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Channel: おやじのつぶやき
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歌舞伎鑑賞教室。その5。歌舞伎18番のうち『外郎売(ういろううり)』。2019年歌舞伎座7月公演。市川海老蔵、勸玄親子の競演。ういろう。

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歌舞伎十八番とは、歌舞伎界の宗家とも呼ばれる市川團十郎家のお家芸として制定された、以下に示す歌舞伎の18演目のことです。

勧進帳(かんじんちょう) 助六(すけろく) 暫(しばらく) 矢の根(やのね) 毛抜(けぬき) 鳴神(なるかみ) 不動(ふどう) 外郎売(ういろううり) 押戻(おしもどし) 景清(かげきよ) 解脱(げだつ) 不破(ふわ) 象引(ぞうひき) 七つ面(ななつめん) 関羽(かんう) 嫐(うわなり) 蛇柳(じゃやなぎ) 鎌髭(かまひげ)

歌舞伎十八番は、7代目市川團十郎【いちかわだんじゅうろう】によって1832年(天保【てんぽう】3年)に定められました。初代から4代目までの團十郎が、初めて演じてしかも得意にしていた18の作品を集めたものです。
 その内容は、一番新しい作品でも当時から50年も前に上演されたものでした。そのため、先祖の團十郎が得意にしていたことはわかっていても、作品の中味がはっきりしないものも多く含まれています。例えば、『関羽【かんう】』や『蛇柳【じゃやなぎ】』などです。これらの作品は、後に復活されていきます。
 代々の團十郎は荒事を最も得意としたため、歌舞伎十八番の役はほとんどが荒事です。

歌舞伎十八番が制定されたのは江戸時代の天保3年(1832年)の3月に、七代目市川團十郎によって「歌舞妓狂言組十八番かぶききょうげんぐみじゅうはちばん」(伎ではなく妓)が発表されたことが起源となっています。

当時から江戸歌舞伎を代表する家系であった市川團十郎家ですが、七代目團十郎はさらに権威を高めたいと考えました。

そこで息子に八代目市川團十郎を襲名させるのに合わせて、市川家が代々得意としてきた17の演目に七代目自らが始めた「勧進帳」を加えた18演目を「歌舞妓狂言組十八番」という名称を付けて世間に公表したのです。

これは市川團十郎家が代々演じてきた荒事の「家の芸」というものを改めて世間に認識させ、はっきりとわかる形で代々受け継がせていきたいという狙いもありました。そしてその狙いは功を奏し、今では「歌舞伎十八番」という名称で市川團十郎家のお家芸として広く知られるようになりました。

得意なことを「十八番(おはこ)」というのは歌舞伎十八番から?

市川團十郎家にとってなくてはならないお家芸として制定されたのが歌舞伎十八番です。

この18演目は箱に納めて封印され、安易に披露するものではないとされたので、そこから「おはこ」と呼ばれるようになり、後に得意なことを「十八番(おはこ)」と表現するのはこれが起源だという説がありますが、これは間違いです。

この件について演劇評論家の赤坂治績氏は以下のように指摘します。

「おはこ」という読み方は歌舞伎十八番が制定された天保3年(1832年)以前から使われていた。・・・(中略)・・・台本を木の箱に入れて取っていたという説も無意味である。江戸時代は3年に一度くらい大火があった、・・・(中略)・・・火事になれば箱も台本も燃えてしまう。

「おはこ」とは本来は美術品などの鑑定書を、その箱の蓋に貼って本物だと証明していた「箱書付」が略されたものであり、「正しいと認定された」という意味で使われていました。

歌舞伎十八番の人気が高まるにつれて、段々と「十八番」を「おはこ」と呼ぶようになり、意味も「得意芸」というふうに変わっていったのではないでしょうか。

(この項、「」HPより)

その一つ、外郎売(ういろううり)

外郎売は、実は曽我の五郎時致です。
 大磯の廓で酒宴を張る工藤祐経のもとに、小田原名物の外郎売に身をやつした五郎がやってきます。兄、十郎祐成と共に父の敵である祐経を討とうとつけ狙っていたのです。
 素性を隠して外郎の商いを始めた五郎は、隙をついて祐経を討とうとするものの止められてしまいますが、祐経は曽我兄弟の親を思う気持ちに心打たれ、後日改めて勝負することを約束するのでした。

