法事があって出かけたところが富士宮の狩宿(白糸の滝の近所)。ちょうど「狩宿の下馬桜」が満開。この時期、「さくらまつり」も開かれ、大いに賑わっていました。法事後の会食の席がその狩宿。
宴が始まるまでのつかの間、初めてこの曰く因縁のある桜を見に行きました。
狩宿の下馬桜(かりやどのげばざくら)は、樹齢800年以上の日本最古級のヤマザクラで、学名はアカメシロバヤマザクラ。国の特別天然記念物に指定され、また日本五大桜にも指定されている、という。
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写真上から(のこりの4つ)
・三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
・山高神代桜(山梨県北杜市)
・石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)
・根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市)
※このうち、狩宿の下馬桜のみ、「特別天然記念物」に指定されている。
1193(建久3)年、源頼朝が富士山麓で巻狩りを行った際、馬から下りた所とされたことから「狩宿の下馬桜」と呼ばれるようになった。また下馬の際、桜に馬をつないだとも言われ、「駒止めの桜」という別名も。
樹齢は800年を越え、かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木であった。しかし度重なる台風などの影響で、最盛期の姿はない。それでも、若木が出てきて薄い桜色(まさに)の淡い花を一面に咲かせていました。
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下馬桜。
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その下には、菜の花。取り合わせが春爛漫という雰囲気で、すてきです。
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かつてのようす。幹周り8メートル以上、高さ35メートルという「偉容」を感じさせます。
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説明板。
最後に記された歌は、江戸幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜の詠んだ歌。
“ あわれその駒のみならず見る人の 心をつなぐ山桜かな ”
この桜はこの地の旧家である井出家の屋敷内にある。井出家は、頼朝が巻狩りを行ったときに泊まったとされる由緒あるお屋敷。
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ちょうど応募された短歌・俳句の表彰式が門前で行われていました。正面奥が「高麗門」と長屋。
井出家に残されている門は高麗門と呼ばれるもので城の城門として使われる様式。
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白壁。
待てよ! たしかこの巻き狩りの時「曾我兄弟の仇討ち」という事件が起きたのではなかったか? そこで富士宮市のHPを開くと詳細に載っていました。以下引用。
源頼朝は、今から811年前の建久4年(1193)5月に、白糸の狩宿に宿所を置き、多くの御家人を集めて現在の朝霧高原一帯で巻狩を催しました。
その巻狩の最中に、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が父の敵工藤祐経を討った「曽我兄弟の仇討ち」といわれる事件が起きました。
富士宮市内には、「富士の巻狩」と「曽我兄弟の仇討ち」に関係する伝説や地名が各所に残されています。これらを紹介しながら、この地域の歴史上もっとも有名な出来事を振り返ってみたいと思います。
1.富士の巻狩
源頼朝は、建久4年(1193)に多くの御家人(将軍の家来)を集めて富士山の裾野で巻狩を行いました。この巻狩は建久4年5月8日から6月7日にかけて行われ、初めは現御殿場市から裾野市にかけての辺りで行い、源頼朝は5月15日に富士野の御旅館に入り、6月7日まで現在の上井出・原・内野・人穴・猪之頭を中心とする富士宮市北部一帯で巻狩を行いました。
巻狩は単に狩猟を楽しむだけのものではなく、富士の裾野に諸国の御家人が集まり、将軍頼朝の前で勢子(鳥獣を追い出す人)の追い立てた獲物を馬に乗って弓で射る武術の訓練を目的とした催しで、大軍事演習といえるものでした。
