本の近代化遺産として重要である。
 さらに十条周辺を見れば、醸造試験場、製紙工場、印刷工場、青淵文庫、晩香廬などなど、北区の近代を伝える建築物が集中してみられる。まちづくりにおいて、北区の独自性、北区らしさを打ち出していくうえでも、これらの近代化遺産は今後大きな役割を果たしていくことと思われる。旧275号棟の建物は、北区のまちづくりを考える上でも欠くことのできない建物であるといえよう。
 以上のように、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟は、日本の近代建築史を考えるうえで、また北区の近代化、さらには近代化遺産など、歴史的な景観と、その歴史の継承を考えるうえでも、極めて重要な建物に位置づけられると判断できる。ついては、貴台におかれましては、旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟の文化的意義と歴史的価値についてあらためてご理解をいただき、このかけがえのない文化遺産が、永く後世に継承されますよう、格別のご配慮を賜りたくお願い申し上げる次第である。

 地元住民・区民の粘り強いり組みもあって、今日、図書館施設の一部として保存活用されている。赤煉瓦棟を生かしたカフェがあったり、ガラス越しに痕跡を保存したり・・・、明治以来の「軍都」の歴史資料の閲覧など北区独自の取り組みが根付いているようです。

正面。北側は広い芝生の広場と児童公園が設置されている。





側面。遊歩道を挟んで西側が「自衛隊十条駐屯地」。

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