第一節

拙者親方せっしゃおやかたと申すは、お立会たちあいの中うちに、御存ごぞんじのお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方にじゅうりかみがた、相州小田原一色町そうしゅうおだわらいっしきまちをお過ぎなされて、青物町あおものちょうを登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門らんかんばしとらやとうえもん、只今ただいまは剃髪致ていはついたして、円斉えんさいと名のりまする。

元朝がんちょうより、大晦日おおつごもりまで、お手に入れまする此の薬は、昔陳ちんの国の唐人とうじん、外郎ういろうという人、わが朝ちょうへ来たり、帝みかどへ参内さんだいの折りから、この薬を深く籠こめ置き、用もちゆる時は一粒いちりゅうずつ、冠かんむりのすき間より取り出だす。

よってその名を帝より、透頂香とうちんこうと賜たまわる。即文字すなわちもんじには「頂いただき、透すく、香におい」と書いて「透頂香とうちんこう」と申す。

只今はこの薬、殊ことの外ほか、世上せじょうに弘ひろまり、方々ほうぼうに偽看板にせかんばんを出いだし、イヤ、小田原おだわらの、灰俵はいだわらの、さん俵だわらの、炭俵すみだわらのと、いろいろに申せども、平仮名ひらがなをもって「ういろう」と記せしは、親方円斉おやかたえんさいばかり。

もしやお立会いの中うちに熱海あたみか塔の沢とうのさわへ、湯治とうじにお出なさるるか、または伊勢御参宮いせごさんぐうの折からは、必ず門違かどちがいいなされまするな。

お上のぼりならば右の方かた、お下くだりなれば左側、八方はっぽうが八つ棟やつむね、表おもてが三つ棟みつむね玉堂造ぎょくどうづくり。

破風はふには菊に桐きりの薹とうの御紋ごもんを御赦免ごしゃめんあって、系図けいず正しき薬でござる。

第二節

イヤ最前さいぜんより家名かめいの自慢じまんばかり申しても、ご存知ぞんじない方には、正身しょうしんの胡椒こしょうの丸呑まるのみ、白河夜船しらかわよふね、さらば一粒食いちりゅうたべかけてその気味合きみあいをお目にかけましょう。

先ずこの薬をかように一粒舌いちりゅうしたの上にのせまして、腹内ふくないへ納おさめまするとイヤどうも言えぬは、胃い・心しん・肺はい・肝かんがすこやかになりて薫風候くんぷうのどより来たり、口中微涼こうちゅうびりょうを生しょうずるが如ごとし。

魚鳥ぎょちょう・茸きのこ・麺類めんるいの食い合わせ、その外、万病速効まんびょうそっこうある事神ことかみの如ごとし。

さて、この薬、第一の奇妙きみょうには、舌のまわることが、銭独楽ぜにごまがはだしで逃げる。ひょっと舌がまわり出すと、矢も楯たてもたまらぬじゃ。

第三節

そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ。

アワヤ候のど、サタラナ舌ぜつに、カ牙げサ歯音しおん、ハマの二つは唇くちびるの軽重けいちょう、開合かいごうさわやかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろお。

一つへぎへぎに へぎほし はじかみ、盆豆ぼんまめ 盆米ぼんごめ 盆ぼんごぼう、摘蓼つみたで 摘豆つみまめ 摘山椒つみさんしょう、書写山しょしゃざんの社僧正しゃそうじょう、粉米こごめの生噛なまがみみ 粉米こごめの生噛なまがみみ こん粉米こごめの小生噛こなまがみ、繻子しゅす・緋繻子ひじゅす・繻子しゅす・繻珍しゅっちん、親も嘉兵衛かへい 子も嘉兵衛かへい、親かへい子かへい 子かへい親かへい、古栗ふるぐりの木の古切口ふるきりぐち、雨合羽あまがっぱか番合羽ばんがっぱか、貴様の脚絆きゃはんも皮脚絆かわぎゃはん、我等が脚絆きゃはんも皮脚絆かわぎゃはん、しっ皮袴かわばかまのしっぽころびを、三針みはりはり長ながにちょと縫ぬうて、ぬうてちょとぶんだせ、河原撫子かわらなでしこ 野石竹のせきちく、のら如来にょらい のら如来にょらい 三みのら如来にょらいに六むのら如来にょらい。