この武家集団による大規模な巻狩は、将軍頼朝を中心とした東国武士の力を京都の公家の人たちに認めさせるためだったと考えられています。それは、建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開き、武家政権を発展させていこうという頼朝の将軍としての実力を天下に示す機会ではなかったかと考えられています。
2.源頼朝の宿所
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【井出家周辺の地図】
源頼朝が巻狩の時に宿所とした所が、現在の狩宿井出家及びその周辺だったと考えられています。近くには御家人の宿所も作られたようです。
宿所の置かれた狩宿井出家の周辺は、西は芝川の深い谷となり、東は大沢崩れから流れてきた大石がごろごろする川原だったと考えられ、宿所を構えるために適した要害の地であったといえます。
井出家居宅は安永5年(1776)に焼失し、さらに寛政9年(1797)再度焼失し現在地に再建されたといわれています。かつては、隣接する元屋敷といわれる所(現在は水田)に家があり、そこが頼朝の宿所の跡だと伝えられています。
狩宿井出家の入り口に、狩宿の下馬ザクラといわれるアカメノヤマザクラの老木があります。巻狩のおりに、ここで頼朝が馬から下りた「下馬ザクラ」だとか、このサクラに頼朝が馬をつないだ「駒止のサクラ」だとかいわれています。また、頼朝が宿所の前に差した杖が根付いたものだとも伝承されています。
3.曽我兄弟の仇討ち
巻狩は、現朝霧高原一帯で、御家人たちの武勇伝や失敗談など多くの話題を繰り広げながら進行していきました。そうしたおり建久4年5月28日の夜、降りしきる雨の中工藤祐経の宿所に押し入った曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟によって、工藤祐経と王藤内が殺戮されるという大事件が起きましした。いわゆる「曽我兄弟の仇討ち」といわれる事件です。
仇討ちを果たした後、兄弟は騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、十郎祐成は新田四郎忠常に討たれ、五郎時致は女装した五郎丸によって捕らえられ翌日処刑されたといわれています。
この地域の伝承として、音止の滝東側の工藤祐経の陣所が置かれたといわれる所には、祐経の墓があります。
また、曽我八幡宮東の辺りに新田四郎忠常の陣所が置かれ、この近くで兄十郎祐成が討たれたといわれ、小高い丘の上に曽我兄弟の墓があります。
4.工藤祐経と曽我兄弟
工藤祐経は幼くして父を失い、その領地は従兄に当たる伊東祐親(曽我兄弟の祖父)が預かり、祐親は祐経から領地(伊東の荘)の実権を奪ってしまいました。祐経は、祐親の助けを受けて育ち、成人すると祐親の娘を妻として迎えました。やがて祐経は伊東の荘の正統な領主は自分であることに気付き、祐親に領地の返還を迫りましたが祐親がそれに応じませんでした。しかも、祐経は妻(祐親の娘)との仲も裂かれてしまった。
そんなとき、安元2年(1176)10月に祐親が近隣の武士を集めて伊豆奥野で狩を催しました。その帰り道の祐親をねらって、祐経は家来の大見小藤太と八幡三郎に弓を射掛けさせました。矢は目指す祐親には当たらず、傍らにいた息子の河津三郎祐泰にあたり祐泰はその場で息絶えた。その時、祐泰には五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟がいました。
祐泰の亡き後、妻満江御前は兄弟を連れて曽我太郎祐信の元へ再び嫁ぎました。曽我の荘で育った兄弟は、元服して兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗りました。
5.『曽我物語』の成立と広まり
曽我兄弟の仇討ちは、巻狩に集まった多くの東国武士に鮮烈な印象を与えました。その東国武士の語る曽我兄弟の話が語り継がれ、それを『曽我物語』としてまとめたのは、箱根権現や伊豆山権現の僧であろうといわれています。
その後十巻から成る真名本(漢字のみで表記)『曽我物語』が僧侶によって書写され、室町時代中ころになると仮名本(仮名交じり表記)が登場しました。
『曽我物語』は、兄弟の不運な生涯と、その悲劇的な最期が民衆の間に共感を呼び、文学や芸能の分野でも盛んに取上げられ、次第に脚色されてきました。芸能分野では室町時代には能や浄瑠璃などで取上げられ数多くの作品が生まれました。
江戸時代には歌舞伎の世界にも取上げられ、民衆の人気に支えられて次々と新しい趣向の作品が生み出されました。
歌舞伎で「曽我物語」が盛んに上演されるようになると浮世絵にも描かれるようになり、数多くの「曽我物」と言われる物語絵・武者絵・役者絵等が出版されました。
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HPより)
少年時代、この話を絵本でも読み物でも見た記憶があります。しかし、たまたま居合わせた30代後半の息子・娘に聞いても全く知らない話だった! がっくり!
