「大蔵」バス停。
この先、左手に大きなお屋敷。立派な長屋門。
来た道を振り返る。
二叉になっていて、右の細い道・旧道を進みます。
分岐点の今昔。(現在)
(1880年代)
旧中原街道は、直線で続いている。
高座郡・寒川町のマンホール。
町の花「水仙」をデザイン。下部に「さむかわ」「おすい」の文字。
すぐ「日産工機」工場の敷地にぶつかります。
工場のフェンス沿いに進み、左折します。
「寒川小学校前」交差点。
二叉になっている、右手を進みます。
坂道を下っていくと、墓地の脇に、
「中原街道」解説板。
江戸虎ノ門(東京都港区)を起点に中原(平塚市)に至る脇街道で、寒川町内では大蔵・小谷・岡田・一之宮を通り、田村の渡しで相模川を越えました。
古代・中世にもこのルートを通る道があったとされますが、江戸時代初期に徳川家康が鷹狩りの拠点である中原御殿や、駿府(静岡市)への往復に頻繁に通行するようになり、中原街道として整備されました。江戸時代中期以降は物資輸送にも広く利用され、中でも中原近在で生産した「成瀬酢」を江戸へ運ぶのに使われたため「お酢街道」の別称もありました。
町内では、ここ宮山の根岸地区や、小谷などに江戸時代の街道の名残をみることができます。
平成三十年三月 寒川町教育委員会
振り返る。
坂道を下って行きます。
※マンホールは、中央に町章、その下に「汚水」の文字入り亀甲模様。
この付近の今昔。
(現在)この先、旧道は消滅? (1880年代)
細い直線の道。
※今回歩いた道は、墓地脇に「中原街道」の案内板があった道でした。
いつも参考にしている「歴史的農業環境閲覧システム」1880年代では、現在の中原街道がすでに本道として確立しています。
今回歩いた旧道は細い道ですが、直線で続いています。当初の街道の道筋であるようです。
しかし、この先、相模川・田村の渡しへの道は定かではなくなっています。※相模川の流路変遷が複雑。
JR相模線の踏切へ。左へ折れると「寒川駅」に。
しかし、駅に向かう前に、右に折れていきます。実は、廃線跡があります。次回、番外編で紹介。そして、意外な展開に。