一寸先いっすんさきのお小仏こぼとけに おけつまずきゃるな、細溝ほそみぞにどじょにょろり。

京の生鱈なまだら 奈良生学鰹ならなままながつお、 ちょと四五貫目しごかんめ、お茶立ちゃたちょ 茶立ちゃたちょ ちゃっと立たちょ茶立ちゃたちょ、青竹茶筅あおたけちゃせんでお茶ちゃちゃっと立たちゃ。

第四節

来るは来るは何が来る、高野こうやの山の おこけら小僧こぞう、狸百匹たぬきひゃっぴき 箸百膳はしひゃくぜん 天目百杯てんもくひゃっぱい 棒八百本ぼうはっぴゃっぽん。

武具ぶぐ・馬具ばぐ・ぶぐ・ばぐ・三みぶぐばぐ、合わせて武具ぶぐ・馬具ばぐ・六むぶぐばぐ、菊きく・栗くり・きく・くり・三菊栗みきくくり、合わせて菊きく・栗くり・六菊栗むきくくり、麦むぎ・ごみ・むぎ・ごみ・三みむぎごみ、合わせてむぎ・ごみ・六むむぎごみ。

あの長押なげしの長薙刀ながなぎなたは、誰だが長薙刀ながなぎなたぞ。

向こうの胡麻ごまがらは 荏えの胡麻ごまがらか、真胡麻まごまがらか、あれこそほんとの真胡麻殻まごまがら。

がらぴいがらぴい風車かざぐるま、おきゃがれこぼし おきゃがれ小法師こぼうし、ゆんべもこぼして 又こぼした。

たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干いっひだこ、落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食わぬ物は、五徳鉄灸ごとくてっきゅう かな熊童子ぐまどうじに、石熊いしぐま 石持いしもち 虎熊とらぐま 虎とらきす、中にも東寺とうじの羅生門らしょうもんには、茨木童子いばらきどうじがうで栗五合くりごんごうつかんでお蒸むしゃる。

彼かの頼光らいこうの膝元去ひざもとさらず。

第五節

鮒ふな・金柑きんかん・椎茸しいたけ、さだめて後段ごだんな、そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍ぐどんな小新発知こしんぼち、小棚こだなの、小下こしたの、小桶こおけに、こ味噌みそが、こ有あるぞ、小杓子こじゃくし、こ持もって、こ掬すくって、こよこせ、おっと合点がってんだ、心得こころえたんぼの川崎かわさき、神奈川かながわ、程ガ谷ほどがや、戸塚とつかは、走って行けば、やいとを摺すりむく、三里さんりばかりか、藤沢ふじさわ、平塚ひらつか、大礒おおいそがしや、小磯こいその宿を七ツ起ななつおきして、早天早々相州小田原そうてんそうそうそうしゅうおだわらとうちんこう、隠かくれござらぬ貴賎群衆きせんぐんじゅの、花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見てお心を、おやわらぎやという。

産子うぶこ、這はう子に玉子まで、此この外郎ういろうの御評判ごひょうばん、ご存知ないとは申されまいまいつぶり。

角出つのだせ、棒出ぼうだせ、ぼうぼうまゆに、臼うす・杵きね・すりばち、 ばちばちくわばらくわばらと、羽目はめを弛はずして今日こんにちお出いでの何れも様いずれもさまに、上げねばならぬ売らねばならぬと、息勢引いきせいひっぱり、東方世界とうほうせかいの薬くすりの元締もとじめめ、薬師如来やくしにょらいも上覧しょうらんあれと、ホホ敬うやまって、ういろうは、いらっしゃりませぬか。