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一面の菜の花畑。左奥が富士山。残念ながら雲に隠れていました。
宴が始まるまでのつかの間、初めてこの曰く因縁のある桜を見に行きました。
狩宿の下馬桜(かりやどのげばざくら)は、樹齢800年以上の日本最古級のヤマザクラで、学名はアカメシロバヤマザクラ。国の特別天然記念物に指定され、また日本五大桜にも指定されている、という。
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写真上から(のこりの4つ)
・三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
・山高神代桜(山梨県北杜市)
・石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)
・根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市)
※このうち、狩宿の下馬桜のみ、「特別天然記念物」に指定されている。
1193(建久3)年、源頼朝が富士山麓で巻狩りを行った際、馬から下りた所とされたことから「狩宿の下馬桜」と呼ばれるようになった。また下馬の際、桜に馬をつないだとも言われ、「駒止めの桜」という別名も。
樹齢は800年を越え、かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木であった。しかし度重なる台風などの影響で、最盛期の姿はない。それでも、若木が出てきて薄い桜色(まさに)の淡い花を一面に咲かせていました。
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最後に記された歌は、江戸幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜の詠んだ歌。
“ あわれその駒のみならず見る人の 心をつなぐ山桜かな ”
この桜はこの地の旧家である井出家の屋敷内にある。井出家は、頼朝が巻狩りを行ったときに泊まったとされる由緒あるお屋敷。
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ちょうど応募された短歌・俳句の表彰式が門前で行われていました。正面奥が「高麗門」と長屋。
井出家に残されている門は高麗門と呼ばれるもので城の城門として使われる様式。
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待てよ! たしかこの巻き狩りの時「曾我兄弟の仇討ち」という事件が起きたのではなかったか? そこで富士宮市のHPを開くと詳細に載っていました。以下引用。
源頼朝は、今から811年前の建久4年(1193)5月に、白糸の狩宿に宿所を置き、多くの御家人を集めて現在の朝霧高原一帯で巻狩を催しました。
その巻狩の最中に、曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が父の敵工藤祐経を討った「曽我兄弟の仇討ち」といわれる事件が起きました。
富士宮市内には、「富士の巻狩」と「曽我兄弟の仇討ち」に関係する伝説や地名が各所に残されています。これらを紹介しながら、この地域の歴史上もっとも有名な出来事を振り返ってみたいと思います。
1.富士の巻狩
源頼朝は、建久4年(1193)に多くの御家人(将軍の家来)を集めて富士山の裾野で巻狩を行いました。この巻狩は建久4年5月8日から6月7日にかけて行われ、初めは現御殿場市から裾野市にかけての辺りで行い、源頼朝は5月15日に富士野の御旅館に入り、6月7日まで現在の上井出・原・内野・人穴・猪之頭を中心とする富士宮市北部一帯で巻狩を行いました。
巻狩は単に狩猟を楽しむだけのものではなく、富士の裾野に諸国の御家人が集まり、将軍頼朝の前で勢子(鳥獣を追い出す人)の追い立てた獲物を馬に乗って弓で射る武術の訓練を目的とした催しで、大軍事演習といえるものでした。
この武家集団による大規模な巻狩は、将軍頼朝を中心とした東国武士の力を京都の公家の人たちに認めさせるためだったと考えられています。それは、建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開き、武家政権を発展させていこうという頼朝の将軍としての実力を天下に示す機会ではなかったかと考えられています。
2.源頼朝の宿所
