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Channel: おやじのつぶやき
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「上毛電鉄」。その1。JR前橋駅・「サイタ サイタ チューリップ ノ ハナガ」。前橋市の花バラ。生まれ故郷・桐生。(関東ローカル私鉄の旅。その5。)

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今回は、上毛電鉄に。JR前橋駅で下車、上毛電鉄の始発駅「中央前橋駅」まで徒歩で約15分。終点の「西桐生駅」までの旅。

8月18日(金)。晴れ。

前橋駅から中央前橋駅までメインストリート「けやき通り」を歩く人もほとんどいない炎天下。

前橋駅。

ところで、前橋駅の発車ベルが「咲いた咲いたチューリップの花が」のメロディー。

作曲した方が前橋の出身のようです。

駅前のモニュメント。

サイタ サイタ チューリップ ノ ハナガ、
ナランダ ナランダ アカ シロ キイロ、ドノ ハナ ミテモ キレイ ダナ。

         「井上武士」。

井上 武士は、日本の作曲家。東京音楽大学教授。群馬県勢多郡芳賀村(現在の前橋市)出身。代表作は「チューリップ」「海」。作曲数は約500曲とも200曲以上ともされ、日本音楽史上に残る数々の唱歌・童謡の作品を遺した。上記2曲は日本の歌百選に選ばれている。

※「海」 

海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら

海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国

前橋市のマンホール。

                 市の花バラが蓋一面い描かれている。

上毛電鉄「中央前橋駅」。

              

      

                                  (「上毛電鉄」HPより)

赤城山南麓を東西に横断する線形で、赤城山系が一望でき、桐生市内では渡良瀬川を渡る。沿線途中はおおむね小規模の町や農業地帯である。主力は朝夕の高校生通学輸送である。

10数年前より、上毛電鉄では利用客減少による経営危機が問題となり、国の赤字補填の補助も打ち切られたことから、群馬県では鉄道を道路と同じ社会的インフラとみなして、設備の維持経費を県や地元自治体が負担する上下分離方式に基づく支援体制を整えました。

※「群馬式上下分離方式」

上毛電鉄の利用者数は、1965年の958万人をピークに減少の一途をたどっていました。1974年以降は経常損失が恒常化。そのため、1976年より国と県から鉄道軌道欠損補助を受けるようになります。

沿線自治体は、1980年に「上毛線再生等検討協議会(現・上電沿線市連絡協議会)」を発足。上毛電鉄の利用促進などの取り組みを始めます。しかし、利用者の減少に歯止めがかからず、1989年の輸送人員は362万人にまで落ち込みます。

1995年、国は鉄道軌道欠損補助を2年後の1997年に廃止することを公表します。毎年1億円前後の補助を受けていた上毛電鉄にとって、最大のピンチです。そこで沿線自治体は1996年、「上毛線再生等検討協議会(現・上毛線再生協議会)」を組織。自治体の補助額は、トータルで年間約3億円以上。2018~22年度の第4期経営再建計画では、5年間で総額19億5,000万円を支援しています。負担割合は、車両などの設備更新に関しては国、県、沿線自治体がそれぞれ3分の1ずつ、線路や車両の維持については県が6割、沿線自治体が4割としています。

・・・

実は、桐生は生まれたところ、前橋は母親の生まれたところ。まさに故郷を感じる土地。しかし、3歳頃に東京に出て以来、もう40年以上訪れたことがありません。

地元の親戚ともすっかり疎遠になり、住まいも分からず。

次第に記憶も薄れ、唯一、2歳頃、桐生市の「水道山(公園)」(今も健在らしい)で撮った古びた写真のみ。

それでも、「桐生」には不思議と愛着があります。

こうして、初めての「上毛電鉄」。

「利根川」歩きのとき、「中央前橋駅」の北西に位置する「広瀬川」沿いに「萩原朔太郎記念館」など訪ねたことがあります。

「萩原朔太郎記念館」。

萩原朔太郎(1886~1942)は、1886(明治19)年に前橋で生まれ、38歳までこの地で過ごしました。1917(大正6)年刊行の第一詩集『月の吼える』と、1923(大正12)年刊行の詩集『青猫』によって日本近代詩史に不滅の金字塔を打ち立てました。

詩人の生家は、1968(昭和43)年まで前橋市千代田町2丁目にありました。往時の姿は左図に示したとおりですが、現在はポケットパークを残すのみとなっています。

生家の一部だった「土蔵」「離れ座敷」「書斎」を敷島ばら園内に移築復元し、1980(昭和55)年より「萩原朔太郎記念館」として長く保存公開していましたが、敷島公園からこの地に移築し、2017(平成29)年4月より同じく「萩原朔太郎記念館」として公開しています。

広瀬川を挟んで向かいに位置する前橋文学館の展示とともに、詩人の息遣いを感じ取っていただけたら幸いです。

※生家は「萩原医院」として、広大な敷地内に診察室や病室などがありました。

書斎。

生家の裏庭にあった味噌蔵を改造したもので、1913(大正2)年10月に工事を始め、約2ヶ月を要して完成しました。内部はすべてセセッション式に統一され、二重カーテンレール荷は東京三越から取り寄せたカーテンが吊り下げていました。特注品の机と椅子には朔太郎が考案した草花模様の衣装が施されています。『月に吠える』『青猫』などの作品はこの部屋で主に書かれたものです。また、マンドリンの演奏などにも使われ、書斎兼音楽室として使われていました。室生犀星や北原白秋と親しく語り合ったのもこの部屋でした。

屋根に猫のオブジェ。

書斎の屋根の上に設置してある猫のオブジェは前橋市出身の陶作家、林麻衣子さんの制作によるもの。

「広瀬川」の流れ。青く澄んでいて素晴らしい。

川沿いの遊歩道は「広瀬川詩の道」と名付けられ、前橋市が主催する現代詩を対象とした文学賞「萩原朔太郎賞」の受賞作品の詩碑が建てられています。


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