※高校演劇などでも、滑舌の練習としても重用されています。

※2019年・歌舞伎座「七月大歌舞伎」、昼の部の『外郎売』の特別ポスター。市川海老蔵(現:団十郎、勸玄(現:新之助)親子の競演。当時、大きな話題となりました。

  

                                  (「」HPより)

※外郎とは元来、小田原の外郎家が製造・販売する薬を指し、和菓子のういろうはその口直しのために出されたと伝えられる。

以下、旧東海道歩きのとき、「小田原宿」の記事を再掲。

「小田原宿」。右手に大きな「お城」が。これが有名な「ういろう(外郎)本舗」。売られているのは漢方薬「ういろう」と、同名の和菓子「ういろう」。漢方薬は直径2ミリほどの銀色の粒。一方の和菓子は米粉から作ったようかんのような蒸し菓子だ。




ういろう(外郎)は、神奈川県小田原市の外郎家で作られている大衆薬の一種。仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。陳宗敬は明王朝を建国する朱元璋に敗れた陳友諒の一族とも言われ、日本の博多に亡命し日明貿易に携わり、輸入した薬に彼の名が定着したとされる。
 室町時代には宗敬の子・宗奇が室町幕府の庇護において京都に居住し、外郎家(京都外郎家)が代々ういろうの製造販売を行うようになった。戦国時代の1504年(永正元年)には、本家4代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った。後北条家滅亡後は、豊臣家、江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している。
 江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。
 歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない[3]。
 ういろうを売る店舗は城郭風の唐破風造りの建物で、一種の広告塔になったが、関東大震災の際に倒壊し、再建されている。
現在も外郎家が経営する薬局で市販されているが、購入には専門の薬剤師との相談が必要である。

『東海道中膝栗毛』(主人公は「弥次さん」「喜多さん」)。

 喜多「おやここのうちは、屋根にだいぶ凸凹があるうちだ」

 弥次「これが名物のういろうだ」
 
 喜多「ひとつ買ってみよう。うまいかな」
 
 弥次「うまいだろうよ。あごがおちるくらいだ」
 
 喜多「おや、餅かと思ったら、薬だ」

 弥次「はははは、こういうこともあろうか。
    ういろうを餅かとうまくだまされてこは薬じゃと苦いかほ(顔)する」
     
 小田原外郎家では「お菓子のういろう」と呼ばれ、ういろう(外郎)薬と区別されている。「白・茶・小豆・黒」と「栗ういろう」がある。
 小田原外郎家は元々薬屋であったため、ういろうに付いてくる説明書きには、胃腸の弱かったり病後の人間や成長期の子供、産婦なども安心して食べられる「栄養菓子」と記載されている。なお小田原城近くの本舗(本店)は、和菓子店や薬局として営業しているほか、1885年(明治18年)の蔵を利用した小規模の博物館を併設している。

 名古屋のういろうの老舗 青柳総本家 1879年(明治12年創業)が製造販売する「青柳ういろう」は、日本一の販売量を誇る。
 砂糖(しろ)・黒砂糖(くろ)・抹茶・小豆(上がり)・さくらのほか、さまざまな種類が楽しめる。「青柳」の屋号は徳川慶勝から贈られた。1931年(昭和6年)に名古屋駅の構内とプラットホームでういろうの立ち売りを始めた。
 1964年(昭和39年)に東海道新幹線が開通した後は、青柳ういろうだけが全列車内での車内販売を許されたことから、名古屋ういろうが全国的に知られるようになった。
 昭和43年に業界に先駆けてういろうのフィルム充填製法を開発。ういろうの包装技術を進化させることで、出来たての風味を閉じ込めういろうの日持ちを伸ばすことに成功し、ういろうの土産需要に貢献した。昭和56年には業界初のひとくちサイズのういろうを発売。 青柳ういろうの有名なローカルCMソングは多くの人に親しまれている。

(以上、「Wikipedia」参照)

「ういろう」(餅菓子)は、名古屋の「青柳総本家」が製造販売する「青柳ういろう」だとばかり思っていた小生。初めて知りました。実はそれほどうまいものという印象はないが。

近所のスーパーで売っていました。

  ・・・

(「」HPより)

 


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