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源頼朝が巻狩の時に宿所とした所が、現在の狩宿井出家及びその周辺だったと考えられています。近くには御家人の宿所も作られたようです。
宿所の置かれた狩宿井出家の周辺は、西は芝川の深い谷となり、東は大沢崩れから流れてきた大石がごろごろする川原だったと考えられ、宿所を構えるために適した要害の地であったといえます。
井出家居宅は安永5年(1776)に焼失し、さらに寛政9年(1797)再度焼失し現在地に再建されたといわれています。かつては、隣接する元屋敷といわれる所(現在は水田)に家があり、そこが頼朝の宿所の跡だと伝えられています。
狩宿井出家の入り口に、狩宿の下馬ザクラといわれるアカメノヤマザクラの老木があります。巻狩のおりに、ここで頼朝が馬から下りた「下馬ザクラ」だとか、このサクラに頼朝が馬をつないだ「駒止のサクラ」だとかいわれています。また、頼朝が宿所の前に差した杖が根付いたものだとも伝承されています。
3.曽我兄弟の仇討ち
巻狩は、現朝霧高原一帯で、御家人たちの武勇伝や失敗談など多くの話題を繰り広げながら進行していきました。そうしたおり建久4年5月28日の夜、降りしきる雨の中工藤祐経の宿所に押し入った曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟によって、工藤祐経と王藤内が殺戮されるという大事件が起きましした。いわゆる「曽我兄弟の仇討ち」といわれる事件です。
仇討ちを果たした後、兄弟は騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、十郎祐成は新田四郎忠常に討たれ、五郎時致は女装した五郎丸によって捕らえられ翌日処刑されたといわれています。
この地域の伝承として、音止の滝東側の工藤祐経の陣所が置かれたといわれる所には、祐経の墓があります。
また、曽我八幡宮東の辺りに新田四郎忠常の陣所が置かれ、この近くで兄十郎祐成が討たれたといわれ、小高い丘の上に曽我兄弟の墓があります。
4.工藤祐経と曽我兄弟
工藤祐経は幼くして父を失い、その領地は従兄に当たる伊東祐親(曽我兄弟の祖父)が預かり、祐親は祐経から領地(伊東の荘)の実権を奪ってしまいました。祐経は、祐親の助けを受けて育ち、成人すると祐親の娘を妻として迎えました。やがて祐経は伊東の荘の正統な領主は自分であることに気付き、祐親に領地の返還を迫りましたが祐親がそれに応じませんでした。しかも、祐経は妻(祐親の娘)との仲も裂かれてしまった。
そんなとき、安元2年(1176)10月に祐親が近隣の武士を集めて伊豆奥野で狩を催しました。その帰り道の祐親をねらって、祐経は家来の大見小藤太と八幡三郎に弓を射掛けさせました。矢は目指す祐親には当たらず、傍らにいた息子の河津三郎祐泰にあたり祐泰はその場で息絶えた。その時、祐泰には五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟がいました。
祐泰の亡き後、妻満江御前は兄弟を連れて曽我太郎祐信の元へ再び嫁ぎました。曽我の荘で育った兄弟は、元服して兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗りました。
5.『曽我物語』の成立と広まり
曽我兄弟の仇討ちは、巻狩に集まった多くの東国武士に鮮烈な印象を与えました。その東国武士の語る曽我兄弟の話が語り継がれ、それを『曽我物語』としてまとめたのは、箱根権現や伊豆山権現の僧であろうといわれています。
その後十巻から成る真名本(漢字のみで表記)『曽我物語』が僧侶によって書写され、室町時代中ころになると仮名本(仮名交じり表記)が登場しました。
『曽我物語』は、兄弟の不運な生涯と、その悲劇的な最期が民衆の間に共感を呼び、文学や芸能の分野でも盛んに取上げられ、次第に脚色されてきました。芸能分野では室町時代には能や浄瑠璃などで取上げられ数多くの作品が生まれました。
江戸時代には歌舞伎の世界にも取上げられ、民衆の人気に支えられて次々と新しい趣向の作品が生み出されました。
歌舞伎で「曽我物語」が盛んに上演されるようになると浮世絵にも描かれるようになり、数多くの「曽我物」と言われる物語絵・武者絵・役者絵等が出版されました。
(Image may be NSFW.
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少年時代、この話を絵本でも読み物でも見た記憶があります。しかし、たまたま居合わせた30代後半の息子・娘に聞いても全く知らない話だった! がっくり!
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