大田区内で、旧東海道は二箇所残っているそうです。その一つは多摩川の手前、六郷土手付近。すでに歩きましたが、短い区間しか残っていませんでした。もう一つがここ。こちらの方が街道筋らしく商店街をつくっていて昔の雰囲気が残っています。今回は、南から北へ向かいました。
出発地点は、第一京浜と産業道路との分岐点、大森警察署の北側の道。黄色い線で表示された道が旧東海道。道標や案内板も整備されていてわかりやすい道でした。「美原・ミハラ商店街」通り。右が北。
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左が1880年頃のようす。大森の北付近では、海岸縁を通っている。右が1970年頃のようす。西側の広い道路は「第一京浜」(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
南側(第一京浜方向)を望む。
北を望む。
誰が記したのか、街路樹の柱に「日本橋14キロ、品川宿5キロ」とあった。
道幅は昔のまま?
海苔の老舗がちらほら街道筋に大きな店舗を構えている。
大森の海苔は江戸時代には御膳海苔として上納されるほど品質に優れ、後にはその生産技術は全国に広められました。日本の海苔養殖発祥の地とも言われ、海苔生産の中心的な役割を果たしてきました。
昭和37年の埋め立てにより大森の海苔養殖の歴史は閉じられましたが、今も多くの海苔問屋が残り、日本全国から海苔が集まり。全国に販売される海苔流通の要として生き続けています。
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HPより)
モニュメント。
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しばらく進むと、「内川橋」。東海道と羽田道との分岐になっていた。
「するがや通り(羽田道)」
するがや通りは内川のたもとに旅籠駿河屋があったことから名づけられた。東海道の内川橋際から分岐し、羽田弁天や川崎大師の参詣道だったことから羽田道、江戸道などと呼ばれる。羽田の魚貝や糀谷の玉ねぎ等の産物を運ぶ道でもあった。
説明板。
「旧東海道(美原通り)」
・・・昭和2年(1927)東海道は拡幅整備され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのはこの美原通りと六郷地区の一部だけとなった。・・・旧東海道はかつて三原通りと呼ばれた。三原とは、南原、中原、北原のことで、美称して美原となった。
北の地点から「内川橋」を望む。
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1880年頃のようす(「同」より)。→が「内川橋」、←が「羽田道」。








左が1880年頃のようす。大森の北付近では、海岸縁を通っている。右が1970年頃のようす。西側の広い道路は「第一京浜」(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。





大森の海苔は江戸時代には御膳海苔として上納されるほど品質に優れ、後にはその生産技術は全国に広められました。日本の海苔養殖発祥の地とも言われ、海苔生産の中心的な役割を果たしてきました。
昭和37年の埋め立てにより大森の海苔養殖の歴史は閉じられましたが、今も多くの海苔問屋が残り、日本全国から海苔が集まり。全国に販売される海苔流通の要として生き続けています。
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しばらく進むと、「内川橋」。東海道と羽田道との分岐になっていた。
「するがや通り(羽田道)」
するがや通りは内川のたもとに旅籠駿河屋があったことから名づけられた。東海道の内川橋際から分岐し、羽田弁天や川崎大師の参詣道だったことから羽田道、江戸道などと呼ばれる。羽田の魚貝や糀谷の玉ねぎ等の産物を運ぶ道でもあった。

「旧東海道(美原通り)」
・・・昭和2年(1927)東海道は拡幅整備され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのはこの美原通りと六郷地区の一部だけとなった。・・・旧東海道はかつて三原通りと呼ばれた。三原とは、南原、中原、北原のことで、美称して美原となった。




